わき道をゆく第251回 現代語訳・保古飛呂比 その74
一 (慶応二年)七月六日、東御屋敷で容堂公にお目通りし、兵庫開港の不可(よくないこと。すべきでないこと)を申し上げた。よって、武備を厳重にし、外人の侮りを受けぬようにする策を献言した。その際、昨日、外人の入港により、士気が大いに振るったことを例に挙げた。
老公(容堂公)は笑って、こう言われた。一隻の測量船が来た。驚愕して東西に奔走し、あるいは彼らを打ち払おうとする。このような小量(度量が狭いこと)では、とても国威を張ることはおぼつかない。お前たちはよろしく大目的を講究(物事を深く調べ、その意味や本質を説き明かすこと=デジタル大辞泉)して大事に当たれ、と。謹んで退出した。
一 七月十二日、左記の通り。
佐々木三四郞
右の者、藩の軍備につき、慎重に考慮した結果、当分馬廻り組に入れる。もろもろのお勤めは馬廻り同様に仰せつけられる。以上の通りご指示があったので、この旨を言い聞かせるようにされたい。以上。
七月十二日 柴田備後
片岡武右衛門殿
別紙の通り云々。
同日 片岡武右衛門
佐々木三四郞殿
一 同十六日、左記の通り。
御自身(高行本人のこと)は当分福岡宮内殿の組に入る。ただし、組付きの追手門番(の組)に入るので、その心積もりをするよう前後の組頭へも通知される。以上。
七月十六日 小笠原唯八 神山左多衛
佐々木三四郞殿
佐々木三四郞
右の者は当分、我々の組の座列の大町常之丞の次に入るので、そのつもりで。三四郞へも伝えるように。以上。
七月十六日 福岡宮内
柏原内蔵馬殿
別紙の通り云々。
同日 柏原内蔵馬
佐々木三四郞殿
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その方らは当分、二明組の小崎左司馬の支配下に入る。ただし、組付きの追手門番(の組)に入るので、その心積もりで云々。[年月日をなくした]
福岡藤次 小笠原唯八
佐々木三四郞殿
連名
一 七月下旬、後藤象次郞の長崎行きのこと。
後藤は佐幕開港論で、容堂公の御愛臣(寵愛する家臣)であるが、一般(※この場合は土佐の人民全般を指すと思われる)は勤王論が盛んになり、藩政府に人望がない。このため、(長崎で)大いに藩直営の商法を試しにやってみようということになったのである。また、一時的に「刺撃」(※勤王過激派による襲撃という意味か。よくわからない)を避けようということになった。このようであるから、日に月に人心はますます政府に望みを失った。もっとも、士格では佐幕論が十のうち九を占める。郷士・徒士以下の人民は一般に長州方である。その訳は、土佐国は元は長曾我部の領国で、豊臣公を慕い、徳川家を憎む気風で、また谷秦山先生(注①)の学派は、勤王国体を主張し、その流派が知らず知らず長いうちに(勤王の気風を)養成したのかもしれない。しかしながら山内家は徳川家に深い恩義があるので、門閥はみな佐幕論である。
士格の同志は、平井基之丞・小南五郎右衛門・山川久太夫・林勝兵衛・前野源之助・谷守部・深尾三九郎・林亀吉・横田祐造・本山只一郎・服部與三郎ら僅かである。そのほかはみな郷士以下である。それゆえ自分ら同志は、いつまでも山内家が勤王のために尽くすよう、周旋尽力する気持ちであるが、郷士・徒士以下は、大義によって勤王のためには藩士は顧みない傾向がある。そのため彼らは過激で脱藩が多い。自分らは前述の論であるから、自然と見込みも違うことになって、彼らから因循と呼ばれる。
【注①。朝日日本歴史人物事典によると、谷秦山(たにじんざん。没年:享保3.6.30(1718.7.27)生年:寛文3.3.11(1663.4.18))は「江戸前・中期の儒学者,神道家。名は重遠,秦山は号。土佐(高知県)に生まれる。家は代々,神職であった。17歳で京都に出て,山崎闇斎や浅見絅斎に学ぶ。土佐に帰ったのち,さらに闇斎門下の渋川春海に書簡を送り,天文・暦算や神道を学ぶ。藩主山内豊房に用いられて,藩士に学を講じるが,宝永4(1707)年豊房死後の政変で蟄居,10年余におよぶ。朱子学に神道をあわせた学問を展開し,一時絶えていた土佐南学派を再興した。その国体論は,幕末の勤皇倒幕運動にも影響を与えた。著書に『神代巻塩土伝』(全5巻),『元亨釈書抄』などのほか,『秦山集』(全50巻)がある。(柴田篤)」】
一 七月二十八、九日ごろ、将軍家茂公が病気大患の風聞。
これは次々と知らせが入ったが、(真相は)よく解らない。どういうものか。
八月
[参考]
一 この月十六日、一橋中納言(慶喜)が萩藩(長州藩)を討つ(任務)を断り、各諸侯を呼び集めて議論するよう求めた。朝廷がこれを許す。すなわち左記の通り。
一橋
節刀(注②)ならびに御馬を拝領。
これは八月九日の出発で、芸州方面へ出陣のため。
一橋建言書
私こと、大樹(将軍のこと)の名代として出陣することを許していただき、このほどお暇を願い、すぐに出発しようと思っていました。そうしたところ、大樹の病状が次第に重くなったということが諸藩一同に伝わったためでしょうか、九州方面(の幕府軍)が急に兵を解散し、以前から指揮のために出張していた小笠原壱岐守も大坂に引き揚げると言ってきました。私は、もとより長州征討の大任を果たす力はなく、固くお断り申し上げるべきところ、内外の急務、国家安危の瀬戸際と思いましたので、その分をわきまえず、一身に(大任を)引き受け、努力するつもりでおりました。ところが前述のような情勢になり、諸藩が引き上げましては、かねて申し上げた通り、薄力非才の私ではこのうえ諸藩を指揮することは所詮おぼつかなく、さらにまた諸藩においても、かねてのご趣意もあります折柄、急に解兵するのには、必ずやそれぞれの見込みもあることでしょう。ついては、この場において、至急諸藩を呼び集め、銘々の見込みもとくと承って、利害得失を見極め、天下公論の帰着するところで進退を決したいと思います。私はこれまで格別の寵愛の恩をいただき、朝廷のご命令で出陣に臨みながら、いまさらこのようなことを言上しましては、朝廷に対し、大いに恐懼しておりますが、このうえ大事を誤ることになれば、なおなお恐れ入りますので、真情を黙ったままにしておくことができずに申し上げます。このことを何とぞ寛大の思し召しをもって、微衷(自分の真心)のほどをよろしくご理解いただき、お許しのお沙汰をいただけますようお願い申し上げます。「前件之仕方」(※朝廷の出陣命令に反したことを指すか?)は結局、諸事不行き届きにより起きたことと、私は恐れ入っております。このため、謹んで罪を闕下(天子の御前)にお待ちします。誠恐誠惶、頓首謹言。
八月十六日 徳川中納言
【注②。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、節刀(せっとう)は「律令制下,遣唐使や出征の将軍に授けられた,指揮官の権威を示す象徴としての刀。701年(大宝元)遣唐使粟田真人(あわたのまひと)に授けたのが初例。節刀を授けられることは,天皇大権である死罪決定権を含む刑罰権を与えられることを意味したので,強大な指揮権の支えとなった。任を終えて帰京すれば返還した。律令制以前から出征の将軍にはなんらかの武器を授けていたとみられるが,中国で使者と将軍に授けられた節あるいは斧鉞(ふえつ)の制をうけ,制度的に整えられて節刀となった。」】
一 同月十七日、左記の通り仰せつけられる。
佐々木三四郞(※高行のもともとの身分は扈従格だった)
当分馬廻り組の一同へ
右の面々は慎重に評議した結果、新馬廻りを仰せつけられる。
右の通りお指図があった。
八月十七日
右は奉行のお宅において。
これには次のような事情がある。士格の階級は(家老・中老を除いて)六階級あった。すなわち御馬廻り・扈従格・新扈従・御馬廻り末子・新扈従末子・御留守居組だったが、吉田元吉(吉田東洋のこと)が参政だった文久二年三月二十八日、士格以下の階級改革により、士格は三階級になった。すなわち御馬廻りは元のまま。御扈従格・新御扈従・(新扈従)末子・御馬廻末子の四階級は御小姓組の一致級となり(※つまり四つの階級が御小姓組一本にまとめられたという意味)、御留守居組はもとのままとなった。もっとも御扈従格の由緒ある家筋は御馬廻りに仰せつけられた。このようになったので、御扈従格の連中は大不平となり、しばしば集会をして、(藩庁に)文書などを差し出すことになった。もっとも、自分は父上の名代で、その集会に二度ばかり出席したものの、議論が合わなかった。自分は、今日天下の形勢が容易ならざるときに、細かな士格の階級を論じ、藩政府に難題を申し出るのはよろしくないと、それで(彼らとの)同盟を謝絶した。しかしながら、重だった面々が前野常之丞・國澤才助・平井恒馬ら十名余もあり、そのほかは全員が同意したことで、しばしば政府に差し迫った。政府も、最初改革をした吉田元吉は間もなく暗殺され、一時その派の者たちは要路を退き、色々と変遷があって、それのみならず国事も年々混雑して、ようやく右の結果として、前述の通り、新馬廻りに元の扈従格は仰せつけられて、一同安堵した。もっとも自分は頓着せず、無関係だったが、同格一同のこと(※同格の者全員が同じ扱いを受けるという意味か)なので、同格(※つまり新馬廻りという意味か)を仰せつけられた。
なお士格は五階級となった。馬廻り・新馬廻り・扈従組・留守居組・新留守居組。
【注③。文久二年三月、吉田東洋による藩政改革の一環として、芸家世襲制度の廃止と身分制度の改革が行われた。それについて高行が『佐佐木老侯昔日談』の中で語っているので次に引用する。「三月二十三日[文久二年]軍学、弓術、槍術、剣術、居合術、馬術、太鼓、砲術、儒者、医師、馬医等の諸芸家をすべて差免ぜらるる事になつて、別に家筋によらず、人物を以て指南、導役に採用することとなつた。即ち文武司業、文館調役が四人新に仰付けらるる事となつた。これは吉田の主意で旧来家格に泥んで其弊たるや、殆ど有名無実となつたからである。尋で二十八日に、文武を奨励し、階級を糺す様にといふ御触が出た。全体土佐は、一豊公御入城の時分は誠に階級も単純で、別に煩しいこともなかつたが後世段々複雑になつて、先ず家老、中老、物頭、相伴格[医師]、馬廻、新馬廻、御扈従格、新扈従、馬廻子、新扈従末子、御留守居組、新御留守居組、白札、郷士、徒士の十五に分れて居たが、これも吉田の考で、其の煩雑の弊を矯めやうとしたのだ。最初は馬廻なぞも所詮藩主旗本の士で、かう名付けたに相違ないが、其の下に新馬廻といふものが出来、夫から馬廻末子などいふものも出来る。また君側を勤むる者が扈従であるが、後には新扈従だの、新扈従末子だのいふ者迄出来て来て、次第に複雑になつて来る。勿論侍は、藩公参勤交代の御供をせねばならぬのであるが、貧窮であるとか、病人があるとか、何か事情があつて、留守居を願ふ、夫が一ッの階級となつて、御留守居組といふものが出来た。白札といふものも、矢張りさういふ部類に属するもので、事故があつて御供が出来ぬ時には、名前へ白札を貼つたものが、また一階級となつた訳である。この白札といふのは、妙な一種の階級で、郷士の上に位して、旅行の節には槍を持たすが、士分よりよりは呼捨にする。半ば士、半ば軽格といふやうなものである。侍は当主のみならず二男三男幾人でも、皆士の待遇を受けるが、白札の嗣子は、徒士の待遇で、目見えも出来ぬ。例へば、侍は皆、晴天に日傘をさす事が出来るばかりでなく、家族も皆出来るけれども、白札は当主ばかりで、其の妻子抔はいかない。さうかと思ふと、この御留守居組と白札には随分旧家があつた。夫でさういふ煩雑を一掃して、簡約の階級を立てんければならぬと吉田が着眼したのが、即ち此度改革の発端で、其の三十日には、平士を御馬廻、御扈従組、御留守居組の三等に分ち、新扈従、同末子、御馬廻末子といふものを皆御扈従組に、御留守居組末子を御留守居組に進め、尚旧家だといふので、御扈従組より御馬廻に進められたものが九軒あつた。自分の親しい小原與市だの、吉田派屈指の者といはれた野中太内だのも其の中だ。同時に、今の理由で、御留守居組より御扈従組に仰付けられた者が三軒もあつた。ツマリこの改革は、因習の久しき、其の断行も余程六ヶ敷かつたが、吉田がァーいふ風であるから、思ひ切つてやつたのである。それ故後までも随分議論があつた。」】
一 八月二十日、将軍家茂公の薨去が発表された。実は、七月二十日、大坂で亡くなったとのこと。享年二十一。照徳院と称する。一橋慶喜公が跡継ぎとなった。
一 同二十三日、朝廷が将軍の喪により、しばらく長州征討の戦を停止する。
大樹が薨去した。(天子は家臣から人民に至るまで)上下の哀情のほどもお察しになり、しばらく兵事(戦争や軍隊に関する事柄)を見合わせよとお命じになった。ついては、長防(周防国と長門国)隣境の侵略地から早々に軍を引き払い、鎮定するよう取り計らうべきこと。
別紙の通り通達する。万一長防が命令に背いたら、早々に討ち入るようにすべきこと。
八月二十三日
[参考]
一 同二十三日、朝廷が征長総督紀伊中納言(和歌山藩主・徳川茂承)の労をねぎらった。 紀伊中納言
先鋒総督として出陣し、度々奮戦、諸藩の指揮も行き届いていたと(天子は)お聞きになり、満足しておられる。ことに長々と滞陣したことはご苦労だったとお思いである。このうえなお厚く尽力するようにとのご指示である。
なお出陣の諸藩へも同様に通達すること。長防へ接近の諸藩へもなお精々尽力を心得るよう通達すべきこと。
八月二十三日
一 八月二十八日、左記の通り仰せつけられる。
佐々木三四郞
右の者は、御手許臨時御用(※藩主もしくはご隠居さま直属の臨時御用という意味か)を仰せつけられる。
右の通り仰せつけられたので、この旨を申し聞かせるように。以上。
八月二十八日 深尾丹波 深尾左馬之助
小崎左司馬殿
ご自身(高行本人のこと)は、ご隠居さま御用と「取抜勤」(※本来の勤めとは違う部署で働くことかとも思われるが、よくわからない)の兼任を仰せつけられた。そのことを役場より通達するよう御家老衆から命じられたので、その心積もりで。勤め向きのことは東邸のお目付場へ伺い出るように。以上。
八月二十八日 林勇
佐々木三四郞殿
この者は、四国・中国・九州辺の探索御用のため、用意がととのい次第、出発することを仰せつけられたので、出立の日時を届け出るように。
右の通り命じられたので、この旨を申し聞かせるように。以上。
八月二十八日 深尾鼎 福岡宮内 山内下總
小崎左司馬殿
別紙の通り云々。
同日
小崎左司馬
佐々木三四郞殿
(※以下は高行が太宰府に出張するに至った背景事情を高行自身が解説したものだ。かなりの長文だが、これを読むと、幕末の土佐藩の政治史がわかる)
この(中国・四国・九州方面への)探索は、表面は中国・四国・九州となっているが、その実は、太宰府へ行くようにとの内々のご指示である。その訳は、そもそも藩政も種々の変遷があったが、そのなかで重大の件は、天保十四年、少将さま[豊資公]がご隠居され、養徳院さま[豊熈公]が家督を相続されたところ、養徳公は性格が温厚で、徳義を重んじられ、文武の士を愛し、狩猟・舞楽などを好まれず、もっぱら朱子学を尊信(尊び信じること)しておられた。このため藩の若輩の者たちは大いに志を励まされた。これより先の文政・天保年間は、天下一般は太平無事で悪政が多く、各藩その弊害を受け、我が藩政も振るわなかった。君側(君主の側近)の者たちには容姿艶麗な軟弱の子が用いられた。ゆえに優美な男を見れば、君側向きと呼ぶようになった。ところが養徳公は世子の時から、近習には文武の士を用いられた。それについてはおかしい戯言(ばかばかしい話)がある。君側の饗応には給仕の女子なども衣服等を装って出る習わしであったが、養徳公が(江戸から)帰国後、君側の饗応の席に、給仕の者たちは例のごとく(容姿艶麗な近習たちが出てくるものと)思っていたら、武骨な武人や愛嬌のない学者らだけだったため、給仕の女たちはびっくりして途中から逃げ去ったという。これは一時の戯言であるけれど、その時代の風俗をよくあらわしている。(養徳公の)君側はこのように文武の士であって、質素倹約のご趣旨を守ったので、一藩の風俗もだんだんと立ち直っていく状況だったが、天保十四年十二月に変事が起きた。それは何かというと、当時、馬淵嘉平という人がいた。この人は竹内流の柔術の師匠で、そのかたわら新しい学問を修め、道徳を講じた。そのため朱子学を信じ、志を抱く者はその門に入り、または互に懇親を深め、しばしば集会し、あるいは内海の孤島や洲(なかす)、山中に深夜集まって、脊(せぼね)を叩き、戒を授けるなどのことがあったという。その派は一時官途に登る者が多かった。世の人々はそれを奇怪とし、「ヲコゼ」と言った。[俗に、山ヲコゼを懐に入れれば幸福を得るという言い伝えがあった。彼らの党に入れば官途に登るのが速くなるということで、そう唱えたという]。当時の儒官(儒学をもって公務に就いている者。また、公の機関で儒学を教授する者=デジタル大辞泉)らはヲコゼを異端とみなし、また俗輩は伴天連(バテレン)と呼んだ。馬淵氏が何か巧みにことをなそうとしたのか、または奇術を行ったのか、自分は当時十四歳だったので、よくわからない。当時ただ耳にしたことを記す。ついにこの年の十二月、馬淵氏らが処罰された。罰文は左記の通り。
一 天保十四年十一月十八日、[三人扶持、切符十一石、和術、御扈従]馬淵嘉平(注④)こと、先年、縁により、「無外流(注⑤)別伝雑念を去る」を伝授され、その後、江戸表で、市中の者からまた同様の「心術」(※この場合、心学(注⑥)を指すと思われる)を伝授された。やがて神道・儒学・仏教を兼ねた「学筋」(※学問の流派という意味か。この場合は心学のこと)が藩で禁止されたため、以後改めていた。が、右の別伝は禁制の対象外と思い、懇望(ひたすら頼み込むこと)の一族の者には伝授した。その際、ひそかに幽隠(暗くかくれて外にあらわれないこと=精選版日本国語大辞典)の場所などへ連れて行き、そのうえいろいろと自己の作為を付け加えて伝授した。その際、「却て高遠に馳候口費を差止候とは乍申」(※むしろ高遠に走る無益な議論を差し止めたとは言いながら、という意味だと思うが、よくわからない)、(これは)人心を欺くのみならず、殊に藩のご禁制に紛らわしく、お上を憚らず、重々不届きの至りである。(太守さまは)ご不快に思われた。またそのほか確かに(太守さまの)思い当たられる詳細がいろいろある。これにより、格禄・名字・帯刀(の権利)を取り上げ、永く牢舎を仰せつけられる。
【注④。朝日日本歴史人物事典によると、馬淵嘉平(まぶちかへい。没年:嘉永4.11.11(1851.12.3)生年:寛政5(1793))は「江戸後期の高知藩藩士。高知生まれ。父は軍貝家孫之進。竹内流小具足組打を修業し,武技にすぐれ高知城下に道場を開いた。文政年間勤番で江戸へ赴き,魚屋喜平らに心学を学ぶ。その後勘定小頭に登用され,嘉平を中心に藩内の改革派が結集し,天保14(1843)年には藩主山内豊煕が推進する藩政改革に参加した。しかし改革派は門閥層の藩士から「おこぜ組」と呼ばれ,排撃された。嘉平は前藩主山内豊資により,禁学の心学を教えたかどで投獄され失脚した。高知で獄死。(長谷川成一)」】
【注⑤。デジタル大辞泉プラスによると、無外流(むがいりゅう)は「剣術の流派のひとつ。近江国出身の辻月丹資茂(つじげったんすけもち)が、山口流を学んだ後、1707年に江戸に道場を構えて創始。流派名は、月丹が授かった禅の印可の一節“一法実無外”にちなむ。月丹が得た門人は累計5000人以上と伝わるが、自身は生涯清貧を貫いた。」】
【注⑥。デジタル大辞泉によると、心学(しん‐がく)は「江戸中期、京都の石田梅岩いしだばいがんが唱えた平易な実践道徳の教え。神道・儒教・仏教の三教を融合させ、人間の本性を説き、善を修め心を正しくすることを唱導。手島堵庵(てじまとあん)・中沢道二・柴田鳩翁(しばたきゅうおう)らに受け継がれて全国に広まった。石門心学(せきもんしんがく)」】
一 同年同月同日、[御馬廻り末子]森四郎こと、先年、馬淵嘉平から「無外流別伝雑念を去る」を伝授されたが、嘉平はそれを伝授する際、いろいろと自己の作為を加えて人心を欺き、殊に藩のご禁制に紛らわしい行為をしたということで、このたび処罰を仰せつけられた。(森は)そのようなことはよろしくないということに気づき、(途中で)止めたとはいいながら、かねて神道・儒教・仏教を兼ねた学筋が禁止された以上、十分に考慮すべきはずのところ、それをせず、ひとたびその学筋に同調したことは軽率の至りである。よって今月十八日、謹慎を仰せつけられたが、(太守さまのご慈恵により)以前の状態に戻るよう謹慎を解く。
一 天保十四年十一月十八日、[知行二百石、御馬廻り]寺村勝之進こと、先年、馬淵嘉平より「無外流別伝雑念を去る」を伝授されていたが、次第に高遠な議論に走りがちなことに気づき、(伝授を)差し止めたということを今になって恐れ入り申し出た。嘉平は伝授した際、いろいろ自己の作為を加え、人心を欺き、ことに藩の禁制に紛らわしい行為をしたためこのたび処罰を命じられた。(寺村は)右の伝授の際、かねて神道・儒教・仏教を兼ねた学筋は禁止されたのであるから、よくよく思慮すべきはずのところ、それをせず、軽率のいたりである。またそのほかの勤め中、確かに(太守さまが)思い当たる子細がある。よって寺村勝之進の格禄を没収し、城下ならびに(その周辺)四カ村への立ち入りを禁じる。しかしながら、(太守さまの)ご仁恵をもって、父親(寺村本人のこと)の知行二百石を惣領の禮太郎へ与え、格式も御馬廻りに仰せつける。
一 同年同月同日、[知行二百石、御蔵米、御扈従格]田村玄尚こと、先年、馬淵嘉平より「剣法を以雑念を去」の伝授をされていたが、嘉平は伝授したとき、いろいろ自己の作為を加えて人心を欺き、ことにご禁制に紛らわしい行為をしたということで、このたび処罰を命じられた。ところがその伝授の際、かねて神道・儒教・仏教を兼ねた学筋が禁じられている以上、(田村は)よくよく思慮すべきはずのところ、それをしなかったのは軽率の至りである。またそのほかお勤めのなかでいろいろ間違いなく(太守さまの)思い当たる子細があった。そのため、格禄を取り上げ、仁淀川以東の立ち入りを禁じる。しかしながら、このような事情を踏まえたうえで、(太守さまの)ご慈恵をもって五人扶持、切符十石を惣領の玄膽に与え、格式を新扈従格とする。
一 同年同月同日、[三人扶持、切符七石、御扈従格]田村玄真こと、先年、江戸表において市中の者より心術を伝授され、その後、神道・儒教・仏教を兼ねる学筋がご禁制になったため、以後それを改めていたが、再び馬淵嘉平が無外流別伝は(禁制の心術には該当しない)格別のものとして、懇望の一族の者をひそかに幽穏の場所などに連れて行き、いろいろと自己の作為を付け加え、人心を欺いて伝授した際、馬淵とともに同行したという。しかしながら、そうしたことは、むしろ高尚遠大に走る議論を差し止めたとは言いながら、またぞろご禁制に触れかねない行為に同調したのは、結局、お上を憚らず、重々不届きの至りで、(太守さまは)ご不快に思われた。そのため格禄・名字・帯刀(の権利を)取り上げ、野根川以東への追放を命じられる。
一 同二十二日、[御馬廻り、二百五十石]葛目楠吉こと、先年、馬淵嘉平より「無外流別伝雑念を去る」を伝授されていたが、やがて頓悟(一足とびに悟りを開くこと)し、これはよくないことだと気づき、(伝授を受けるのを)止めたということを、今になって恐れ入り申し出た。しかしながら、嘉平が伝授していた際、いろいろ自己の作為を加え、人心を欺き、殊にご禁制に紛らわしいということで処罰された。ところが、その伝授の際、かねて神道・儒教・仏教を兼ねた学筋が禁じられた以上、(葛目は)よく考慮すべきはずのところ、それがなく、軽率の至りである。またそのほか、お勤めの最中に(太守さまの)思い当たる子細がいろいろとある。これにより、今月十八日、閉門を仰せつけられていたので、きびしく仰せつけるべきはずのところ、(太守さまの)ご慈恵により、以前の状態に戻すよう(閉門を)解く。
一 天保十四年十一月二十七日、[三百石、御馬廻り]板坂馬左衛門こと、先年、馬淵嘉平より「剣法をもって雑念を去る」を伝授されていたが、嘉平が伝授していた折、いろいろと自己の作為を加え、人心を欺き、殊にご禁制に紛らわしいという理由で、このたび処罰を仰せつけられた。(板坂は)そうしたことはよろしくないと気づき、途中で止めたとはいいながら、かねて神道・儒教・仏教を兼ねた学筋が禁じられている以上、よく考慮すべき筈のところ、それをせず、ひとたび嘉平らに同調したこと、かつ「家内共同様之儀有之趣」(※意味がよく分からないので原文引用)、などなど軽率の至り。これにより、今月十八日、遠慮(軽い謹慎刑)を仰せつけられていたが、以前と同じ状態に戻るよう処分を解除する。
一 同年十二月十七日、[六百石、御馬廻り]大庭恒五郎こと、先年、馬淵嘉平より「無外流別伝雑念を去る」を伝授されていたが、やがて「一時之手段付」(※意味がよくわからない)よろしくないと気づいたということを今になって恐れ入り申し出た。しかしながら、嘉平が伝授したとき、いろいろ自己の作為を加え、人心を欺き、殊にご禁制に紛らわしいという理由で、このたび処罰を仰せつけられた。ところが、その伝授の際、かねて神道・儒教・仏教を兼ねた学筋がご禁制となった以上、よく考慮すべきはずのところ、それをせず、軽率の至り。これにより先月十八日、遠慮を仰せつけられたという事情があるので、間違いなく仰せつけられるべきところ、ご慈恵をもって、以前と同じ状態に戻るよう処分を解除する。
一 同年同月同日、[御馬廻り]横田四郎八、[嘉右衛門の惣領]岡田武之進、[馬医師、扈従格]三木源八郎こと、先年、馬淵嘉平より「剣法を以て雑念を去る」を伝授されていたが、嘉平が伝授したとき、いろいろと自己の作為を加え、人心を欺き、ことにご禁制に紛らわしいということで、このたび処罰を命じられた。ところが、その伝授の際、かねて神道・儒教・仏教を兼ねた学筋が(藩に)禁じられている以上、よく考慮すべきはずのところ、それをせず、軽率の至り。これにより、先月十八日、遠慮を仰せつけられていたという事情があるので、間違いなく仰せつけられるべきはずのところ、ご慈恵をもってこれを許す。
一 同年十二月二十二日、[御扈従格]横田源作こと、先年、馬淵嘉平より「剣法を以て雑念を去る」を伝授されていたが、嘉平はその伝授をしたとき、いろいろと自己の作為を加え、人心を欺き、殊にご禁制に紛らわしいということで、このたび処罰を命じられた。ところが、その伝授の際、かねて神道・儒教・仏教を兼ねた学筋が(藩に)禁じられている以上、よく考慮すべきはずのところ、それをしなかった。また、「家内共同様之儀有之趣」(※意味不明のため原文そのまま引用)など軽率の至り。これにより先月十八日、遠慮を仰せつけられていたという事情があるので、間違いなく仰せつけられるべきはずのところ、(ご慈恵をもって)以前と同じ状態に戻るよう、これを許す。
一 同年同月同日、[御扈従格、馬医]本山團蔵こと、先年、江戸表において市中の者より心術の伝授を受けたが、その際、神道・儒教・仏教を兼ねる学筋がご禁制になっていたのに、馬淵嘉平が無外流別伝は(禁制の心術には該当しない)格別のものだと心得、懇望の一族の者をひそかに幽穏の場所などに連れて行き、いろいろ自己の作為を加え、人心を欺いて伝授した際、(本山は)立ち合ったとのこと。しかしながら、かねて神道・儒教・仏教を兼ねた学筋が禁じられている以上、よく考慮すべきはずのところ、それをしなかったのは軽率の至り。これにより先月十八日、遠慮を仰せつけられていたという事情があるので、間違いなく仰せつけられるべきはずのところ、以前の状態に戻るよう、これを許す。
一 同年十二月二十三日、[知行二千五百三十石、内一千二百石御蔵前之内二百石上ル(※意味不明のため原文そのまま引用)]柴田織部勝戴こと、先ごろ奉行職・近習御用方の兼任を命じられ、この春江戸表に召し寄せられた際、藩政と人選の件につき、深尾弘人と示し合わせ、思うところなどを申し出て、用いられた。しかしながら、今になって間違いなく(太守さまの)思い当たる子細がある。また、役目柄不当の手段をもって申し出たことなど不行き届きの次第をあれこれとご不快に思われ、そのほかお勤めに際して(太守さまの)思い当たることもあり、これにより隠居を仰せつけられる。しかしながら、家督については、お含みもおありになり、ご慈恵をもって、知行高を前記のとおり減らして惣領の備後勝守へ与え、家老職をそのまま(備後勝守に)仰せつけられる。
一 同年同月二十七日、[知行高五千石のうち五百石を減じられる]、深尾弘人蕃顕こと、先ごろ奉行職を命じられ、この春江戸表に召し寄せられた際、藩政と人選の件につき、柴田織部と示し合わせ、思うところなどを申し出て、すでに用いられもした。しかし、今になって確かに(太守さまの)思い当たる子細がある。また、(深尾が)役目柄不当の手段をもって申し出たことなど不行き届きの次第を(太守さまが)あれこれとご不快に思われた。よって今月二十三日、屹度遠慮を仰せつけられたという経緯があるので、なお屹度仰せつけられるべきはずのところ、ご慈恵をもって、知行高を前記のとおり減らし、そのほかは以前の状態に戻すことにする。
(続。太宰府出張の背景について高行が記した文章がこれからもまだつづきます。かなり昔のオコゼ組事件まで蒸し返しているのに驚きましたが、太宰府出張はそれだけ高行にとって大きな事件だったということでしょうか。)