わき道をゆく第252回 現代語訳・保古飛呂比 その75
一 同年十二月二十七日、[知行百二十石、御馬廻り、うち二十石減らされる]平井善之こと、先ごろ勤役中いろいろと不当の行為があり、(太守さまが)ご不快に思われた。よって今月二十三日、厳重に遠慮(注①)を仰せつけておいた。そういう経緯があるので、なお厳重に仰せつけられるはずのところ、ご慈恵をもって、知行高のうち前記のように(二十石を)減らし、そのほかは以前と同じ状態に戻ることを許す。
【注①。デジタル大辞泉によると、遠慮は「江戸時代、武士や僧に科した刑罰の一。軽い謹慎刑で、自宅での籠居ろうきょを命じたもの。夜間のひそかな外出は黙認された。」】
一 同年同月同日、[御馬廻り]長屋六左衛門[高五人扶持、切符二十石のうち四石上る(注②)]、先ごろ勤役中いろいろと不当の行為があり、(太守さまが)ご不快に思われた。よって今月二十三日、厳重に遠慮を仰せつけておいた。そういう経緯があるので、なお厳重に仰せつけられるはずのところ、ご慈恵をもって、切符を前記のように減らし、そのほかは以前と同じ状態に戻ることを許す。
【注②。切符は切米のことと思われる。切米は精選版 日本国語大辞典によると、「江戸時代、幕府あるいは大名の家臣のうち、知行所を与えられていない者に対して、春(二月、年給額の四分の一)、夏(五月、同四分の一)、冬(一〇月、同二分の一)の三季に分割して支給される扶持米、あるいはそれ相当の金銭。また、それを支給すること。特に冬季のものを「切米」といい、その他を「御借米」という場合がある。」。「四石上る」とは四石減らすという意味かとも思われるが、はっきりしない。】
一 同年十二月二十七日、[御馬廻り、二百五十石]渋谷権左衛門こと、先ごろ勤役中「被當思召子細」(※魚住注。前回何度か、この表現を「(太守さまの)思い当たる子細」と訳したが、不適切だったので、訂正する。読みは「思し召しに当たられる子細」と思うが、意味がよくわからないので原文をそのまま引用する)がある。よって、右同日、遠慮を仰せつけられていたが、これを許す。
一 同年同月同日、[善左衛門の惣領]柴田茂之助こと、先ごろ勤事中「被當思召子細」があり、右の同日、慎(つつしみ。江戸時代、上級の武士に適用された名目上の刑で、門戸を閉じて昼間の出入りを禁じたもの=デジタル大辞泉)を仰せつけられていたが、これを許す。
一 天保十五年二月二日、[三人扶持、新扈従末子]手島八助こと、先ごろ文武調役を勤めていたとき、秘密の事柄を師弟の間柄である馬淵嘉平に内話(こっそり話すこと)したと言われる。しかしながら、こういうことは重々遠慮すべきはずのところ、そうせず、猥りに口外したことは不心得の至りであり、(太守さまが)ご不快に思われた。よって格禄(家格と禄高)ともにこれを召し上げる。
ついでに記しておくと、馬淵氏の弟子で、軽格の者たちは左記の人々だったという。
植野村
郷士 山崎泰八
山崎又七
一宮村
坂本覚次
萩原清庵
坂野東叔
布師田村
粉川玄俊
右のほか罰を受けなかった者もあったという。
ここにいたり、俗輩たちがまた学問を忌み嫌う風に戻ろうとした。若い者たちが読書をすれば、「ヲコゼ」になるかと言われることがあった。
しかしながら、養徳公はますます文武を奨励してやまず。ただし、我が藩は、武術は好むけれども、文学(この場合、学問のこと)はとかく厭う風習であるから、ことさらに文事を励まされた。そのうえ、倹約を実行されたので、わずか四、五年で藩財政が立ち直った。また国内巡覧の際、寄る辺のない身の上の者たちに情けをかけられ、忠臣孝子の墓を弔いなされたという。その一例を挙げれば、安芸郡羽根浦に岡村十兵衛の墓があった。その墓を弔いなされたとき、詩作をされた。
人間無他義兼仁(※人間他義なく仁を兼ねる。よくわからないのだが、人間の世界で仁ほど大切なものはないという意味か。)
有志勲鑑存此人(有志の勲鑑(忠義の鑑という意味か)はこの人にあり。)
旅客更慕報国志(旅客はさらに慕う 報国の志)
美名長及子孫□(美名は永く子孫□に及ぶ)
士民仰望□□(士民は仰望□□)
路畔古墳払塵無(路畔の古墳は払いて塵なし。※岡村の墓は今も住民たちによって塵一つないほど清掃され、大事にされているという意味だろう)
不受命勝受命(不受命は受命に勝る。※岡村が藩の命令を待たずに米倉を開いた行為を称賛している)
忠魂赫々又彬々(忠魂赫々また彬々。※忠魂は赫々と輝き、あざやかである)
岡村氏は浦役(海村で浦方や漁業を管掌する役目=精選版日本国語大辞典)を勤めていたが、天明年間の凶作の年に際し、飢えた民が多く、官に救助を求めた。だが、城下は遠く離れていて、手順などに日時を費やし、どうすることもできなかった。同氏は慨然(憤り、嘆くさま)として、藩の命令を待たず、官の米倉を開き、窮民を救い、法を破ったことの罰を謝ろうと、割腹して死んだ。浦の民たちはその徳を父母のように愛慕し、それは、その後何年たっても衰えることがなかった。(養徳)公はその墓前で前掲の詩を作られた。まことに民の父母である人君の徳を見るべきである。ところが後世、あるいは馬淵派の有用の人物を生涯登用されなかった、その(養徳公の)意図を疑う説があったが、自分が当時を追想してみると、やむを得ぬ事情があったようだ。その訳は、養徳公は、御年二十九歳のとき(藩主の地位を)相続された。孝心の厚い方だったので、万事老公(豊資公)の意向を伺っておられたようだ。天保十四年に相続、その年四月に江戸より入国、その年十二月に前記の馬淵嘉平の事件があった。このころ幕府にも水野越州侯(水野 忠邦。注③)
の急激な大改革があり、天下の物議が少なくなく、非議(論じて非難すること。そしること=デジタル大辞泉)が甚だしく、ついに老中を罷免されたという。老公(豊資公)は文政・天保年間、大平無事・花のお江戸の時代のお方なので舞楽を始め、遊猟(狩りをして遊ぶこと)などもことにお好きで 、やはり旧慣(古くからの習わし)を改めることなどはお好きではなかったという。養徳公とは当然性質がちがったようだ。そういうわけだから、(養徳公の)御代が長く続いていたら、必ず野に遺賢があるのを見つけておられたであろうことは疑いない。(養徳公は)早くから海防のことには注意しておられたという。次に(養徳公)自筆の手紙の写しを記す。
先日、修理殿(当時の薩摩藩主・島津斉彬のこと)より自筆の手紙が到来、琉球国は相変わらずとのこと。七月下旬、またまた(フランス船が来て、八月十一日に出帆したとのこと。=以上の部分が原文から欠落)一人を残し置いていったそうだ。どういうことか、趣意がわかり難い。このうえどんな成り行きになるのかもわからず、薩摩でもことのほか心を痛めている模様だ。それだから海浜が領分といっても決して油断してはならず、砲台(の整備に関する)命令書を至急取り調べて報告するように。
弘化三年十月二十七日(※この手紙は土佐藩の執政宛てと思われる)
また(養徳公は)近習の士(側近の藩士)で、西洋流砲術を学ぶことを嫌がった者を罰した。次に(その一例を挙げる)
麻田楠馬
弘化二年正月十七日、先ごろ勤務中、江戸表において、砲術修行を仰せつけられたところ、心から望んでいないという理由で、勝手にお断りを再三申し出ておき、その後、「御請恐入」(※恐縮してお受けするという意味か)等の申し出をしたとはいえ、その子細について「被當思召」ことがあった。よって去年十二月十八日、遠慮(軽い謹慎刑。自宅での蟄居を命ぜられる)を仰せつけられたので、なお厳しく仰せつけられるべきはずのところ、このたびは御宥恕(寛大な心で罪を許すこと=デジタル大辞泉)をもって、今日、これを許す。
ちなみに言っておくと、このとき豊熈公(養徳公のこと)が西洋流(砲術)を土佐藩に採用された、その手始めであったということである。
(養徳)公は嘉永元年六月十六日、江戸屋敷で逝去され、まだ世子(世継ぎ)がなかったため、弟君の式部豊惇公が養子に立てられ、急に江戸表に参勤することになった。ところが、豊惇公はその道中からご不例(ふだんの状態ではないこと。特に、貴人の病気についていう=精選版日本国語大辞典)となり、同年九月十八日、江戸屋敷で逝去された。[譲恭院とお呼びすることになった]
養徳公と同様、世子がおられなかったので、南邸の照衛豊信公(容堂公のこと)が豊資公の養子になられ、御家督御願い(幕府に家督相続を申し出ることか)となり、急きょ江戸表に向かわれた。御家中はもちろん、一般人民に至るまで、重ね重ねの凶事であり、このうえ家督相続もどうなることかと種々風説もあり、皆が心を痛めた。そうしたところ、同十二月二十八日、豊信公に家督が間違いなく仰せつけられ、藩の上下とも大いに安堵した。しかしながら凶事が相次ぎ、一時は浮世を味気なきと(思う)まで人々の生気が挫けた。この間、古くからの格式を守ってきた因循の人々が要路を占め、天保の初年に後戻りした感があった。
豊信公は英邁の君であるが、支流(山内家の傍流)から相続され、しかもまだ二十二歳の時だったので何事も思うように行うことができなかったと見え、「吾固布衣身豈計云々」(自分はもともと布衣(官位が六位)の身に過ぎなかったのに思いがけなく藩主となり云々)の詩作があり、そのような状況だったが、文武のことは、養徳公の志を継いで奨励された。ところが、儒官は世襲で、とかく固陋の弊があって経国(国家を経営すること)の学に乏しい。武術家もまた世襲なので技術に拙く、一家流(家に伝わる流儀)を固守して、広く研究しない。これは世襲の弊であったが、吉田元吉(吉田東洋のこと)は史学を修め、大いに経国の学を論じた。ここにいたって学風一変の趣きがあって、(吉田派は)一派をなし、世の人々は「新ヲコゼ」と呼んだ。往年の馬淵氏になぞらえた名である。また馬淵派は朱子学を修めるかたわら、西洋流の砲術を研究させようとした。また、砲術家の田所左右次・馬場源馬らは古流を廃し、西洋流の火技(砲術のこと)を大いに開発しようとした。[田所は策略家で、西洋流を開こうとして借金が多かったが、屈せず、いろいろと世渡りをした。世に大天狗と呼ばれた]。また槍術家には岩崎甚左衛門[高木流]山田喜三之進[高木流]、剣術家には麻田勘七[一刀流]・寺田忠次[大石流]・美濃部團四郎[新影流]・日野根辯治[小栗流]などの数名がいて、広く他流試合を開いた。武市半平太は麻田の門下で、別に道場を設け、門人数百人がいた。坂本龍馬は日野根の門人である。このように、気運が醸成されて、文武とも活発になっていった。そうした折柄の嘉永六年六月、米国使節「ヘルリ」が渡来、その知らせが届いたのを機会に、藩政も改革され、吉田元吉はじめ同流の人々が日を追って官途に登った。同七年[安政と改元された]秋、(土佐藩の)江戸鍛冶橋邸での酒席で、(土佐藩の)縁戚の旗本・松下嘉平殿を吉田元吉が酔っ払って殴った。このため即刻、元吉は国許に送り返され、格禄を召し上げられ、吾川郡長濱村に蟄居した。
松下殿は山内家と親族で、昔、幕府の罰を受けて我が藩にお預けになり、その後、我が藩の仲介で、さらに知行三千石の旗本に召し抱えられた。そのため(山内一族の)御末家同様の扱いで、ふだんは(土佐藩から)お付け人として士格一人のほかに徒士らを付けていて、藩内では尊敬する家柄のため、(元吉は)本文の通りの振る舞いをして罰を受けたのである。吉田は贅沢好きで衣食住を飾り、倹約などのことは顧みず、江戸にいたとき、若侍たちは次のように謡った。
吉田元吉、頭もこくが
数寄屋越後で伊達もこく
ゑらぬぞゑらぬぞ
高田屋[裁縫屋である]咄に吉田の服は
跡で女の著るよふに
をたのみをたのみ
吉田元吉が蟄居してから一時同派は勢いを失って、要職に小南五郎右衛門・平井善之丞・渡邊彌久馬・楠目楠吉らがつき、その間、凡俗な者たちも出入りした。もっとも、平井善之丞らは海防などに意を注ぎ、練兵を行い、大砲を試みたが、事故があって、平井らは職を免ぜられた。
安政四年十二月、側用人の小南五郎右衛門が太守さま[豊信公]の命により、江戸より急に帰国し、吉田元吉の蟄居を解き、翌五年正月、参政に登用した。このため吉田派は好機をつかんだ。
同二月、太守さまが(幕府から)隠居慎みを命じられ、鮫洲邸に閑居された。小南らは罰を受けて幡多郡に蟄居した。ここにいたって吉田派は要路を占めた。その訳は、吉田は学力あり、経国の才智に富み、活発で、倹約などは陳腐であるとした。太守さまが隠居となり、幼年の豊範公が相続された。豊範公の実父で大隠居の豊資公は、容堂公の伯父にあたり、景翁と呼ばれるお方であるが、老年でもあり、いわゆる大平の御大名であるので、容堂公が国事に関係して周旋されることは、「御気遣有之由之處」(※正確な意味がわからないので、原文を引用)、吉田は佐幕論を唱え、内心は機会を見ていた。これまでは時節柄、大隠居さまも不自由なことがあったけれど、吉田はその辺は不自由がないように仕向け、君公の出費は減少しなかった。(また吉田は)容堂公の邸として品川藩邸に美麗な建築をつくるなどした。このようにして万事意のままに動かし、大いに藩政を改革しようとした。すでに海南政典(注⑤)があり、これは専ら松岡七助[松岡は元郷士。文才があり、吉田に気に入られ、抜擢された]が担当した。また文武館を設立し、士格を初め「如以下の」(※意味不明)階級を改正し、簡易にし、その成功も近づいていた。惜しむらくは、(吉田は)その性格が倨傲で、他人の意見を聞き入れず、贅沢好きで自惚れが強かった。ゆえに人心が服せず、俗輩にいたっては、吉田の欠点を指摘し、その甚だしいものに至っては、吉田が壮年のとき、一時的な怒りで従僕を斬り殺したため、心にやましいところがあって安眠できず、ゆえに夜間によく勉強した、今日学名が高いのも信じるに足りないなどとしゃべり散らした。萬延元年(安政七年)三月、井伊侯(井伊直弼)の変(桜田門外の変のこと)があると、勤王家は愉快と大声で叫んだが、吉田氏の門下生はこれに反し、(襲撃犯が)赤穂四十七士とともに大法(重大な法)を破った賊であると非難した。あるいは足利尊氏や魏の曹操(注⑥)を天下の英雄とし、暗に楠公(楠木正成。注⑦)・孔明(諸葛亮孔明。注⑧)を侮蔑する口ぶりだった。
文久元年九月下旬、武市半平太が江戸より帰国し、大に勤王論を主張したが、吉田氏はすべて歯牙にかけず、そのうえ天子は弁髪(注⑨)のような物だから決して頼むに足りないと、軽蔑の言を発するに至ったという。武市らは大いに苦慮し、百方周旋したが、士分以上には同志が乏しく、とかく佐幕家が多かった。このごろ馬場源馬の「勤王と朝敵殿と半平太日和見たらは雨は揚屋」[雨森源右衛門が不埒の振る舞いがあったとの理由でこのごろ処罰されたからである]という狂歌があった。武市は一刀流の師匠で、郷士以下の門下が数百人いた。ゆえに郷士以下に勤王家が最も多く、士格以上には武市の説を入れる者はまれだった。たまたま勤王家がいたとしても真の勤王家ではなく、吉田氏の権威を妬む連中だった。ことに雨森源右衛門・武藤小藤太・園村新作らが最も甚だしく、武市の説を利用して、私心を果たそうと工作したという。自分ら同志五、六人は、その悪がしこさを知っていたが、武市派は彼らがよこしまな人間であることを知らなかったのだろう。よって、事が失敗するのを心配して、同志たちが周旋した。武市は決心して、もし事がならなかったら、藩庁で割腹して、自分の赤心を示すと言った。また武藤・園村らのほかに、非常に吉田派を憎む者たちがいた。これは門地家で小八木五兵衛の派である。平素は派が違う小南五郎右衛門が、先年幡多郡に蟄居し、このごろ(城下に)帰住したのだが、その小南に小八木の方からよしみを通じたとのこと。結局、吉田の勢いを挫くための策であって、真の勤王論ではなく、小南らと交際して時機を得ようとしたのだろう。この際、園村・武藤らの連中は、我々の同志と吉田派を見て、(我々が)吉田派に意脈を通じ、武市派から離間していると言い、武市派も(我々に対し)疑念を持っていると言ったが、果たしてそうか。その訳は、山川(左一右衛門)は門地家で、吉田派にも交わり、本山只一郎は太守さまのお側物頭で、自分は当分文武調べ役だったからだろう。こうした情勢のとき、自分は十一月より大病を患った。武市らが帰国し、わずかに三十日の間で、その後のことを知らない。病中、武市も二度ばかり見舞いに来て、また、同派の島村衛吉・岡本次郎、小畑孫三郎らがしばしば見舞いに来たが、そのころ(自分は)貧窮していて日々氏の別邸に住んでいた。六畳一間に妻子と四人の住居で、看病人も詰め、しかも大病のためひそひそ話ができず、空しく日を過ごした。自分が大病している間、勤王家と藩政府の間の軋轢が最も激しく、武市派は、大手公子[大学さま。容堂公の叔父君である]・南部公子[民部さま、容堂公の第三弟である]へ裏道より耳に入れる事を計画したという風聞がある。(こういうことをすると)いつか大害を招くことになると、山川らが武市に忠告したという。その訳は、容堂公が江戸で隠居されているとき、太守さまはまだ幼年で吉田氏の言いなりなので、容堂公の疑念を招いて恐るべきことが起きかねない。いま両公子に申し上げても十分の効力はないに違いない。なにぶん公明正大に、藩庁へ願い出るにも玄関のまん中を通行すべきである。このように正路(正しい筋道)を踏まずにいると、事は必ず失敗すると(忠告した)。武市もそのあたりは承知しているようだったがあえて答えなかった。思うに、このときすでに両公子にひそかに話を通じた後だったのではないか。翌文久二年四月八日の夜、吉田元吉が暗殺された。自分は病床でその知らせを聞いた。人心は恐れおののいた。[このとき自分は、城下より一里ばかりの杓田村の山間にいて、もっとも事情に暗かった]。同月十八日ごろ、吉田派は残らず要路を退き、小八木吾兵衛・寺田左右馬・小南五郎右衛門・平井善之丞らが登用された。そのため武市派が一時勢いを得た形になったが、真に勤王家の要路は平井・小南の二人で、執政は頼りにならず、参政・大監察などの要路は小八木派などが多かった。同年六月二十八日、太守さまが国許を発たれ、大坂で麻疹のため滞在中、内勅(内密の勅命)により暫時、京都警衛を命じられた。このたびのお供には執政・山内下総、参政・小八木五兵衛、大監察・小南五郎右衛門、臨時御用・武市半平太ら数人がいた。小南・武市は大いに人望があり、小八木はすべてに人望がない。元来、小八木は勤王家ではない。武市派が各藩士らより推戴されて勢いを得たのを見て、大不平だったという。小八木は吉田派も嫌い、また小南派つまり勤王派も忌み、つまるところは佐幕派の巨魁である。同年十月十五日、武市派の過激の者たちが藩庁に願い捨て(藩庁に願いを出したまま許可を待たずに実行に踏み切ること)により、江戸表に行き、両公(藩主・豊範と容堂を指す)を警衛しようとした。これを五十人組といった。藩庁では大いに議論があったが、平井善之丞が尽力して、ほどよく願い済み(願いが聞き届けられたこと)の形にして(五十人組が)出立した。この者たちは吉田を暗殺した者たちの同類の疑いがあったので、容堂公はご不満であられたという。同三年正月、容堂公が江戸より上京されたところ、幕府内部は大いに混乱し、どうにも意見がまとまらず、いわゆる拠るべき所のない状況であって、同四月十二日、帰国された。京都はますます混乱し、ついに同八月、長州藩を京都より退け、三條卿はじめ七卿が長州へ脱走した。同九月、京都よりのお沙汰により、武市半平太ら数人が獄に下り、小南も謹慎の身となった。馬場源馬のこんな狂歌がある。
勤王の頭を飛車とひしかれて
もう高飛のならぬ軽格(※軽格と圭角をかけている)
[郷士以下を軽格という。勤王家が多いためであろう]
小八木派も吉田派も入り交じって要路にあった。元治元年秋、長州が京都で暴発した。我が藩士の九割までは長州討滅論である。長州方は、士格は今言った通りだが、土佐国全般は(長州を助ける)助長論である。やがて長州も伏罪(刑に服すること)し、翌慶応元年五月、将軍が江戸を発ち、長州再討を命じ、大坂に行った。閏五月、武市氏に死罪が命じられ、小南氏ら数人が終身禁錮に処せられた。将軍は大坂に入ったが、因循(思い切りが悪く、ぐずぐずしていること=デジタル大辞泉)していまだ征長の兵を出さず。しかしながら、佐幕家は全勝の勢いがあって、勤王家はほとんど衰亡みたいになったが、その裏面ではますます助長家が増加し、機会を得たら行動を起こそうという状況だった。こういうありさまで、藩政の下級役人らは、藩政に反対の者が多数だったので、なにぶん手足が十分の働きをなさず、板垣退助は大監察を辞し、馬術修行と称して江戸に遊び、同二年三月ごろ、広島へ執政・福岡宮内、大監察・神山左多衛が出張した。これは出兵ではなく、幕府より重役を出せという命令によるという。それから、薩長の戦争報知(の内容は)二つに分かれた。勤王方は、幕府の兵は日ごとに敗れていると、(一方)佐幕方からは今にも長州が全滅しそうだと。このように報知があるごとに、お互いに自分が信じる説を主張し、親戚も遂に疎遠になり、[自分も、某々家と親戚だが疎遠になった]婦人までも党派ができるに至った。しかしながら、藩政府はいまだ十分に目を覚まさなかった。
同年六月、私が郡奉行を退役となったころから、ますます財政が難渋した。その訳は、民間では庄屋・名主らも、いささか知識ある者はみな勤王論だから勤王のためならばどれほどでも出金を周旋するけれども、目的もなく商館などを新築するためにはまったく尽力せず、不平のみを言い、御用金などにも協力しなかった。よって(開成館の創設を主導した)後藤象次郞も困り果て、長崎で商船などを購入して大いに交易を開き、国利(この場合は藩の利益)を起こすというのを口実として、同七月末ごろ出発した。そのため、後藤の同志たちも、福岡藤次などは、後藤の長崎行きをことのほか悪く言っているとのこと。このように藩政府も進退が窮まったのである。小監察の中山左衛士はかなり才能ある士で、吉田派ではあるが、時勢に注意し、勤王家と手を結ばなくては何事も成らずと考えている。自分はもともと中山とは友人で、親しく交際していたが、吉田が権威を持ったときから、自分は吉田派とは反対になり、ついに中山などとも久しく交際しなくなった。ところが先ごろ、中山より交際を求めて来て、段々話合いをしたところ、参政の由比猪内もそのあたりに心を寄せ、周旋している模様だった。由比は、吉田派内では老成していて、そのうえ実着な人物として大きな力を持っていた。また中山は土方楠左衛門(注⑩)の父の理左衛門と交際し、太宰府の模様などを聞き、時勢に意を注いでいた。自分も藩政府と勤王家が合体しなくては到底事が成らぬと考え、大いに尽力した。その訳は、小八木派は門地家が多く、しかしながら吉田派とはとかく折り合いが悪い。吉田派と小八木派は一時は合体して勤王家を圧したことがあったので、このうえ両派がまたまた合流すれば大変なことになるにちがいない。早く吉田派と勤王家が歩み寄って、互に話せば、大いにうまくいくと考えたためである。しかしながら、同志の本山只一郎・林亀吉・前野源之助・服部與三郎・横田祐蔵らは大いに懸念して、中山佐衛士はとても狡猾で、ことに吉田派だから、(敵に)売られるかもわからぬと忠告してきたが、たとえ売られ、失敗しようとも構わない。もしただ今の形でグズグズしていれば、勤王家の不利のみならず大患となるかもしれない。それは前述の通り、小八木派・吉田派・勤王派の三派に分かれていれば、そのうち二派で合体した方が必ず勢いを得るのは明らかだからである。同志の中でも、山川氏はとても思慮があり、公平な人物で、自分と同意見だったので、大いに力を得て、中山氏といよいよ胸襟を開いて周旋し、それゆえ(自分に)太宰府行きの命があったのである。同行の中山左衛士・毛利恭助・自分の三人は士格で、島村寿太郎[郷士]・佐井虎次郎・藤本閏七は徒士、島村は武市半平太の近親、佐井も武市派、藤本は幡多郡でやはり勤王家である。太宰府行きの狙いは、三條公に随従している土方大一郎(土方久元のこと)・清岡岱作その他の面々へも藩の情勢を知らせ、薩長とともに周旋することを相談し、さらに彼らの事情を探知せよという命令である。しかしながら、まだ藩論は定まっておらず、藩政府の八分通りは半信半疑、薩長をはじめ各藩の形勢を見ようという傾向の状況だが、まずは(吉田派と勤王派の)合体の端緒となった。前述の島村・佐井・藤本の三人は、中山氏と(自分の)二人が内々に上申して、同行することになった。
【注③。朝日日本歴史人物事典によると、水野忠邦(みずのただくに。没年:嘉永4.2.10(1851.3.12)生年:寛政6.6.23(1794.7.19))は「江戸後期,天保の改革を断行した老中。忠光の次男,母は側室中川恂。幼名は於菟五郎。式部少輔,和泉守,左近将監,越前守。文化9(1812)年唐津藩主。12年奏者番,14年寺社奉行兼任となり,同時に経済的には不利益な浜松へ所替えとなった。これは幕府重職就任を熱望した忠邦が,唐津藩は長崎警備の任務があり老中になれないため,幕府の実力者水野忠成 に猛烈な運動をして実現した。その後も忠成の庇護で,大坂城代,京都所司代と順調に昇進し,文政11(1828)年西丸老中,天保5(1834)年本丸老中,10年に老中首座に登り詰めた。この間,藩財政は極度に窮乏し,代金未払いのため江戸藩邸の用達商人から出入りを断られたほどであった。そのため,大坂で不正無尽を企てたり,金座御金改め役後藤三右衛門から多額の賄賂を受け取るなど,忠成のあとを継ぐ金権腐敗の政治家とみられ,世評は芳しくなかった。 幕政の実権を握っていた大御所徳川家斉の信任厚い御側御用取次水野忠篤らの側近を,12年家斉が亡くなるや,迅速果断に一掃し,将軍徳川家慶の厚い信任を受け天保の改革を断行した。内憂外患の深刻な危機の打開をめざし,奢侈一掃と質素倹約を強調,特に都市に厳しい統制を実施,株仲間解散,人返し,異国船打ち払い令を撤回した薪水給与令,上知令,印旛沼工事,御料所改革,貨幣改革,日光社参などを断行。あまりに急激な改革で,大名,旗本から農民,町人まであらゆる階層の利害と衝突し,14年閏9月罷免された。異例にも翌年6月老中に再任されたが,他の老中の強い抵抗と将軍の信任を得られず,木偶のようだと評されつつ,弘化2(1845)年再辞職。在職中に賄賂を受け取ったことなどを咎められ,2万石没収,隠居謹慎。子の忠精も出羽山形への所替えの処罰を受け,下屋敷で謹慎の生活を送る。厳格な改革政治家と金権腐敗の政治家の両方の顔を持つ老中であった。<参考文献>北島正元『水野忠邦』(藤田覚)」】
「【注④『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』のなかでも佐佐木は次のように述べている。「夫れからまた、公には海防のことにも、余程心配なされて、弘化三年御義兄の島津斉彬公に御問合せになつた御返書に依つて、外船が、又琉球辺に現れて、薩州でも、余程心配されて居る。領分海濱のものは、油断できぬから、速に大筒台場の沙汰取調をする様にといふ御直筆を下された。公は斯様な御気込であつたけれども、種々な事情が纏綿して居つたので、思ひ切つた御改革もできなかつたらうと思ふ」。なお、山内豊熈の正室は島津斉彬の妹にあたる候姫。】」
【注⑤。萬延元年十二月の保古飛呂比に次の記述がある。
「一 この年、海南政典成る。全部で十五巻。項目を分かつこと十三。(その項目を具体的に挙げると)職守、考課、継嗣(跡継ぎ)、寺社、戸籍、田疇(田畑)、山虞(山守)、関市(関所と市場)、賦役、営繕、倉庫、法律となる。このほか付録三巻あり、廟祭儀、考課例、界戌営規則という。別に海南律令草稿が一巻。これを草稿と名付けたのは、多年の経験に照らし合わせてはじめて完成稿になるという意味である。吉田元吉が総裁となり、松岡七助がもっぱら編纂に従事した。七助が侍講(主君に学問を講じる役)として江戸に召された後は細川潤次郎がそれに代わった。」】
【注⑥。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、曹操(そうそう。[生]永寿1(155)[没]延康1(220).)は「中国,三国時代の魏王朝の基礎を固めた武将。沛 (はい) 国しょう (安徽省) の人。追尊して武皇帝という。宦官の養子の子であるが,黄巾の乱平定に功を立ててから頭角を現し,やがて献帝を奉戴して許を都とし,縦横に武略をふるうようになった。官渡の戦いで袁紹を破り (202) ,次第に群雄を退け,華北をほぼ平定してから南下をはかったが,建安 13 (208) 年孫権,劉備の連合軍と赤壁に戦って敗れ (→赤壁の戦い ) ,以後もその勢力は江南に及ばなかった。同年丞相,同 18年魏公,同 21年魏王の位についた。彼は政治上の実権は握ったが,みずからは帝位につかず,また文学愛好者としての魅力をももっていたようである。後世奸臣の典型とされてきたが,近年中国ではその再評価をめぐる論争が行われた。」】
【注⑦。精選版 日本国語大辞典によると、楠木正成(くすのき‐まさしげ)は「南北朝時代の武将。幼名、多聞丸。河内の人。後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加。河内赤坂城、のち千早城に拠り、巧みな兵法と知略で幕府の大軍を防ぐ。建武の新政府が成立すると、記録所寄人・雑訴決断所奉行など中央政界で活躍するとともに河内、和泉の守護となった。のち建武政権に反した足利尊氏との湊川の戦いで敗北し、弟正季とともに自刃した。大楠公。建武三年(一三三六)没。」】
【注⑧。旺文社世界史事典 三訂版によると、諸葛 亮(しょかつりょう181?234)は「三国時代,蜀漢 (しよくかん) の丞相字 (あざな) は孔明 (こうめい) 。山東の名族。後漢 (ごかん) 末期の戦乱に湖北に難をさけていたが,三顧 (さんこ) の礼で劉備 (りゆうび) に迎えられ,赤壁 (せきへき) の戦いに曹操を破り,四川 (しせん) をとって蜀漢を建て,魏 (ぎ) ・呉 (ご) と天下を3分した。劉備の死後,4回北伐して魏と戦い,魏の五丈原 (ごじようげん) の陣中で病没。彼の兄弟はそれぞれ魏・呉に仕えている。」】
【注⑨。デジタル大辞泉によると、弁髪(べん‐ぱつ)は「北方アジア諸民族の間で行われた男子の髪形。清国を建てた満州族の場合、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたもの。清朝は漢民族にこれを強制した。中華民国になって廃止。」】
(続。)
【注⑩。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、土方久元(ひじかたひさもと[生]天保4(1833).10.6. 土佐[没]1918.11.4.)は「明治期の政治家。伯爵。土佐藩士土方久用の子で通称楠左衛門。号は泰山。文久1 (1861) 年武市瑞山の誓書盟約に加わって尊皇攘夷運動を行ない,同3年8月 18日の政変以後,七卿に随行して西下し,三条実美の信を得た。さらに倒幕運動にも参加し,中岡慎太郎とともに薩長連合実現へ大きく貢献した。明治維新以後,江戸府判事,東京府判事を経て,明治4 (1871) 年には太政官になり,1877年には一等侍補,さらに内務大輔,内閣書記官長,元老院議官,宮中顧問官,農商務大臣,宮内大臣,枢密顧問官を歴任。その後,帝室制度取調局総裁,臨時帝室編修局総裁として修史事業に尽力,また國學院大學学長,東京女学館館長をも兼ねた。」】
(続。長い説明でしたが、全部読むと、高行の太宰府行きの背景に吉田派と勤王派の合体の動きがあることがわかります。なるほど、歴史はこうやって動いていくんだなと感じ入りました。いつものことながら不正確な訳で申し訳ありません)