わき道をゆく第253回 現代語訳・保古飛呂比 その76

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[参考]

一 (慶応二年)八月三十日、公卿たちが書面を提出して、国事について上奏することを願い出た。「聴されず[ママ]由」(=聞き入れられなかったとのこと、という意味と思われる)。その方がたは、

中御門左大辯宰相経之卿(注①)

大原前左衛門督重徳卿(注②)

北小路左京権大夫隨光卿

高野三位保美卿

穂波三位経度卿

高倉三位永祐卿

櫛笥中将隆韶卿

愛宕少将通致朝臣

植松少将雅言朝臣

高野少将保建朝臣

園池中将公静朝臣

高辻少納言修長朝臣

千種徒従有任朝臣

長谷美濃権助信成朝臣

岩倉侍従具綱朝臣

四條大夫隆平朝臣

西洞院大夫信愛朝臣

西四辻大夫公業朝臣

愛宕大夫通旭朝臣

[岩倉大夫具定、澤主水正宜種が脱けている]

大原左馬頭重朝朝臣

右の二十二卿のほか、当日になって所労(病気)などと称して参内しなかった方がたもあるとのこと。

関白 尹宮(注③。朝彦親王のこと)

常陸宮 近衛内府公

一條大納言 [正親町であろう]三條大納言

九條大納言 柳原大納言

飛鳥井中納言 六條中納言

久世前宰相中将

廣橋は忌服中なので参内されなかったとのこと

【注①。朝日日本歴史人物事典によると、中御門経之(なかみかどつねゆき。没年:明治24.8.27(1891)生年:文政3.12.17(1821.1.20)は「幕末明治期の公家,政治家。父は坊城俊明,中御門資文の嗣子。安政5(1858)年3月,日米修好通商条約勅許に反対して八十八卿列参奏上に参加。文久3(1863)年4月,石清水社攘夷祈願行幸に供奉。和宮降嫁を進めて洛外幽居となった義兄岩倉具視と交流し,慶応2(1866)年8月,岩倉が画策した関白二条斉敬,朝彦親王を弾劾する二十二卿列参奏上に参画。これが勅勘を蒙り,10月閉門となる。翌年3月,孝明天皇死去による大赦で処分が解かれ,朝廷内に復帰。中山忠能,正親町三条実愛と王政復古を議し,大久保利通,品川弥二郎ら薩長藩士とも会し,討幕の密勅作成に関与。政変後,三職制が設置されて議定となり,以後会計事務総督,会計官知事,造幣局掛などを歴任。明治2(1869)年7月内廷職知事より留守長官。9月,維新の功により賞典禄1500石が永世下賜され,翌年12月麝香間祗候。華族会館創設の計画協議などに当たる。<参考文献>早大社会科学研究所編『中御門家文書』(保延有美)」】

【注②。朝日日本歴史人物事典によると、大原重徳(おおはらしげとみ。没年:明治12.4.1(1879)生年:享和1.10.16(1801.11.21))は「幕末の公家,宮中政治家。父は重尹。老中堀田正睦が条約締結の勅許を求めて上洛中の安政5(1858)年3月,これに反対して88廷臣の列参奏上に参画,翌年慎を命ぜられた。大原家は源氏。ふるく12世紀,平氏打倒の兵を挙げた源頼政になぞらえて鵺卿と敬称された。文久2(1862)年,62歳の年の6月,勅使に任ぜられ,島津久光の護衛を受けて江戸に赴き,徳川慶喜,松平慶永の幕政参与を強要。折から,長州藩世子毛利定広の持参した勅諚に久光を批判する文字があり,薩長融和の意図からこれを削除。翌年2月,この罪を問われて辞官・落飾,元治1(1864)年1月赦免。慶応2(1866)年8月,中御門経之と共に列参奏上を断行,二条斉敬,朝彦親王ら親幕派の追放を計画し失敗,閉門となる。翌年3月,処分解除。王政復古で三職制が新設され参与,以後,刑法官知事,議定,上局議長,集議院長官。明治2(1869)年賞典禄1000石を永世下賜され,翌年麝香間祗候,79歳で没した。(井上勲)」】

【注③。朝日日本歴史人物事典のよると、朝彦親王(あさひこしんのう。没年:明治24.10.29(1891)生年:文政7.1.28(1824.2.27))は「幕末維新期の宮廷政治家。伏見宮邦家親王の第4子に生まれる。天保7(1836)年仁孝天皇の養子となり奈良一条院門跡,同8年親王宣下,同9年得度を受け尊応入道親王と称す。嘉永5(1852)年京都粟田口の青蓮院門跡となり尊融と改称,同年12月より天台座主。広く英明をうたわれ,水戸藩士から今大塔宮(護良親王再来の意)と称された。安政5(1858)年2月条約調印の承認を求めて老中堀田正睦が上洛して以来,諸藩の京都手入れが活発化。水戸藩士,次いで越前藩士の働きかけを受け,条約調印反対の姿勢を示し,将軍継嗣を徳川慶喜に期待して活動。翌6年2月謹慎,12月には隠居・永蟄居に処せられた。文久2(1862)年4月処分を解除され,青蓮院門跡に復した。時に39歳。同年12月国事用掛。翌3年1月還俗の内勅を受け中川宮と称す。 公武合体論を唱えて尊王攘夷運動に対抗。孝明天皇の意を受け8月18日の政変を指導,長州藩・尊攘派勢力を京から追放。その直後に元服し,名を朝彦とした。尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ,皇位簒奪の異図を含み呪詛の密法を行っているとの讒誣を受け,以来この種の風評に悩まされる。当初は薩摩藩と協調していたが,元治1(1864)年より徳川慶喜と接近。以来関白二条斉敬と共に朝廷内から慶喜の政権を支持し続け,そのため慶喜に批判的な廷臣の反発を招く。慶応2(1866)年8月,大原重徳,中御門経之ら22廷臣の列参奏上で弾劾され辞意を表明したが却下された。翌3年12月9日の王政復古の政変に際して参朝停止の処分を受ける。翌明治1(1868)年8月徳川再興の陰謀を企てたとの嫌疑により親王の位を剥奪され,広島に幽閉された。同3年京都帰住を許される。同8年5月親王の位を回復し,一家を立てて久邇宮と称す。7月神宮祭主に任命される。神宮の旧典考証に没念,22年遷宮の儀式に従事した。著書に『朝彦親王日記』がある。(井上勲)」】

一 公卿らが言上の際、(提出した)文書は左記の通り。

愚昧な小臣らがみだりに言上するのは深く恐れ入りますが、当今の天下の形勢は日一日と切迫し、天子の御前で暴発が起こる恐れもあります。容易ならざる事態に苦慮して、臣らの真心は黙止傍観にたえぬ次第です。赤心を言上したいと思いましても、詳しいことの一部始終を文書にあらわすのは難しく、なにとぞご対面をお許しいただき、事実をご理解していただけるよう言上したいと存じます。臣らの微衷(自分のまごころ・本心をへりくだっていう語=デジタル大辞泉)を察していただき、格別の憐れみをもって、速やかに直奏できますよう心から願い奉ります。

演説(の内容は次の通り)

一 これまでの事情を言上すること。

一 人心の混乱がやまないことなどを言上すること。

一 こうしたことにより、京都騒乱の恐れがあり、焦眉の急のため、何とぞ両宮(尹宮と野々宮のこと)の国事掛かりを免じられ、幽閉を命じられるべきこと。

一 堂上の幽閉を勅命で赦免すること。

一 列藩を天子の御前に召集すること。

一 大職辞退以下のこと。

一 列藩の上京により国事を決定すること。

一 八月末日、大原卿をはじめ二十二人の公家たちが参内された。辰の刻(午前八時ごろ)までである。すぐさま「中御門卿・二條殿下(注④)[脱字あるか]被仰出、御拝謁の上」(※脱字があるため意味が不明)、(中御門卿が)二條殿下に、今日は宮中で建言することがあり、三番所[御近習内の外様]の一同が参内するので、早々に参内なされますようにと申し上げた。そうしたところ、二條殿下は、朝廷で建言するということはきっと尹宮と我が身にかかわることにちがいない、まさしく我が身にも関係することであるなら、遠慮なく言ってくれないかとお尋ねになった。それに対し中御門卿は、まさに仰せの通りです、しかし、貴方様のご身上には決してかかわるようなことはありませんが、尹宮についてはきっと参内されるでしょうから、廊下で押しとどめる手筈に決まっていますと申し上げた。すると二條殿下は建言のわけはどういうことかとお尋ねになった。中御門卿曰く。「朝廷の失態について、尹宮・野々宮(注⑤)の両奸(二人の悪人)に退職を命じられるようにしたいのです。それと、幽閉された公卿たちの赦免の件です」。二條殿下曰く。「その件であれば尹宮に限らず、我とても同罪であり、今になって歎息の至りだ。これまでの着眼をいちいち間違って失策を犯し、朝廷の失態となったのはまことに我が罪である」。二條殿下がひたすら悔悟の様子でおっしゃられるには、「尹宮とても天下の混乱や朝廷の失態を好まれたわけでは決してなく、ただ上下安堵の道を尽くされたことがあるいは失策になったことであるので、その志は格別憎むべきものではなく、なにぶん現在の時勢となり、致し方もない次第である。建言のわけはもっとも至極のことである。自分は今日にでも辞職するほかないので(建言は)まことに幸いなことだ。今日の申し立てを契機になにぶん尽力し、幽閉中の公卿だけは今日中に「被□候様」(※欠字があって意味不明)取り計らうつもりだ。尹宮の件は、廊下で押しとどめるのは容易ならざることにもなるのではないかと甚だ心配なので、それは見合わせてほしい。誰もが列席したところで、朝廷の失態を言上したならば、自ずからその罪の帰するところ、尹宮と自分一人が天子の御前で罪を認め、自ら辞職するように取り計らってこそ、穏便な策と思う。それでも尹宮が辞職しないときは、私が明日を限りに辞職するので、尹宮とても在職は難しくなるだろう。もし、そのことも齟齬を来したときは、幽閉中の公卿たちさえ赦免されれば、そのなかには秀才の人間もあるゆえ、「何分相退け様にて」(?)、どうにでもなるだろう」。二條殿下があれこれとそのようにおっしゃるので、中御門卿はお帰りになり、列参の方々と一緒にお受けになった。それから、二條殿下は参内され、前記の三番所より国事建白があるので、早々に参内されるよう、尹宮はじめそれ以下の方々に通達された。午の刻(正午ごろ)より申の下刻(午後五時ごろ)までに五摂家・宮方以下が参内された。

参内されなかったのは鷹司卿・徳大寺殿、そのほか国事掛かりに関係する方がやむを得ず参内されたとのこと。 

一 宮方(皇族方)・三公卿(太政大臣・右大臣・左大臣か)以下が列参され、中御門卿・大原卿より二條殿下に次のように言上した。「今日は国事の件について言上したいことがあり、三番所の同列の者たちが参内しております。ただし、主上(天子のこと)の御前で言上したいので、ご列席していただけように」と申し上げたところ、殿下より直ちに奏上された。それより主上の御前に召され、全員が列席の上で、大原卿より言上すべきことは次の四カ条である(と申し上げた)。

第一 

一 列藩を召集する件。これまで何度か朝議にも取り上げられたと承知していますが、今日までも因循(ぐずぐずしていること)され、天下の形勢はまことにもって切迫を極めております。このうえ因循されては、容易ならざる国難も生じかねません。何とぞ今日中にに決議をして、列藩召集の勅命をお下しなされますようにと申し上げた。

第二

一 甲子年(元治元年)以来幽閉の公卿を早々に赦免されたし。今日のままにしておくのはよろしくない。

第三

一 長州征討の件は早々に解兵を命じられたい。

第四

一 朝廷のご失態、偏言(偏った言葉)・不偏言、「朝たに出て夕べに変する儀」(朝令暮改という意味か)などの事件をいちいち申し上げられた。

以上のことを言上したところ、主上はことのほかご逆鱗(はげしく怒ること)され、四カ条の事どもはいずれも不承知だとおっしゃった。すると二條殿下が「大原左衛門督より言上した事どもはいずれももっとも至極の次第です。朝廷のご失態の件はまことに我が罪であります」とおっしゃったところ、大原卿が「それは決して御前(二條殿下)の罪ではありません。御前の職掌は天下のすべての重要な事柄の指揮をとることですので、あながち国事のみに関係しておられるわけではありません。これは国事のみに関わっておられるお方の罪です」と申し上げた。それに対し尹宮は「まったくその通り。これは我が罪である」と言い、大原卿はこう言った。「まさに仰せの通り、このように朝廷がご失態を犯されたのは、すべて御前(尹宮)の罪である。なぜなら主上はすべてに寛大なご叡慮を示されるため、幕府や一橋(慶喜)の申し立てることのみを信じられ、朝廷の政事はすべて幕府や一橋らの朝議となり、ご失態を犯すことになったのです。これは何しろ早々に改めなければ一日も済まず、このままにしておいたら主上のご失徳(徳義に外れること)を天下に示すだけのことになりますので、まことにもって心痛しておる次第です」。これに対して尹宮は「いかにも我が罪である。今になって先非を悔いるほかなく、まことに恐れ入ります」と言われ、伏罪されたのことである。主上はこうおっしゃった。「朕においてはいちいち不承知である。それほど国事を心配する気持ちがあるのなら、昨年、攝海(大阪湾)に異船が来たときに何とか申し出るべきだろう。そのときは何も言わずして今日に至り、「折り[元のママ]に企て]申し立てたことは何とも理解しがたい。ついては明後日の(九月)二日、大原一人で来るように。朕といちいち議論を試みてみよう」とおっしゃったとのことである。そうしたところ、殿下より諸侯召集の件はなにぶん命じられなければ実現が難しいということを上奏したところ、ご承認になり、同夜までに決議されたとのことである。主上のご逆鱗の件は、深い考えがおありになることと考えます。その證は、二日に大原卿お一人で主上に会われた後に考えるつもりです。

【注④。朝日日本歴史人物事典によると、二条斉敬(にじょう・なりゆき。没年:明治11.12.5(1878)生年:文化13.9.12(1816.11.1))は「幕末の公家政治家。五摂家。父は斉信,母は水戸藩主徳川治紀の娘従子。安政5(1858)年条約調印に反対の態度を示し,12月,徳川家茂への将軍宣下を伝達のため江戸に赴く。大老井伊直弼に面会を求めたが拒絶され,翌年,10日間の慎に処せられた。文久2(1862)年1月に右大臣,同12月国事用掛。翌年8月18日の政変に参画し尊攘派勢力を一掃,12月,関白に就任する。以来,朝彦親王と共に,幕府および徳川慶喜と提携して朝廷を運営,長州再征・条約の勅許に尽力した。慶応2(1866)年9月,列参奏上の22廷臣から批判を受け辞表を提出。却下され,徳川慶喜の将軍就任に力を尽くす。同年12月孝明天皇が没し,翌年1月明治天皇の践祚に伴って摂政となる。王政復古の政変で摂政・五摂家の制が廃絶され,参朝停止の処分を受けた。明治1(1868)年8月処分解除,翌年7月麝香間祗候。ちなみに二条家は,他の摂家と違って将軍の諱の1字を用いる慣例があり,斉敬の「斉」は家斉の「斉」である。(井上勲)」】

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、野宮定功(ののみや-さだいさ1815-1881)は「幕末-明治時代の公卿(くぎょう)。文化12年7月26日生まれ。安政5年外交措置を幕府に委任する決定に反対し,万延元年和宮降嫁の御縁組御用掛をつとめる。文久2年武家伝奏(てんそう)となり,公武間の折衝にあたった。元治(げんじ)元年権(ごんの)中納言,慶応元年正二位。維新後,皇后宮大夫。明治14年1月10日死去。67歳。著作に「野宮定功公武御用記」など。」】

九月

一 この月一日、将軍の喪により長州征討の兵を停めることを命じた。その柩を捧げ持って海路江戸に帰り、同二十三日、増上寺に葬った。

一 同四日、(高行が)高知を発った。朝倉村に止宿した。これは、友人らになおまた相談もあるからである。ここまで送ってきた友人たちの一人は「このたび太宰府については種々の風聞がある。勤王家は佐幕家に降参して探索に出ると」と言った。ある者は「(太宰府行きの命令に従う)佐々木もその心底がわからない」と言い、あるいは「中山(佐衛士。吉田派)らの奸計で勤王家を陥れるのだ。藩政府はその議論がまとまらぬので勤王家の機嫌をとるのだ」と言った。自分は「(そういうことは)どうでもいい。我が素志が達せられればよし。もし藩政府のために同志たちを陥れる策であっても、四、五人の者たちが十分注意すれば他には及ばない。自分等が陥れられた後は、いよいよ同志の志も立ち、他日の為になるだろう」と答えた。

太宰府へ同行の者は次の通り。

毛利恭助・島村寿太郎・藤本潤七・佐井虎次郎・中山左衛士

一 同五日、快晴。朝倉を発ち、戸波村の森園左衛門方に宿をとった。

一 荒倉山で栗の実(を買う) ヒカ銭(?) 五十文

一 高岡村で両掛(荷物をひもで結んで前と後ろに振り分け、肩に担ぐこと=デジタル大辞泉) ハク代(?) 「一匁四分五厘 内金三朱払 四匁八分過上」(※意味がよく分からない)

一 九月六日、晴れ、戸波を発ち、須崎浦より乗船、久礼浦に止宿した。

須崎で医師・岡村斧吉ら勤王家に出会い、岡村より道中用意の薬を贈られた。

一 六匁六分 油紙代 一 二匁六分七厘 肴代

一 草履 ヒカ 十文 一 柿栗の実 ヒカ 十六文

一 九月七日、雨、久礼を発ち、窪川で昼食、佐賀村の村長(むらおさ)宅に止宿。

一 三匁一分 小笠

[参考]

一 同七日、朝廷が豊信公(容堂公)を召す(呼び寄せるの意)。その命令は次の通り。

松平容堂

徳川中納言(慶喜公)の言上の趣旨もあって、諸藩の意見をお聞きになるので、速やかに上京されたい。決議の内容は中納言(慶喜公)から奏上するよう(主上が)お命じになった。

なお九月に土佐守(藩主の豊範公)が召さるべきところだが、御用筋のご都合もあるので、(容堂公が)上京するように。

一 諸侯の召集は各藩の有志の一方ならぬ尽力により、朝廷が直接召集することに決まったのだが、一橋(慶喜公)が一策を講じて、自分の力で召集が決まったということにしようとしている。これにたいして各藩有志たちは納得していないとのこと云々。

尾張前大納言(第十四代尾張藩主・徳川慶勝)

紀伊中納言(和歌山藩主・徳川茂承。注⑥)

松平加賀守(加賀藩主・前田慶寧。注⑦か)

右は自身が上京するように。

松平閑叟(前佐賀藩主・鍋島直正。注⑧)

松平容堂

伊達伊予守(前宇和島藩主・伊達宗城。注⑨)

島津大隅守(島津久光)

右は銘々の藩の当主が召されるべきところだが、朝廷のご都合があるので、当主の代わりとして上京するよう。

細川越中守(熊本藩主・細川韶邦。注⑩)

右はご用筋のご都合もあるので、長岡良之助(注⑪)も一緒に上京するよう。

松平阿波守(徳島藩主・蜂須賀斉裕)

松平淡路守(斉裕の二男・蜂須賀茂韶)

松平美濃守(福岡藩主・黒田長溥)

松平下野守(長溥の養子・長知)

松平安芸守(広島藩主・浅野茂長)

松平紀伊守(茂長の養子・浅野長勲)

藤堂和泉守(伊勢津藩主・藤堂高猷)

同 大学頭(高猷の長男・高潔)

松平隠岐守(松山藩主・松平勝成)

同 式部大輔(勝成の養子・松平定昭)

右は父子のうち(どちらかが)上京するよう。

松平陸奥守

松平因幡守

松平三河守

松平出羽守

有馬中務大輔

松平備前守

立花飛騨守

右の者たちが上京するよう。

右のほか上京の分(は次の通り)。

松平大蔵大輔

松平肥後守

松平越中守

上杉式部大輔

【注⑥。朝日日本歴史人物事典によると、徳川茂承(とくがわもちつぐ。没年:明治39.8.20(1906)生年:弘化1.1.15(1844.3.3))は「幕末の紀州(和歌山)藩主。紀州支藩の伊予国西条藩(愛媛県)藩主松平頼学の子に生まれ,安政5(1858)年幕命により本家を継ぐ。慶応1(1865)年5月征長先鋒総督に任命され,翌年6月より第2次長州征討の指揮に当たったが,戦況不利のまま休戦,帰陣。慶応4年1月鳥羽・伏見の戦で敗走した徳川兵を庇護したとの嫌疑を受け上洛,藩兵を東海道先鋒総督に提出,命じられて金15万両を献上。のち和歌山藩知事,廃藩置県で東京府貫属。皇居炎上ののちの同6年,赤坂の旧中屋敷地を献上。同10年,旧藩士族の人材養成のため金10万円を提供して徳義社を設立。趣旨に言う,「藩主に仕るの忠は国に報るの忠と為るべし。門閥の争論は民権の争論と為るべし」。福沢諭吉の文である。(井上勲)」】

【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると、前田慶寧(まえだ・よしやす。没年:明治7.5.22(1874)生年:天保1.5.4(1830.6.24))は「幕末の加賀(金沢)藩主。父斉泰隠居を受け慶応2(1866)年14代藩主となり102万2700石を領した。嫡子のときから側近に尊攘派が多く,元治1(1864)年京都守衛のため上京した際も,長州(萩)藩の弁護に当たった。しかし禁門の変が起こると病気と称して帰国したため謹慎させられ,尊攘派の側近も除かれた。戊辰戦争の際,一時幕府に援軍を出そうとしたが中止され,官軍として北越戦に兵を出し,明治2(1869)年賞典禄1万5000石を与えられ,次いで金沢藩知事に任ぜられた。<参考文献>日置謙編『加賀藩史料』幕末篇下(上野秀治)」】

【注⑧。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、鍋島直正(なべしまなおまさ。1814―1871)は「幕末の佐賀藩主。幼名貞丸、初め斉正(なりまさ)。維新後直正と改名し、閑叟(かんそう)と号した。1830年(天保1)父斉直(なりなお)から家督を継いだが、前代の放漫財政によって藩財政は破綻(はたん)寸前であった。古賀穀堂(こがこくどう)らの改革派を側近に置き、藩校弘道館(こうどうかん)出身の人材を登用して人事を刷新し、天保(てんぽう)の改革を行った。均田制を施行して本百姓(ほんびゃくしょう)維持政策をとり、国産方を設置し、陶器、櫨蝋(はぜろう)、紙の開発や石炭の増産を行い、財政を立て直した。また、佐賀藩は長崎警備の任にあり、直正自身しばしば長崎に赴き、外国警備の重要性、西洋技術の優秀性を認めていたため、早くから洋式軍制改革を実施した。1852年(嘉永5)わが国で初めて反射炉の建設を成功させ、大量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入に努めた。また蘭学(らんがく)を奨励し、種痘(しゅとう)を施行し、幕末に薩長土肥と通称される雄藩の実力を養った。藩政改革の成功の反面、幕末の幕府・朝廷をめぐる政争への介入には一貫して慎重であり、直正は1860年(万延1)の幕府の召命を固辞し、翌1861年(文久1)隠退して二男直大(なおひろ)に家督を譲った。その後も招きによって再三上京したが政争への参加には慎重であった。戊辰(ぼしん)戦争では、強力な軍事力によって官軍に重きをなし、大隈重信(おおくましげのぶ)、江藤新平(えとうしんぺい)ら藩の実力者を新政府に送り込み、自らも議定につき、軍防事務局輔(すけ)、ついで制度事務局輔を兼任した。その後、上局議長、蝦夷(えぞ)開拓督務、開拓使長官を務め、大納言(だいなごん)に任ぜられた。明治4年1月18日没。[井上勝生]『久米邦武編『鍋島直正公伝』全7巻(1920~21・鍋島家編輯所)』」】

【注⑨。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、伊達宗城(だてむねなり。1818―1892)は「幕末・明治時代初期の政治家。文政(ぶんせい)1年8月1日、旗本山口相模守(さがみのかみ)直勝の子として江戸に生まれる。1829年(文政12)伊予(いよ)国(愛媛県)宇和島(うわじま)藩主伊達宗紀(むねただ)の養子となり、1844年(弘化1)襲封。藩政改革に努めて殖産興業に成績をあげ、また高野長英(たかのちょうえい)や大村益次郎(おおむらますじろう)を招いて洋式軍備の充実を図った。安政(あんせい)期(1854~1860)将軍継嗣(けいし)問題の際には、島津斉彬(しまづなりあきら)、松平慶永(まつだいらよしなが)らと一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の擁立を画策したが成功せず、安政の大獄を期に隠居し、封を嗣子(しし)宗徳(むねのり)に譲った。1862年(文久2)の島津久光(しまづひさみつ)の公武合体運動に呼応して中央政界に進出、1863年12月一橋慶喜、松平慶永、松平容保(まつだいらかたもり)、山内豊信(やまうちとよしげ)らと朝議参与に任命されたが、横浜鎖港問題で慶喜と衝突し反幕色を濃くした。1867年(慶応3)12月新政府の議定(ぎじょう)に就任、外国事務総督、外国官知事として政府発足当初の外交責任者を務めた。1869年(明治2)民部卿(みんぶきょう)兼大蔵卿、翌1870年7月の民蔵分離によって、大蔵卿専任。1871年4月欽差(きんさ)全権大臣に任命され清国(しんこく)差遣、7月29日大日本国大清国修好条規(日清修好条規)を締結した。帰国後、麝香間祗候(じゃこうのましこう)、外国貴賓の接遇にあたった。明治25年12月20日没。[毛利敏彦]『兵頭賢一著『伊達宗城公傳』(2005・創泉堂出版)』▽『楠精一郎著『列伝・日本近代史――伊達宗城から岸信介まで』(朝日選書)』」】

【注⑩。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、細川韶邦(ほそかわ-よしくに。1835-1876)は「幕末-明治時代の大名。天保(てんぽう)6年6月28日生まれ。細川斉護(なりもり)の次男。万延元年肥後熊本藩主細川家11代となる。第2次幕長戦争に参加。明治元年慶順(よしゆき)を韶邦と改名した。明治9年10月23日死去。42歳。」】

【注⑪。朝日日本歴史人物事典によると、 長岡護美(ながおか・もりよし。没年:明治39.4.8(1906)生年:天保13.9.7(1842.10.10))は「肥後(熊本)藩主細川斉護の第6子。勤王派として明治維新に活躍。雲海と号し詩をよくした。明治期は中国通として活躍。明治1(1868)年3月参与。3年熊本藩大参事。5年米国を経て英国ケンブリッジ大に留学。12年帰国。子爵を賜り,外務省御用掛となる。13年興亜会会長。同年オランダ駐箚特命全権公使となり,ベルギー,デンマーク両公使も兼務。15年元老院議官。16年高等法院陪席裁判官となり福島事件を裁判。31年東亜同文会副会長。34年清国に渡り,劉坤一,張之洞らと内政改革とロシア対策を会談。<参考文献>対支功労者伝記編纂会編『対支回顧録』(佐々博雄)」】 

一 九月八日、晴れ、佐賀を発ち、午後、鞭村(幡多郡)に入り、中村に宿をとった。

一 髪月代(男の髪を結い、月代をそること=デジタル大辞泉)代 ヒカ 二十文

一 柿の実 ヒカ 十五文

一 「クデ緒代外に」(?) 一両九分六厘七毛 一 ワラヂ 四疋

一 九月九日、晴れ、中村を発ち、川登で川舟に乗り、田出川及び鵜江で舟を次ぎ、勝間で舟を次がせた。(その後)久保川・口屋内の中半岩の間で舟を次ぎ、黄昏に津野川に着いた。番頭庄屋(注⑫)の間崎太右衛門方に宿をとった。名代の徹吉と、その弟の次郎らが出迎え、酒肴を出す。(※魚住注。文中に出てくる地名を追っていくと、高行らは高知県西部を流れる四万十川の下流から上流に向けて移動している。流れを逆行して上っていくため、途中で舟を何度も乗り換える必要があったのではないか。)

【注⑫。宿毛市史【近世編-農村の組織と生活-農村組織】によると、「宿毛の町分(商人の町)には町庄屋が別に置かれ、浦には浦庄屋が置かれていた。浦庄屋は長宗我部時代には刀ね(とね)とよばれていた。この他、番頭(ばんがしら)大庄屋とか、番人(ばんにん)庄屋とかいわれるものが置かれたが、これは番所(関所)の番人の頭、すなわち番頭を兼ねた庄屋が番頭庄屋又は番頭大庄屋であり番所の番人を兼ねた庄屋が番人庄屋である。」】

一 同十日、津野川を発ち、梨木山を越え、中家地の庄屋・高添方で休憩し、それより御境番所(宇和島領と土佐領の境にある関所)を出て、予州の上家地に入り、富岡を経て、松丸で昼めし、(その後)豊岡・永野市・芝野・奈良・北川に人夫を次ぎ、千馬峠を越し、柿原・中井田より宇和島城下に入る。開門制あり。(※関所がふだんは閉まっていて、通行人がいるときに限り、係官が来て、門を開くことになっているという意味か)。夕方になってようやく役人が来た。山田屋千代松に宿をとった。

一 人夫料 ヒカ 五文

一 同十一日、晴れ、宇城目付(※よくわからないのだが、宇和島城の目付という意味か)の足軽小頭・赤松寛助が来て、用向きを尋ねた。よって、周旋役に面会を求めた。夕方、会所(※会所は人の集会するところという意味だが、この場合、何を指しているのか、いまひとつよくわからない)に転宿した。土居瀬兵衛と出会い、話をした。そのほか二人ばかりと面会して話したが、その内容は別に記す。

一 草履代 一匁一分 佐井(虎次郎)へ払う。

一 旅籠料 二朱 藤本(潤七)へ渡す。

一 同十二日、晴れ、土屋氏(※前出の土居瀬兵衛のことか)より探索書を借りて写す。午後、玉置兎毛が来て、話した。同断(話の内容は別に記すという意味)。昨今は二日とも酒肴を出す。

一 中用金(?)へ 一分出す。

同日夕刻、乗船し、すぐに出帆した。

(続。この時点ではまだ土佐藩の中堅官僚にすぎない佐々木高行ですが、もうまもなく歴史の表舞台で活躍し始めます。それがどのような展開になるか、お楽しみに。国立国会図書館の「近代日本人の肖像」に佐々木の履歴が載っていますので、ご参考までに、それを紹介しておきます。「高知藩士。高知藩の郡奉行や大目付をつとめ、藩政に関わる。坂本竜馬らと交わり、大政奉還の実現に尽力。戊辰戦争では海援隊を率いて長崎奉行所を占拠。維新後、新政府に入り、参議、司法大輔などを歴任。明治4(1871)年岩倉遣外使節団に参加。征韓論争後も政府にとどまり、西南戦争では高知の士族反乱を抑える。14年参議兼工部卿に就任。明治天皇の信厚く、宮中と深い関係を持つ。宮中顧問官、枢密顧問官を歴任。明宮(大正天皇)の教育にもたずさわった。」)