わき道をゆく第254回 現代語訳・保古飛呂比 その77
一 (慶応二年)九月十三日、曇り、未の中刻(午後二時ごろ)ごろ、豊後佐賀関に到着。高田屋文治方に泊まるつもりだったが、肥後(熊本藩)のもろもろの警衛が厳しく、みだりに上陸を許さなかった。(※佐賀関は熊本藩の飛び地だった)
一 金三両一分二朱、船賃を出す。
一 同十四日、雨、昨日より上陸できず、船中に潜居して、夜中密かに高田屋に止宿した。
一 二歩二朱 船賃にした。(※これはたぶん上陸時に使った舟の賃料だろう)
ただし、後で六人に割るはず。
一 同十五日、晴れ、未明に裏港より漁舟を借り、四挺立ての櫓をこいで、別府に向けて出港した。風波が荒く、途中で舟が進まなくなった。折りから(中山)左衛士が病を発し、やむをえず一里ばかり漕ぎ戻したが、密行しているので、それがバレたときは事が難しくなるため、すぐさま廻船を借り、(船内に)潜居して、日没を待って、夜の亥の刻(午後十時ごろ)、風波が穏やかになったので、またまた小舟に乗り移り、出帆した。
右の潜居などあれこれは高田屋文治の周旋によった。高田屋はこれまで土佐から長崎などへ通行の際の用達宿だったので、十分に周旋してくれた。
一 中用金(?。旅行中にかかる共通経費として各自が拠出する金のことかとも思うが、よくわからない)へ 一両出す。
一 九月十六日、曇り、佐賀関から別府まで海上十里という。小舟で昨夜出帆し、今日の未明に別府に着き、若木屋に休息。温泉に入り、それより人足を雇って出発した。石垣原に昔の大友・黒田両家の古戦場があった。大友氏の家臣・吉弘嘉兵衛という大力士の墓があった。ここを過ぎて、亀川を経て、コマガ坂を越え、小浦で人足を次ぎ、頭成で昼飯、一朱を両替で七百八文に替えた。うち「ヒカ十九文とぐセ銭二文」(?)を払い、それから金越峠を一里登り、一里下る。上り坂は少し悪く、道幅はよし。坂を下り、立石まで二里、夕方、立石に着き、萬屋正吉方に泊まった。
一 別府より 小浦まで三里
一 小浦より 立石まで四里
一 同十七日、曇り、[立石は木下内匠領。土居(城の周囲にめぐらした土を盛った垣のことか)あり。五千石という]。立石を発って三里歩いた。この道には中坂(大きくも小さくもない坂という意味か)があった。宇佐八幡宮へ参拝して昼飯にした。
一 肴料 六十文 一 初穂料(神前に捧げる供物の金品) 一朱
途中、小倉藩の河野主殿が大坂に行くところに会ったが、知る人ではなかった。その従者の話では、九月九日、朝方に、長州人を大勢討ち取ったという。ほんとうだろうか。宇佐より二里、[この間に澤関川あり]。四日市で人足を次ぎ、同所より犬丸へ二里、道路はよかった。この途中小さな坂があった。犬丸より中津へ二里、中津城下の鶴屋惣兵衛方に泊まった。
一 髪結い 一匁 「藤本へ借す」(※高行が藤本に貸したのを、借すと表記したのではないか。?)
一 九月十八日、晴れ、中津に滞留。同家の篠原甚兵衛・跡部彌右衛門に面会、酒肴が出た。夕方、宿に帰った。
一 玉子代 三十六文 一 二歩 中用(?)に出す。
一 同十九日、晴れ、中津を出発。一里半で佐智、さらに一里半で樋田より口野林、そこから一里半で宮園、二里半で守実に到着。山淵屋嘉右衛門方に泊まった。
一 柿代 二十四文
一 同二十日、晴れ、守実を出発、その夜は日田に泊まった。
一 髪結い賃 七十八文 一 栗代 三十八文
一 二百文 支度料
一 同二十一日、晴れ、出発の際、毛利恭助と二人で日田代官(※日田は幕府直轄領)の窪田治部右衛門を訪ねた。窪田は(土佐藩の)江戸屋敷にいつも来ていて、容堂公が気安くしておられるので、自分らも窪田とは懇意にしているためである。窪田に会ったところ、同人は何年か前に江戸で会ったときとは大いに模様替わりして落胆の様子で、日ごろの勇気が見えなかった。窪田が言うには、馬関などの戦で小笠原圖書(小笠原長行。九州方面の幕府征長軍の総督。注①)らが逃げ出したため、兵の士気が挫けてどうにもならない。当地はどちらも大藩で、頼むべきは小藩なので、策略もなし。我が生まれ故郷は肥後であるけれど、今日は何とも申し上げがたく、ただただ歎息するのみ。幕府の威光が衰えたことを思うべきである。午後に日田を発ち、四里で久喜宮に。このあいだ、昼飯をとろうと茶店らしきところに立ち寄ろうとしたが、正午をすぎて往来の少ないところのためか、一軒もなかった。仕方なく麦飯少々をようやく口に入れ、大いに困却した。久喜宮より一里で志和、四里で甘木に着いた。二宮彌助方に泊まった。今日、筑前藩の番所(関所)で不審尋問を受けたが、行く先を偽って通過した。そんなこんなで遅刻し、夜五つ時(午後八時)ごろ宿に着いた。
【注①。朝日日本歴史人物事典によると、小笠原長行(おがさわら・ながみち。没年:明治24.1.22(1891)生年:文政5.5.11(1822.6.29))は「幕末の老中。唐津藩(佐賀県)藩主小笠原長昌の長子に生まれる。2歳で父を失い,他家から入った藩主のもとで部屋住となる。安政4(1857)年藩主長国の世子となり藩政指導に当たる。学識はつとに高名で,文久2(1862)年7月,徳川慶喜,松平慶永の幕政のもと世子の身分のまま奏者番,若年寄を経て老中格。翌年上洛,将軍徳川家茂のもと朝幕間の融和を図るが尊攘派の攻撃にあい失敗,江戸に帰る。5月決断してイギリスに生麦事件の償金を支払い,向山一履(黄村),水野忠徳らと兵約1500を率いて大坂に上陸,尊攘運動の抑圧を図るが朝廷の反発を招き,免職された。慶応1(1865)年9月老中格,次いで老中。翌2年長州処分執行のため広島に出張,小倉に渡り九州方面の征長軍指揮に当たるが,戦局は不利に進行,家茂死去の報を得て小倉を脱す。10月免職・謹慎。翌11月老中に復職。鳥羽・伏見の戦の後の明治1(1868)年2月,老中を辞職し世子の地位も放棄。江戸を脱走,奥羽越列藩同盟に加わり板倉勝静と共に参謀役。同盟崩壊後,箱館五稜郭に入る。翌2年4月戊辰戦争の最終段階,箱館戦争の最中,アメリカ船により帰京,潜伏。同5年姿を公にするが,その後も世間を絶って余生を送る。「俺の墓石には,声もなし香もなし色もあやもなしさらば此の世にのこす名もなし,とだけ刻んで,俗名も戒名もなしにして貰いたいなあ」と冗談を交えて遺言。子の長生は世間並みの墓石を作った。<参考文献>『小笠原壱岐守長行』(井上勲)」】
一 同二十二日、晴れ、二歩を中用(?)へ出す。甘木を発ち、四里で二日市、さらに四里で博多に到着、二口屋與兵衞方に泊まる。昨日から、用向きのため太宰府に行くということを筑前藩の役人に知らせている。これは世上騒々しき折から、同藩より不審尋問を受けることになっては手間取ると思ったので、そのようにした。後を追うようにして足軽二人ばかりがついてきた。同藩は勤王家の有志は何年か前から皆を重刑に処し、今は俗論が大勢を占め、幕府の鼻息をうかがっているため、太宰府などへの往来は、最も厳重に注意しているように見える。
一 京都の事情の概略は、次の通り。
この一冊は薩摩の大山格之助(注②)が慶応二年九月五日に出発し、長州へ渡海し、同二十三日、これを携えて帰宰[宰は太宰府のこと]したという。
参謀人(※長州側で謀議に加わった者という意味か。以下はそのリストと思われる)
越後手元役 佐久間佐兵衛(注③)
政府御内話役 宍戸左馬之助(注④)
大坂御留守居役 竹田正兵衛(注⑤)
政府 中村九郎(注⑥)
以上は切腹した。
政府御内話役[親類頭] 前田孫右衛門(注⑦)
惣目付 毛利登人(注⑧)
政府 楢崎彌八郎(注⑨)
同 大和國之助(注⑩)
蔵元役[三條殿付き] 村田次郎三郎(注⑪)
蔵元役政府 波多野金吾(注⑫)
小納戸 瀧彌太郎(注⑬)
蔵元役 山田又助(注⑭)
政府 中村文右衛門(注⑮)
同 渡邊内蔵太(注⑯)
家老 浦靱負(注⑰)
同 清水清太郎(注⑱)
廃嫡退役海軍惣督 松島剛蔵(注⑲)
中勇隊 林市太郎
【注②。朝日日本歴史人物事典のよると、大山綱良(おおやまつなよし。没年:明治10.9.30(1877)生年:文政8.11.16(1825.12.25))は「幕末の薩摩藩士,初代鹿児島県令。樺山善助の次男に生まれ,大山家の養子になる。通称格之助,正円。茶坊主から立身。薩摩独自の剣術示現流の名手。西郷隆盛,大久保利通らの精忠組に属して重きをなしたが,文久2(1862)年の伏見寺田屋騒動では島津久光の命に従い同志を上意討ちした。翌3年の薩英戦争では軍賦役を勤め,以後も薩藩有力者として活躍,王政復古政変のため長州藩軍の上京工作に大久保と共に尽力。戊辰戦争では奥羽鎮撫参謀に任じ奥羽各地に転戦して東北諸藩鎮定に軍功あり,明治2(1869)年賞典禄800石を下賜された。4年8月鹿児島県大参事,7年同県令。征韓論政変(1873)で敗北した西郷隆盛らが帰郷して私学校を経営し中央政府への抵抗の構えをとると,県令として私学校党を全面的に支持,西南戦争でも西郷・私学校党と行動を共にしたため,10年3月官位を剥奪され,9月長崎で斬刑に処せられた。<著作>『大山綱良日誌』(福地惇)」】
【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、佐久間佐兵衛(さくま-さへえ1833-1864)は「幕末の武士。天保(てんぽう)4年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。伯父にやしなわれ赤川姓を名のる。水戸の会沢正志斎(あいざわ-せいしさい)にまなび,帰郷後,佐久間氏をつぎ,藩校明倫館の助教。のち京都で尊攘(そんじょう)派として活躍。禁門の変で敗れて帰藩後捕らえられ,元治(げんじ)元年11月12日処刑された。32歳。本姓は中村。名は忠亮,義済。通称ははじめ直次郎。号は淡水,思斎。」】
【注④。朝日日本歴史人物事典によると、宍戸左馬之介(ししど・さまのすけ。没年:元治1.11.12(1864.12.10)生年:文化1.8.13(1804.9.16))は「幕末の長州(萩)藩の藩士,名は真澂,通称,九郎兵衛,のち左馬之助。林家に生まれ,大組の宍戸家(120石余)の養子となる。嘉永3(1850)年,前大津代官となり,以後,京都藩邸都合人役,藩の所帯方役と財務の実務役を歴任した。家老益田右衛門介の手元役として,政務にも当たり,文久3(1863)年8月18日の政変で,長州藩が京都を追われたあと,大坂藩邸留守居役に任じ,翌年の禁門の変で大坂天王山に陣し,長州藩の撤退に当たった。帰国後,いわゆる俗論派政府によって野山獄に投じられ,長州藩四参謀として獄中で斬首に処された。(井上勝生)」】
【注⑤。 朝日日本歴史人物事典によると、竹内正兵衛(たけのうち・しょうべえ。没年:元治1.11.12(1864.12.10)生年:文政2(1819))は「幕末の長州(萩)藩士。藩要路にあって尊攘運動を支援。元治1(1864)年福原越後の軍の参謀として上洛,禁門の変に敗れ帰藩。第1次長州征討下に誕生した佐幕派藩庁により処刑された。(井上勲)」】
【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中村九郎(なかむら-くろう1828-1864)は「幕末の武士。文政11年8月3日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。藩校明倫館で文武を,吉田松陰(しょういん)に兵学をまなぶ。禁門の変で国司信濃(くにし-しなの)の参謀としてたたかう。帰藩後捕らえられ,元治(げんじ)元年11月12日弟の佐久間佐兵衛らとともに斬られた。37歳。名は清旭。通称は別に喜八郎,道太郎。号は白水山人など。」】
【注⑦。 「前田孫右衛門(読み)朝日日本歴史人物事典 「前田孫右衛門」の解説前田孫右衛門(まえだ・まごえもん。没年:元治1.12.19(1865.1.16)生年:文政1.7.28(1818.8.29))は「幕末の長州(萩)藩の政治家。大組士で高173石余。名は利済,字は致遠,号は陸山。嘉永5(1852)年,蔵元両人役。安政3(1856)年,当職(国家老)の益田右衛門介の手元役につき,万延1(1860)年,益田の当役への転役により当役手元役。反対のため困難があった洋式軍制改革に尽力した。文久2(1862)年上京して直目付に就き,学習院用掛として政治活動をする。翌年の京都での8月18日の政変後,一時,罷免されたが,用談役の要職に復帰した。元治1(1865)年,長州征討の朝命ののち,野山獄に投じられ,翌日,斬首された。(井上勝生)」】
【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、毛利登人(もうり-のぼる1821-1865*)は「幕末の武士。文政4年7月6日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の尊攘(そんじょう)派で,世子毛利元徳(もとのり)の奥番頭。四国艦隊下関砲撃事件の講和談判では軍使となる。第1次幕長戦争のあと恭順派により野山獄に投じられ,元治(げんじ)元年12月19日同志とともに処刑された。44歳。名は貞武,武。号は主静庵,斤田など。」】
【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、楢崎弥八郎(ならざき-やはちろう1837-1865*)は「幕末の武士。天保(てんぽう)8年7月12日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。江戸で安積艮斎(あさか-ごんさい),大橋訥庵(とつあん)にまなび,尊王攘夷(じょうい)の志をいだく。文久3年政務役となり,禁門の変のあと,藩内で幕府恭順派が実権をにぎると捕らえられ,同志とともに元治(げんじ)元年12月19日刑死した。28歳。名は清義。号は節庵。」】
【注⑩。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、大和国之助(やまと-くにのすけ1835-1865*)は「幕末の武士。天保(てんぽう)6年11月3日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。久坂玄瑞(げんずい)らと横浜外国人居留地焼き討ちを計画,未遂におわる。禁門の変後,藩内の恭順派に捕らえられ,元治(げんじ)元年12月19日斬首(ざんしゅ)された。30歳。本姓は山県。名は直利。通称は別に武之進,弥八郎。」】
【注⑪。デジタル版 日本人名大辞典+Plusのよると、大津唯雪(おおつ-ただゆき1825-1887)は「幕末の武士。文政8年7月9日生まれ。村田清風の次男。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。物頭(ものがしら)役などをへて,文久2年京都留守居役となる。慶応元年諸隊総会計掛,干城隊頭を兼任。代官,奉行をへて明治2年京都公用人となった。明治20年4月3日死去。63歳。通称は次郎三郎,四郎右衛門。」】
【注⑫。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、広沢真臣(ひろさわさねおみ[生]天保4(1833).12.29. 長州[没]明治4(1871).1.8. 東京)は「幕末,維新期の長州藩士。柏村半右衛門安利の4男。幼名,季之進,のち金吾,藤右衛門と改名。通称は兵助。号は障岳。長州藩の安政の改革に参画し討幕運動に尽力,明治維新後は海陸軍務係,内国事務係,同判事などを歴任して参与となる。さらに民部官制副知事,民部大輔などを経て参議となり版籍奉還を推進したが,九段坂上の自邸で刺客に暗殺された。」】
【注⑬。朝日日本歴史人物事典によると、滝弥太郎(たき・やたろう。没年:明治39.12.10(1906)生年:天保13.4.15(1842.5.24))は「幕末の長州(萩)藩の志士。名は厚徳,弥太郎は通称。長州藩八組士滝茂兵衛の子として萩に生まれる。禄高70石。安政5(1858)年松下村塾に入り,吉田松陰に学ぶ。文久2(1862)年,高杉晋作,久坂玄瑞らの攘夷血盟に加わるなど尊攘運動に奔走。翌年9月,河上弥市と共に奇兵隊の総督となり,翌元治1(1864)年2月まで務めた。慶応2(1866)年の幕長戦争では石州口に戦い,功を立てた。明治以後は,長崎,佐賀の地方裁判所判事,大阪控訴院部長,岡山地方裁判所長などを歴任した。(三宅紹宣)」】
【注⑭。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、山田亦介(やまだ-またすけ1809*-1865*)は「江戸時代後期の武士。文化5年12月18日生まれ。村田清風の甥(おい)。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。長沼流の兵学をおさめ,砲台建設,洋式軍艦庚申(こうしん)丸の建造など海防につくす。恭順派の台頭により,元治(げんじ)元年12月19日処刑された。57歳。名は憲之,公章。号は愛山,含章斎。」】
【注⑮。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中村祇歓(なかむら-まさよし1823-1900)は「幕末-明治時代の武士,官吏。文政6年2月9日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。藩主毛利敬親(たかちか)の右筆(ゆうひつ)となる。文久のころ藩主にしたがい江戸にいき,尊攘(そんじょう)運動をおこなう。維新後,一時浜田県につとめた。明治33年10月4日死去。78歳。字(あざな)は広胖。通称は文右衛門。号は梅処。」】
【注⑯。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、渡辺内蔵太(わたなべ-くらた1836-1865*)は「幕末の武士。天保(てんぽう)7年2月3日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。藩主毛利敬親(たかちか),世子元徳(もとのり)の小姓。藩論を尊王攘夷(じょうい)にまとめるのに尽力したが,禁門の変後,恭順派に捕らえられ,元治(げんじ)元年12月19日処刑された。29歳。名は遜,暢。通称ははじめ久之助,広輔。号は介亭。」】
【注⑰。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、浦靱負(うら-ゆきえ1795-1870)は「江戸時代後期の武士。寛政7年1月11日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。弘化(こうか)4年江戸家老となり,ついで国家老や加判役をつとめる。元治(げんじ)2年隠居後も藩政に影響力をもち,革新派を支持した。その日記62巻は幕末維新史の貴重な史料となっている。明治3年6月1日死去。76歳。本姓は国司(くにし)。名は元襄(もとまさ)。通称は別に備後。号は慎斎。」】
【注⑱。朝日日本歴史人物事典によると、清水清太郎(しみずせいたろう。没年:元治1.12.25(1865.1.22)生年:天保14.6.9(1843.7.6))は「幕末の長州(萩)藩の重臣。名は親知,字は子済,号は葭堂。清水家の分家に生まれ,本家で大組の重臣であった清水美作親春(3710石余)の養子に入る。文久1(1861)年,大橋訥庵に入門。同3年学習院用掛を勤め,桂小五郎(木戸孝允)らと尊王攘夷運動に参画した。帰藩して,8月,藩制改革後の老中に特に任じられ,国元加判役になる。文久3年8月18日の政変後,山陰・山陽の諸藩の工作に当たった。翌年の禁門の変で長州藩が敗れたのちも,周布政之助と共に岩国藩などへ赴き,尊攘派勢力の挽回に努めたがならず,閉居し,俗論派のために自刃を命じられた。(井上勝生)」】
【注⑲。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、松島剛蔵(まつしま-ごうぞう1825-1865*)は「幕末の武士。文政8年3月6日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。江戸で坪井信道に医学を,のち長崎で航海術をまなび,西洋学所頭取。万延元年藩最初の洋式船の艦長となる。禁門の変後,藩論が尊攘(そんじょう)から恭順にかわり,元治(げんじ)元年12月19日野山獄で処刑された。40歳。名は久敬,久誠。字(あざな)は有文。通称は別に瑞益など。号は韓峰。」】
一 同二十三日、晴れ、博多を発ち、四里で太宰府に着、日田屋清兵衛方に泊まる。早速、天満宮へ参詣、(公卿らの)護衛の面々に次々会った。(土佐の)同藩人土方(久元。注⑳)・清岡(公張。注㉑)・黒岩・南部・小田・歳岡らといろいろ話した。
太宰府で土方・清岡らに面会、内々に三條卿に拝謁した。事情もよくわかったので、早く帰国して形勢を報告しないと、今の藩の門地家は佐幕論なので、国事を誤る恐れがあると、すぐさま帰国することに決め、そのうち三人は上京することにした。国許は、自分と中山でないと、藩政府に対して十分に説得力を持って説明することができかねるため、急ぎ帰途に就いた。(注㉒)
【注⑳。精選版 日本国語大辞典によると、土方久元(ひじかた‐ひさもと)は「明治維新の功臣。土佐藩士。勤皇論を唱え、七卿落(しちきょうおち)のとき三条実美に従って長州、太宰府に移る。維新後、農商務大臣、宮内大臣。のち「明治天皇御紀」の編集にあたり、また国学院大学長などをつとめた。天保四~大正七年(一八三三‐一九一八)」】
【注㉑。朝日日本歴史人物事典によると、清岡公張(没年:明治34.2.25(1901)生年:天保12.7(1841))は「幕末土佐国(高知県)安芸郡郷士,明治期官僚。通称半四郎,野根山殉難23士の首領清岡道之助の実弟。勤王の志あり,文久年中に上京,諸藩の志士と交流,藩命で公卿三条実美の衛士となる。文久3(1863)年8月の政変で三条ら七卿に随従して長州に亡命,禁門の変では長州藩軍に従い堺町門に奮戦したが敗れて再び長州に退却,慶応1(1865)年,三条に従って太宰府に移った。3年12月,王政復古政変で五卿が赦免されるや随従して入京して明治政府に出仕,地方長官,元老院議官,宮内省図書頭,枢密顧問官を歴任,20年子爵。(福地惇)」】
【注㉒。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、七卿落(しちきょうおち)は「1863年(文久3)三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の尊攘(そんじょう)派公卿(くぎょう)が長州藩に落ち逃れた事件。尊攘急進派の公卿は長州藩はじめ尊攘志士と提携して、攘夷(じょうい)強行、朝権奪回の運動を進めていたが、会津、薩摩(さつま)両藩ら公武合体派による八月十八日の政変により失脚し京都を追われた。すなわち同日三条実美、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとなが)、四条隆謌(しじょうたかうた)、沢宣嘉(のぶよし)、錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)ほか6名の公卿が、参内、他行、他人面会の禁の朝譴(ちょうけん)を受けた。そこで久坂玄瑞(くさかげんずい)、真木和泉(まきいずみ)、長州藩重役らと事後策を練ったすえ、上記7人の公卿は一時長州藩に逃れ再起を図ることに決し、翌19日京を脱出、21日兵庫より乗船、27日周防(すおう)三田尻(みたじり)の招賢閣に入った。64年(元治1)禁門(きんもん)の変に際し、諸卿の上洛(じょうらく)が計画されたが、長州藩が敗北したため中止となり、長州藩内事情の変転もあって翌65年(慶応1)三条、三条西、東久世、四条、壬生の五卿は九州大宰府(だざいふ)に移り、王政復古まで滞在した。なおこの間、錦小路は病死し、沢は生野(いくの)の変に参加し敗走している。[佐々木克]『末松謙澄著『修訂 防長回天史』復刻版(1980・柏書房)』」】
一 同二十四日、雨、薩摩藩の川畑伊右衛門・山田孫一郎に面会した。川畑は老人で、すこぶる慷慨家である。攘夷論を主張した。山田は若手で、いたって真面目で慎重な性格のように見受けた。それから夕方、太宰府を発ち、二日市に宿をとった。
一 同二十五日、雨、(宿に)滞留して、いろんな方面からの風聞書を記した。
一 同二十六日、雨、午後より晴れ、二日市を発ち、四里で松崎に宿をとった。
一 同二十七日、松崎を発ち、三里で府中、三里で貝塚、二里で瀬高、二里で春町、二里で南関に着き、宿をとった。
一 同二十八日、南関を発ち、五里で山鹿、三里で植木、二里で熊本に宿をとった。
[参考]
一 同日、我が藩に対し、京都にとどまって警衛せよという命令があった。大坂木津川口の守衛を免除された。
松平土佐守
今般、以前から引き続いての京都警衛を仰せつけられたので、木津川二カ所の番所の件は免除になった。委細は、取締掛かりのお目付に問い合わせるように。以上。
慶応二年九月二十八日
これは(高行が)九月四日に出発した後、追って承知した。
一 同二十九日、晴れ、熊本を発ち、五里で大津に宿をとった。
一 同三十日、大津を発ち、これより佐賀関を通り、予州に着いた。予州路で藤本潤七・島村寿太郎・佐井虎次郎は(別れて)直に上京した。これは太宰府でいろいろ相談の末、いま京都に坂本龍馬・中岡慎太郎らがいて、あれこれと周旋中なので、彼らと相談するためである。自分と中山佐衛士・毛利恭助の三人は帰藩、太宰府の事情を報告するためである。それより自分ら三人は大洲藩に立ち寄り、同藩士の武田亀五郎に面会した。同人は使節として我が藩に来たことがある。学者である。いろいろ時勢について話した。同藩士は正義家が多いように見えた。
梅沢孫太郎(注㉓)が船に乗り、浦戸港に来るとのことである。梅沢は水戸藩から一橋(慶喜)公の付き人になった。[満五十歳くらい]。老公(容堂公のこと)がお会いになるかどうかはわからない。参考のためにここに記す。
【注㉓。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、梅沢孫太郎(うめざわ-まごたろう1817-1881)は「幕末の武士。文化14年生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。文久2年将軍後見職一橋慶喜(よしのぶ)の随員として京都にいく。元治(げんじ)元年原市之進とともに一橋家につかえ,禁裏守衛総督,ついで将軍となった慶喜を補佐。維新後駿府(すんぷ)にうつり,徳川家の家扶をつとめた。明治14年5月20日死去。65歳。本姓は国友。名は亮,のち守義。」】
十月
一 この月一日、大洲を発ち、同三日、高知へ帰着。
同四日より、太宰府の模様、天下の形勢などを両役[参政と大監察]・執政らに申し入れたが、なにぶん半信半疑で、十分の成果が得られない。そのうち京都に使いに出ていた老公のお側物頭・武市八十衛が帰国して言うには、薩摩藩も決して長州を助ける論ではなく、やはり佐幕であると。武市の実弟・中村禎(中村弘毅のことか。注㉔)は京都の留守居役で、同人も同様の見込みだとのことだ。(これらのことは)自分らが太宰府で聞いたことと相違し、藩政府の疑念がいよいよひどく、また佐幕の人々が勢いを得た。そのあいだの苦心はひとかたならず。
中村禎輔は同志であったが、留守居役になってから、見込み違いしたか。直に話してみないと何とも申しがたく、今日の人情ははかりがたいと半信半疑したことである。
【注㉔。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中村弘毅(なかむら-ひろたけ1838-1887)は「幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)9年11月生まれ。土佐高知藩士。文久2年藩校致道館の教授となり,のち郡奉行,京都留守居役などを歴任。維新後は元老院議官。高知で中立社を設立し,民権運動と保守運動の調和をはかった。明治20年7月3日死去。50歳。本姓は武市。」】
[参考]
一 同月十六日、徳川慶喜公が参内して、(将軍家の)相続および除服(喪の期間が終わって、喪服を脱ぐこと=デジタル大辞泉)で(朝廷から受けた)恩を謝したとのこと。
一 同十七日、左記の通り仰せつけられた。
佐々木三四郞
右の者はご隠居様のお手許御用により京都ヘ派遣される。用意が整い次第、北山通りを発つよう仰せつけられたので、出発の期日を届け出るように。
右の通り命じられたので、この旨を伝える。以上。
慶応二年十月十七日
深尾左馬之助
福岡宮内
小崎左司馬殿
別紙の通り云々。
同日
小崎左司馬
佐々木三四郞殿
右の京都への派遣は、太宰府出張の続きとして周旋・探索せよという内命である。
一 十月二十七日、常陸宮(注㉕)らが罰せられたのは次の通り。
[山階]常陸宮
このたび、(常陸宮は)国事掛かりの職務を病気のために断りながら、他所に出かけ、あまつさえ止宿した。かつ、従来からの不行跡があり、いろいろな点から判断して蟄居を命ぜられた。
正親町三條前大納言
勤役中、以前から左大辯宰相(中御門卿)以下が徒党を組んで建言することを承知しながら、制止せず、かえってそれに同意したのは不心得の至りであるとの(天子の)ご命令である。
中御門左大辯宰相
大原左衛門督
かねて門流(公家社会の派閥のようなもので、筆頭の五摂家それぞれの下に各公家が従属している)より通達しているところでもあるが、さる八月末日、「其身為官柄」(※意味がわからないので原文そのまま引用)、かつ老年や若輩の者たちを誘い込み、徒党を組んで建言したことは、朝憲(朝廷で定めたおきて=デジタル大辞泉)を憚らず、不敬の至りである。これにより閉門を命じられる。
北小路左京大夫
高野三位
穂波三位
高倉三位
櫛笥中将
愛宕中将
植松少将
高野少将
園池少将
高野[辻]少納言
千種侍従
岩倉[長谷美濃権助が脱けている]侍従
四條大夫
西洞院大夫
西四辻大夫
愛宕大夫
澤 主水正
大原左馬頭
岩原[倉]大夫
かねて門流より通達しているところでもあるが、去る八月末日、徒党を組んで建言したことは朝憲を憚らず、不敬の至りである。これにより差し控え(公家・武士の職務上の過失、また、その家来や親族に不祥事があったとき、出仕を禁じ、自邸に謹慎させたこと=デジタル大辞)を命じられる。
慶応二年十月
【注㉕。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、山階宮晃親王(やましなのみや-あきらしんのう1816-1898)は「江戸後期-明治時代,伏見宮邦家親王の第1王子。文化13年2月2日生まれ。文政6年親王となり,翌年山科(京都府)勧修寺(かじゅうじ)で得度。元治(げんじ)元年勅命により還俗(げんぞく)し,山階宮家を創設した。議定,外国事務総督をつとめた。明治31年2月17日死去。83歳。法名は済範。」】
(続。高行らが太宰府で得た情報は何だったのか。はっきりとは書かれていませんが、薩長の密約だったのではないでしょうか。参考のため、次に日本大百科全書(ニッポニカ)の「薩長連合」の解説を掲げておきます。「幕末維新期に倒幕の主体となった薩摩藩と長州藩との提携の密約。薩長同盟ともいう。1866年(慶応2)1月21日、京都薩摩藩邸にて、土佐藩の坂本龍馬の立会いのもと、薩摩藩代表の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩代表の木戸孝允(桂小五郎)との間で成立した。これより先、幕府はすでに第二次の長州征伐を公示していたが、1863年(文久3)の八月十八日の政変や第一次長州征伐(1864)では幕府側にたっていた薩摩藩も、征討に伴う幕府独裁再強化の動きに反発する西郷隆盛、大久保利通らの画策によって反幕的傾向を強め、長州再征への出兵拒否と諸藩連合への姿勢に変わっていた。そのうえに、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎らが両藩の提携を図って薩摩藩名による長崎での長州藩の洋式武器購入などを斡旋し、さらにこの盟約にまで導いたものである。その内容は、木戸が坂本に確認させた文書によれば6か条からなり、幕府再征となれば薩摩藩は軍事的にも外交的にも長州藩を支援し朝廷に対し名誉回復を図ること、以後両藩は反対勢力との決戦をも覚悟し皇国と皇威の回復まで誠心尽力すること、などを誓約しあったものである。この盟約は、ただ両藩有志のみの秘密裏の約束にすぎず、具体的に幕府討滅を目的としたものでもなかったが、ここに長州藩は厳しい孤立からの脱却の端緒をつかみ、長州再征(1866)で幕府を破るや、両藩は倒幕の中心勢力となっていった。[芝原拓自]『維新史料編纂事務局編『維新史』全6冊(1939~41・明治書院)』▽『田中彰著『明治維新政治史研究』(1963・青木書店)』」