わき道をゆく第258回 現代語訳・保古飛呂比 その81

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一 二月三十日、左記の通り仰せつけられる。

右の者は郡奉行・普請奉行、かつ、それに付随する役職をも仰せつけられる。これにより、外輪物頭を仰せつけられ、役領知百八十石を与えられる。万端入念に勤めるようにとの仰せである。

ただし従来の役領知は除かれる。

二月三十日

貴殿はそのままに明組の小崎左司馬組に入る。その旨は組頭へも通達される。以上。

二月三十日

神山左多衛

間忠蔵

佐々木三四郞殿

(以下は高行の所感)このたび郡奉行に転じたのは、前述のように、(自分が)しきりに差し迫って申し立てたことによるものであろうか。その訳は、小監察(小目付)は微官で、平士が勤め、郡奉行は物頭が勤めるものだが、(郡奉行は)郡政のみで、藩政府の機密の政務には関係しない。小監察は大政府の機密にもくちばしを入れることができる役職なので、あるいは餅で打たれたような心地がした。ことに自分ら小身の者はまず物頭格で(郡奉行を)勤めるのだが、このたび(自分は)本物頭になった。長いこと勤めて、いまだ物頭格のままの奥村又十郎より上席になったのは、幾分かあんばいを加味したのだろう。ところが奥村は大不平だった。これより前に自分が小監察だったとき、西郷吉之助の入国から、老公の上京うんぬんについて議論百出したのは、前述の通りであるが、その中には(上京の)費用がかさむとして、藩財政の困難を申し立てる向きも少なくなかった。よって(自分は)下横目の健三郎・新八郎[健三郎は岡本、新八郎は會和]の両人に内命し、郷中(地方の村々)に御用金の件を周旋させたところ、勤王家は大いに奮発して、景気よく次々と出金するようになったが、郷中にも異論の者があつて、郡奉行の奥村又十郎へ、御目付方が御用金を煽動しているなどと訴え出た者があった。奥村は無二の尊幕家なので、大いに憤り、支配下の人民に筋違いの御用金を申し付けるのははなはだ不当だと、執政に迫ったことがあった。そのことがいまだ何とも埒が明かぬうちに、自分は郡奉行に転じたので、ますます奥村は不平となった。また奥村の申し立ては条理もあって、しかも佐幕家も藩政府のなかに非常に多くいるので、(自分が)郡奉行に転じた後も、はなはだ都合が悪く、種々の議論も起こったけれども、自分はどこまでもそれまでの議論を押し通した。またまた助けてくれる人もあり、なかなかやかましいことになった。(注①)

【注①。このあたりの事情は『佐佐木老候昔日談』に詳しいのでそれを紹介しておく。「西郷が高知に来て、老公の上京を促し、朝廷からも両三度上京する様にといふ御沙汰があつたが、御病気と称して延期せられた。佐幕家は種々に口実を設けて拒まうとする。或は薩に売られるから宜しくないとか、或は会計が立たないからいかぬとか云うて、反対する。自分等は此度の御上京は、如何なる事があらうとも、兎も角国事の為めに御尽力なさるるのであるから、一時も猶予なりがたき場合であるというて、切迫に申立る。併しながら、この上京は、山内家安危の岐るる處であるから、寧ろ上京せずして、安全の策を取る方が善からうといふ論が、優勢を占めて居る。自分等は最早必死である。大義の為には一国斃れて後止むべしなどと激論を以て迫る。今日御上京の事となつたかと思へば、明日は忽ち変る。晴雨須叟の間に変るとは秋の空の様である。仕舞には自分もあまり夢中になつた者だから、逆上して来て、要路に向つて暴議も吐き、罵倒することもあつたが、理屈といふ点からいふと、どうも佐幕家の方が薄弱で、自分等の議論の為に、その主張は悉く挫かれて了ふ。そこで彼等は他の理由は捨てて此度は財政困難で、御入費が出来ぬといふ一点張で反対する。自分等は、夫は御用金をかけて差支ない。国民は悦んで出すと反対すれども容易に信じない。依つて自分は、内々下横目の健三郎[岡本]、新八[會和]の両人に命じて、御用金を周旋させると、勤王家連中は、大憤発で出金しやうといふ者が非常に多い。處が、中に異論者があつて、御目付方より御用金を煽動すると郡奉行の奥村又十郎に訴へ出た。奥村は無二の佐幕家であるから、大に憤つて、當職の権を犯して筋違の處から御用金を命ずるとは、甚だ不条理であると、執政中へ差迫つた。かういふ様に不時の問題は持上つたが、これが為に御用金の見込が付き、一般の人心が御上京を希望して居るといふ事が分つたので、反対論者も大に躊躇の色が見えた。

斯様に八釜敷論じた為でもあらうか、二月三十日御郡奉行兼御普請奉行転任を命ぜられた。役領地は百八十石。格式は外輪物頭。一体小目付は微官で、平士から勤めるが、政府の機密に喙を入れる事が出来る。郡奉行は物頭から勤めるけれども、郡政ばかりの事で、政府の機密には関係がないから、この転任は丁度餅にでも打たれた様な気持がした。もと郡奉行は、馬廻からなる時は、吉田派の人などでも、外様物頭で二百五十石が普通である。けれども、之は無足で知行取でないから、マア二百石位の格なのだ。この例に従へば、自分等小身者は先づ物頭格で勤めなければならぬのであるが、どういふ都合か、此度は本物頭になつて、先任の奥村又十郎より上席となつた。奥村は小身であつたので、未だ物頭格なのだ。実は奥村を昇進させても宜いが、彼は佐幕家であるから、国民を制御してゆけぬので、政府も其の邊の事を考へて、かういふ事にしたのであらうと思ふ。サア奥村は大不平である。のみならず、御用金一件で互に感情を害して居る。さうして其の方が何とも落着しない處を転任して上席となつたのであるから、奥村は益々以て不平である。何でも御一新後迄も、実に馬鹿気た事だと人にコボして居つたさうだ。

郡奉行になつてからも、この上京一件に就ては大に運動した。此度は大義の為に御上京になるのであるから、その御入費は縦からでも横からでも、何れからでも調へさへすればよろしい。条理に違ふ御用金などと云うて、空論すべき場合ではないと堅く前議を主張して、要路の佐幕家にくつて懸ると、段々事柄が複雑になつて、就職後僅に十三四日にして郡奉行を免ぜられた。けれども、この上京一件に就ては、職を抛つ位は素より何とも思つて居らぬ。尤も自分は一年と継続した役はない。ないが罷めてもズグ採用されるのは、勤王の勢力があるからだ。さて夫からは局外に在つて日夜奔走したが、まだ要路には佐幕論者も多い事であるから、思ふ様に運ばない。執政は悉く俗論、唯一老の深尾鼎のみは勤王家であるが、哀しいかな老公にあふと実にみじめな者だ。御仕置役の由比猪内は近来大に宜い。大目付の本山只一郎は同志、小笠原只八も宜い。西野彦四郎、神山左多衛、間忠蔵も漸く勤王に傾いて来た。そのた悉く俗論家とか、因循家であるが、半信半疑の徒も頗る多い。また後藤は長崎に、福岡は京都に、乾は江戸に居る。何れも此頃は勤王の方に傾いたらしい。後藤、福岡は、坂本や石川に刺激されて、天下の形勢に着目する様になつたのだ。尤も後藤は長崎で、無暗に散財するので、政府中でも盛に攻撃する。殊に小八木の一派は力を極めて排斥した。

老公はもとより御上京の思召である。政府中は議論紛々として居つたが、大勢には逆ふことが出来ない。竟に勤王家の勝利となつて、愈々御上京と決定したが、夫に就て先だつものは御用金であるから、佐幕家の郡奉行ではなかなか云ふ事を聞かない。折角献金しやうとしても、佐幕家であると金額を減じやうとか、自分は御免を蒙るとか云うて応じない。夫が勤王家の郡奉行だといふと、丁度その反対であるから、萬事都合が宜い。自分は先月の十三日に免ぜられて、僅か一ヶ月ばかりしか経たないが、その邊の事情からして、四月十九日再び前同様の資格で、御郡奉行兼御普請奉行に任ぜられた。此頃になつても、なほ天気は定まらないが、モウ大抵動く事はあるまいと思ふと、実に愉快で堪らぬ。直に御用金の事に着手すると、何れも憤発して立所の間に意外の金額となつた。すると佐幕家は不平である。偏固の議論を擔ぎ出して騒ぐ。老公も愈々御上京となつても、国内が不穏では御心配であらせらるる處から、御出発前兵庫閉鎖の事に関して、厚き御趣意を御示しになり、妄議偏見を御戒めになつた。さうしてその御趣意は、過般自分が御覧に入れた建白書と全く同一で、先帝の御意志であらせらるる事ゆえ、兵庫は閉鎖の上、公義条理の帰する處に至つては、竟に皇威の立つを旨とせらるるといふ意味だ。愚見が採用されて居り、また勤王を標榜せられて居るのであるから、実に快哉をを叫ばざるを得なかつた。かくて老公には、四月二十八日浦戸より御乗船になつて、御上京なされた。」】

一 武田氏(注②)の書簡、左記の通り。

一筆拝呈いたします。春暖の候になりましたが、貴家はお揃いで、いよいよご健勝に過ごされ、お喜び申し上げます。まことに先ごろ参上しましたときは、毎々ご歓待していただき、ことに佳品まで頂戴してお礼の言葉もありません。(国許に)帰ってからは、「時邪に障り」(※意味がよくわからないので原文引用)、重病にかかり、伏せっておりましたが、このごろ漸く回復して、最早近いうちに出勤もできるような体調になりましたのでご放念ください。さて先ごろは松山へ「反戦の風説」(※反戦の意味がよく分からない。単純に戦争に反対するという意味か、あるいはひょっとしたら、長州勢が松山藩に反撃するという意味か)、かれこれ懸念がありましたが、先月下旬、松山藩の世子(注③)が上京しました。私が聞きかじった話では、昨年十一月十八日、奥平三左衛門(注④)が屋代島(周防大島のこと)へ行き、いろいろと詫びの言葉を述べ、そのうえ文書を差し出したとのこと。その写しは左記の通り。

先ごろ、弊藩が小兵を出動させ、御当地の安下庄村(周防大島の中央部南側。長州藩領)へ討ち入ったことについて、皇国の大義と兵士の粗暴な行為において行き違いがあり、(松山藩の)君臣ともに悔悟しております。このことを内々に承知いただくようお頼みせよとの内命です。以上。

松山藩 奥平三左衛門幹判

同 矢島大之丞好義判

この書面を(松山藩が長州藩に)差し出しておいたところ、どういうわけか、長州より朝廷に漏れたようで、(松山藩の)世子が板倉老中より火急の呼び出しを受け、これまた世子よりの釈明もほぼ了承され、なおまたこれからの処置について(幕府に)伺いを立てたとのこと。いずれにしても(征長軍が)解兵にもなったことゆえ、いったんは和解してしかるべしとの板倉公のお答えがあり、今月中旬、なおまた松山藩より津田某[実は物頭、このたび家老職になった]が屋代島へ参上することになりました。[きっと三田尻では、ただちに長州藩政府の議論になったことでしょう]。世子も今月十四日、帰国され、其の後は各地点に屯集した兵を引き払うなど至極穏やかになったということです。

今月、貴藩に滞留した際に聞いた三津浜(松山領)の風聞(※長州の南奇兵隊の林半七が三津浜に乗り込んできたことを指すのかも)は実説でした。南奇兵隊長の林半七(注⑤)という者が松山人の菅沼某を送ってきて、次第に反戦議論もあり、その後、松山人の奥平もまたまた三田尻(長州)まで参上しました。

このうえは長州人の脱走、反戦の件ともに出来しないかと懸念しています。屋代島は憤怒しており、そのうえ南奇兵隊もよほど憤激しているとの風説があります。何にせよ松山藩の処置次第ではありますけれども、何分どうなるか判断がつきません。以上は、時候お見舞い、ご挨拶かたがたお知らせしました。恐惶謹言。(注⑥)

二月晦日 大洲藩 武田亀五郎

佐々木三四郞さま

なおなお時下ご自愛なさるよう。松本半平よりもよろしくとのことです。以上。

一 大行天皇(天皇の死後、まだ諡号を贈られていない間の尊称。先帝の意味にも用いる=デジタル大辞泉)さまのお葬式は先月二十七日に済み、このたびは山陵も造営になり、戸田家(注⑦)・中條家(注⑧)の担当です。しかしながら、すべて僧の手を離れるまでには至らなかったとのこと。とはいえ、その礼は中興の美事と言われているとのこと。長州征討軍が解兵されたことを長州に伝えるようにと、幕府から芸州(広島藩)の留守居役にお達しがいきましたが、留守居役は「これまで解兵等の件を伝達したとき(長州は)その理由を尋ねてきました。このたびの解兵はどういうわけで命じられたのでしょうか。逐一拝承したうえで、(長州側に)知らせたいと思います」と申し出たそうです。しかしながら今月中旬にいたって、幕府からの返答はなく、(広島藩から)長州へは通知がいっておりません。

以上の風説は京都より届きました。最早陳腐とは思いますが、ついでに貴兄にお知らせしておきます。聞きかじりの話を取り混ぜ、あわただしくお耳に入れます。ご他言は無用です。この書面はご覧になったら速やかに焼き捨ててください。別封の書面のついでに憚りながらお頼み申し上げます。

(以下は高行の所感)右の武田亀五郎は、大洲藩では学者とのこと。一昨年(大洲藩の)使者として来藩したときより面識ができた。また昨年、太宰府からの帰途、大洲藩に立ち寄ったときから懇意にし、正義について何かと話合いをした。今春(大洲藩の)使者として来た際にも懇意にした。同藩は必ず味方になる見込みがある。小藩ではあるが頼もしいところがある。このたびも精魂を込めた手紙を送ってきてくれた。

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、武田敬孝(たけだ-ゆきたか1820-1886)は「幕末-明治時代の儒者。文政3年2月4日生まれ。武田成章(なりあき)の兄。伊予(いよ)(愛媛県)大洲(おおず)藩の儒官。藩校明倫堂でまなび,江戸に遊学して大橋訥庵(とつあん)に師事。のち明倫堂教授,藩主侍講となる。幕末の京都で尊王諸藩との連携に尽力。明治維新後は宮内省につとめた。明治19年2月7日死去。67歳。通称は亀五郎。号は韜軒,熟軒など。」】

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusのよると、松平定昭(まつだいら-さだあき1845-1872)は「幕末-明治時代の大名。弘化(こうか)2年11月9日生まれ。伊勢(いせ)津藩主藤堂高猷(たかゆき)の4男。養父松平勝成(かつしげ)の隠居で,慶応3年伊予(いよ)松山藩主松平(久松)家14代。3日後老中に就任。鳥羽・伏見の戦いで朝敵とされ追討をうけたが,恭順・謹慎をしめして隠居。明治4年ふたたび家督をついで松山藩知事となる。明治5年7月19日死去。28歳。通称は錬五郎。号は漢台,五松。」】

【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、奥平貞幹(おくだいら-さだもと1817-1882)は「江戸時代後期の武士。文化14年3月4日生まれ。伊予(いよ)松山藩士。領内諸郡の代官をつとめ,灌漑(かんがい)用水路の整備,塩田経営など殖産興業につくす。嘉永(かえい)4年から温泉郡山西村(松山市)の干潟(ひがた)の干拓をすすめ,安政5年大可賀新田約50haをひらいた。明治15年4月9日死去。66歳。通称は三左衛門。号は月窓。」】

【注⑤ 朝日日本歴史人物事典 「林友幸」の解説林友幸(はやしともゆき。没年:明治40.11.8(1907)生年:文政6.2.6(1823.3.18))は「明治期の官僚。萩藩士林周蔵と冬子の長男として長門国阿武郡土原(山口県萩市)に生まれる。周次郎,半七とも。「槍の半七」の異名をとる宝蔵院流槍術の名手で剣術にも優れ,文久3(1863)年奇兵隊参謀。下関戦争(1864)で負傷するが戊辰戦争(1868~69)でも活躍した。明治1(1868)年徴士,2年民部官判事補,3年民部大丞兼大蔵大丞,7年内務大丞兼土木頭,8年内務少輔となる。この間,盛岡,九戸(青森県),中野(長野県)などの県政にも関与。13年元老院議官,23年貴族院議員,33年枢密顧問官。また富美宮・泰宮養育主任も務める。40年伯爵。(牧原憲夫)」】

【注⑥。この松山藩と長州藩の間の一件については 「愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)一三 幕末の情勢と長州征伐」に詳しいので、それを引用させてもらう。 「慶応二年五月二九日に、松山藩では長州出征に当たり、勝成は松山城を守衛し、定昭(藤堂高猷の四男錬五郎、安政六年勝成の婿養子となる)が一の手・新製二番大隊・二の手・旗本衆・新製一番大隊・旗本遊軍の順序で統率して出撃することになった。六月六日、四国各藩の軍兵の総指揮官として、若年寄京極高富が海路来松し、大林寺に宿泊した。高富の指示に従って、翌七日一の手軍が菅良弼に率いられて和気郡興居島を出発したのをはじめ、長沼朝彝に率いられた二の手軍、吉田惣右衛門に率いられた新製二番隊がこれに続いた。一行は八日、周防国大島(屋代島ともいう)の由宇村付近に上陸し、さらに伊保田村付近を探索したが、長州兵を発見することはできなかった。一〇日になって長州兵が普門寺付近に集まったとの連絡があったので、松山藩兵は安下庄に上陸した。しかし、両軍の間で競り合いがあった程度で、松山藩兵はその港に滞船した。ところが一五日になって長州兵が大島に渡って本格的な攻撃を開始した。長州勢は普門寺越・源命越・家房越の三方面から、巨砲を連ねて襲撃したので、松山側では多くの死傷者が出る有り様であった。松山藩兵は対抗できないのを悟って、いったん安下庄に集結し、さらに松山領の風早郡津和地島に引き揚げねばならなかった。この間に四国側では来援する藩もなく、独力で大島を制圧できないことを自覚し、にわかに守勢に転じ、専ら郷土の防衛に当たった。一の手・二の手軍を三津浜に配置して長州兵の上陸に備え、その後備軍として二番大隊を山西村に、一番大隊を久万村に、旗本遊軍を江戸村(のちに余戸村)に、部屋備衆を辻・沢村に駐留させ、城下町防御の姿勢を整えたように考えられる。この時、幕府側の気勢はあがらず、長州藩の国境に迫った諸藩の兵も連戦連敗して、その無能ぶりを天下に暴露する結果となった。慶応二年(一八六六)八月二〇日に将軍家茂は大坂で逝去し、一橋家から慶喜が入って将軍職を継いだ。幕府は喪中であるとの口実のもとに、長州征伐軍を引き揚げることになった。一〇月八日には諸藩の撤退が完了し、四国軍総指令京極高富は松山を出発して江戸に帰った。松山藩では、一一月九日に郡奉行奥平三左衛門らを長州藩に派遣し、大島における藩兵の軍事行動を謝罪した。その後、両藩の間で捕虜の交換を行った(池内家記)。翌慶応三年二月、定昭は上京して当時滞京中の将軍慶喜に、長州征討における松山藩の不始末を報告した。この間、長州藩との間にも折衝があり、中老格家老部屋出席の津田十郎兵衛ら四人が長州藩に赴き、長州への出征に際して、失律のあった点について重ねて遺憾の意を表した。」】

【注⑦。改訂新版 世界大百科事典によると、山陵奉行 (さんりょうぶぎょう)は「歴代山陵(天皇陵)を修復・管理した江戸幕府末期の職名。1862年(文久2)宇都宮藩主戸田忠恕(ただひろ)は家老間瀬和三郎忠至(ただゆき)や県信緝(のぶつぐ)の策を受け,幕府に勤王翼幕を趣旨とする山陵修復を建白した。同年10月間瀬は山陵奉行に任ぜられ,諸太夫格となった。以後戸田大和守と改名して二百人扶持,次いで万石以上格となり,66年(慶応2)1万石で大名に列し,67年には若年寄を兼帯した。この間,山陵の実地調査や神武天皇陵等の修造に当たった。執筆者:森田 武」】

【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中条良蔵(ちゅうじょう-りょうぞう1800-1868)は「江戸時代後期の武士。寛政12年5月23日生まれ。奈良奉行所の与力。幕府の命により,安政2年の神武天皇陵の調査など山陵の調査補修につくした。慶応4年4月24日死去。69歳。大和(奈良県)出身。名は正言。号は芳渓。」】

[参考]

一 二月、将軍が大阪に下り、仏国人を引見した。

  三月

[参考]

一 この月五日、将軍が(朝廷に)開国のやむをえないことを上奏した。

一 同十三日、左記の通り。

  佐々木三四郞

右は、郡奉行・普請奉行かつ「附屬の役場」(※郡奉行・普請奉行に付随する役職という意味と思われる)・外輪物頭ともに解任する。もちろん役領知は除かれる。新馬廻[以下は脱字]。右の通り言い渡されたので、貴殿からこの旨を言い聞かせられたい。以上。

三月十三日 深尾丹波

       福岡宮内

       深尾鼎

小崎左司馬殿

別紙の通り云々。

同日 小崎左司馬

佐佐木三四郞さま

郡奉行に転じてからわずか十三、四日で御免となったのは、前述した御用金の件(※小目付在任中に御用金の周旋を部下に命じたことを指すと思われる)もあり、また、老公の上京の件は京都より二月にお沙汰があった。ただし京都からは急に上京できなければ文書を差し出すようにとのことだった。しかしながら、いずれにせよ、ご上京がなくてはならぬと(自分は)考えていた。そのため、上京にかかる出費は縦からでも横からでも捻出すればいいのであって、条理に合わぬ御用金は駄目だなどといろいろ評論すべき時ではないと、前に唱えたとおりの議論を主張し、それから入り組んだ論議になり、遂に(郡奉行・普請奉行を)解任されることになった。

一 三月十五日、左記の通り。

貴殿は五明組の山田駿馬の支配下に入り、追手門番十番に入る。その旨は前後の組頭へも通達される。以上。

三月十五日 大目付 高屋友右衛門

           西野彦四郎

佐々木三四郎どの

佐々木三四郞

右の者は五明組支配下の平尾萬之助の次の座列に入る。

右の通りである。以上。

三月十五日

  高屋友右衛門

  西野彦四郎

山田駿馬どの

(高行の所感)右の通り解任されたので、局外にあって日々夜々周旋した。なにぶん尊幕の徒が多くて、なかなか異論も多い。執政衆はいずれも俗論である。そのうち深尾鼎どのはだんだんに勤王論になっている。参政は、由比猪内がよろしい。大監察は本山只一郎が同志で、そのほか西野彦四郎・神山左多恵・間忠蔵などはややよろしい方である。そのほかはいろいろで、つまるところ、因循家で半信半疑の人も多い。大監察の小笠原唯八はよろしい方である。以上の通りであるけれども、時の勢いには逆らいがたく、ついに四月下旬には、老公が上京ということになった。

[参考]

一 三月二十二日、将軍がふたたび兵庫開港の件を左記のように上奏したとのこと。

兵庫開港の条約履行の件につき、先日、(私どもの)見解を建言しましたところ、右は重大な事件で、「被對先朝候テモ難被及御沙汰ニ付」(※前の天皇でも裁定が難しいのでという意味か、前の天皇との関係で裁定が難しいのでという意味か。よくわからない)なお早々に諸藩の見解をもお聞きになられるので、とくと再考するようにとのお沙汰の趣旨を恐れ多くも承りました。慶喜は年来、天子のそばにお仕えし、先帝以来のご趣意のほどを親しく伺っており、ことに一昨年のお沙汰もあります以上、開港論等はたやすく建言べきものではございませんが、皇国のため、利害得失を考え尽くしますと、どうしても、先日建言しました通りのことでなくては、永久の国体が立ちがたく、軽重大小を再三斟酌して申し上げました次第で、このうえ他に熟考すべきところはございません。かつ、いったん取り決めた条約を変更することは、所詮かなわぬ情勢です。もっとも打ち続く国事多端の折とは申しながら、重大事件ですので、放置せず、何とか取り計らわないと済まぬことでありますが、これまで遷延し、いまさらかれこれ申し上げることは、朝廷に対し深く恐縮の至りでございます。ついては、前述しましたように、国家の安危がかかっておりますので、幾重にも一身に引き受け、お断り申しあげようと存じ奉ります。こうした事情をとくとご承知になり、なお今一度朝議を尽くされるようお願いしたく、このことをお尋ねになられたので、重ねて上奏いたします。以上。

  三月二十二日 (徳川)慶喜

一 三月二十四日、朝廷が二十四藩に命じて、兵庫開港について意見を言わせた。諸藩、開港を是とするものが多かった。すなわち我が藩に命じること左記の通り。

  松平容堂

このたびの開港の件、別紙の内容を大樹(将軍)が建言した。ところが、一昨年の十月に三港の開港を勅許した際、「於彼地ハ被止候御沙汰モ有之」(※かの地においては止められそうろう御沙汰もこれありと読むのだが、兵庫開港を先帝が止めたという意味か。よくわからない)、容易ならざる重大な事態である。なお早々に上京して、考えを腹蔵なく言上するように。

ただし病気のためいろいろと上京に手間取るならば、(そなたの)意見の内容をまず文書をもって、四月中に言上すること。

  慶応三年三月

以上のように、しばしば朝廷のお沙汰を受けたので、老公はご上京のお考えであったが、藩政府内は議論紛々、なにぶん先日、西郷が来たときも、やはり薩摩のために売られるという疑念が少なくない模様だった。しかしながら、一般の人心は上京を願った。現在、後藤象次郞は長崎にあり、福岡藤次は西京(京都)、乾退助は江戸にある。後藤・福岡も近ごろはまったくの尊幕ではない。そのわけは、両人とも京都・長崎で、坂本龍馬・石川誠之助(注⑨)らの周旋で、大いに天下の形勢に目を注いだからである。もっとも、後藤らは長崎で散財がはなはだしいといって、藩政府内にも非難の声がはなはだしい。なにぶん今日天下の大変事が起きている状況で細かいことを言うべき時ではないが、佐幕派の中の小八木派は最も攻撃した。

【注⑨。朝日日本歴史人物事典によると、中岡慎太郎(なかおかしんたろう。没年:慶応3.11.17(1867.12.12)生年:天保9.4.13(1838.5.6))は「幕末の尊攘・討幕派の志士,土佐(高知)藩郷士。大庄屋中岡小伝次の子,母は初。安政2(1855)年武市瑞山の道場に入門し坂本竜馬を知り,また間崎滄浪に経史を学ぶ。同4年,大庄屋見習となり結婚。文久1(1861)年土佐勤王党の血盟文に署名。翌年10月五十人組結成に参加,江戸に赴き山内豊信の警護に当たった。翌3年4月帰郷,藩庁による尊攘派の弾圧が始まり脱藩,長州に入り,三条実美らの護衛に当たる。翌元治1(1864)年6月上洛,長州軍の一員として禁門の変に参加。その後長州藩に逃れ忠勇隊の隊長となる。同隊は脱藩浪士を構成員とする長州藩諸隊のひとつ。以来,下関,大坂,京,太宰府,長崎,鹿児島と歩き,この間,竜馬と共に薩長の和解工作に尽力する。慶応1(1865)年冬『時勢論』を土佐の同志に送り,こう予言した。「自今以後,天下を興さん者は必ず薩長両藩なるべし。……天下近日の内に二藩の命に従ふこと鏡に掛けて見るが如し」。同3年2月,脱藩の罪を許され,土佐藩より陸援隊隊長に任命される。竜馬の海援隊に対しての陸援隊である。5月21日,板垣退助を西郷隆盛に引き合わせ,談は武力討幕におよんだ。6月22日,薩土盟約締結に立ち合う。京白河で討幕の日に備えていた同年11月15日,刺客に襲われ負傷,17日に絶命した。年30歳。(井上勲)」】

  四月

一 この月十九日、郡奉行を命ぜられる。

  佐々木三四郞

右は郡奉行・普請奉行、かつそれに付随する役職をも仰せつけられる。これにより外輪物頭に仰せつけられる。役領知百八十石を支給される。万端入念に勤めるように。

  四月十九日

貴殿は二明組の小崎左司馬相組に入るので、その旨が前後の組頭へも通達される。以上。

  四月二十日 間忠蔵

         神山左多衛

  佐々木三四郞どの

外輪物頭 佐々木三四郞

右は、二明組の座列の、金子驥之助の次に入る。以上。

  四月二十日 間忠蔵

         神山左多衛

別紙の通り云々。

  四月二十日 小崎左司馬

佐々木三四郞どの

右のように仰せつけられたのは、老公の上京等で御用金が必要になった事情もある。総じて郷士以下の庄屋や村老または地下浪人らは、概して勤王家であるから、佐幕家の郡奉行では都合が悪い。そのため再度の(郡奉行)勤務となったにちがいない。さる二月三十日、郡奉行を仰せつけられ、まもなく三月十三日で解任され、またまた四月二十日に再勤を仰せつけられたのは右の事情であろう。このごろもとかく晴雨がしばしば変わった。後日にはその模様がわからぬようになると思われるので、あらましを記しておく。

(続。毎度のことながら意味の分からないところが多く、難渋しました。誤訳がいろいろあると思いますので、引用・転載をご遠慮下さい)