わき道をゆく第259回 現代語訳・保古飛呂比 その82
一 (慶応三年)四月二十日、兵之助さまが上京された。
ただし、浦戸からご乗船の際の天気が良くなく、同二十三日に出船、火船(火輪船=蒸気船のこと)の名はシユリ舟。
一、この月、ご隠居様出発前のお考え。
ご隠居様のご上京ご尽力の趣旨は先ごろ明らかにされた通りであるが、天下の事件はひとかたならず、ことに兵庫港の開鎖についてさまざまな議論が生じた。これについては先帝のご遺志があるので、(いったん)鎖港したうえ、公議条理の帰するところに至っては、遂に皇威の立つを旨として、決定すべきだというお考えである。このご隠居さまのご意思を引き受け、みだりの議論を連ね、己一人の勝手な考えを主張することのないよう、必ず心得よとの仰せである。
四月
一 四月二十八日、ご隠居様が上京、浦戸からご乗船。
一 同二十九日、大坂に着かれた。
一 この月、次の箇条書きをもって、意見を申し出た。
一 御先代様(藩祖・山内一豊のことか)が定められた制服を廃して、その弊害がはなはだしくなったため、わずか一カ年余りでまたご禁制となったこと。
一 京摂遊冶(京都・大阪方面で遊びにふけること)の件も、上に同じくその弊害がはなはだしく、またご禁制となったこと。
一 開成館を財政困難のなか建立するのは、つまり藩の財力を増し、民の便を計るということだったが、すこぶる民力を費やし、その功なく、世あげて(開成館を)安房館と呼んだこと。
一 捕鯨による利益獲得を目指すという趣旨で、重要な文書を拝見したが、その功がなかったこと。
一 砲は洋式という(太守さまの)ご意向だったが、それが実行されず、下々の疑念を生じたこと。
一 藩札の弊害を知っていても、やむを得ず作り、一期もたたぬうちに、また半知お借り上げとなったこと。
右の箇条書きのうち、第一、二条はご禁制となったが、一度ご先代様のご法度(禁制)を廃したので、なにぶん人心が落ち着かなくなった。第三条は、自分が郡奉行だったときのことで、その不可を申し立てたが、聞き入れられなかった。その理由として、産物を興すというご趣旨はよかったのだが、いまだその物品ができぬ先に、大いに土木を起こし、大きな蔵を建立するありさまだった。物品が出来るに従って、蔵を設立するのが妥当であるとの趣旨で申し立てたのだが、ついに議論の末、(自分は)役を御免となった。(開成館は)果たして無益の土木となり、人民にとって大いに苦情の種となった。第四条は、捕鯨は西洋にならったら大いに利益があるとして、先年、中山左近馬などを長崎に派遣し、それよりいろいろ着手する予定だったが、何分十分な伝習もなく、またそれに必要な費用のこともあって行われず、いわゆる騒ぎ損となった。第五条は、(砲は洋式にするという太守さまの)ご意向はあったが、何分古流家がいる。古流家には門地家が多く、家老のなかにも(古流にこだわる者と洋式を推す者とが)まちまちとなって、配下の者たちには(確固とした)方針が示せなかった。第六条は、字面の通りである。このようにその時々に(方針が)変わるのは、つまるところ、藩政府に一定した目的がなく、開港家はとかく節倹などは言わずに積極策に走り、尊幕古流の者たちは倹約等何事も手を出さず、おおざっぱに言うと、吉田門派は活発で、細かい難点を顧みずに西洋を好み、小八木派は固陋で、何事もせず、尊幕にして西洋流を最も嫌う。また勤王家は質朴で、一途に尊王を主張し、このようなありさまであるが、嘉永癸丑(ペリー来航)以来は、吉田派となり、小八木派となり、あるいは勤王家もそのなかに入り交じり、またはそれらの派も混交して、藩政府に並び立つ時もあり、すべて一定の目途がない。ただいまのままではこれからどうなるか。慨嘆に堪えない。このため、右の箇条のように例を引き、今日天下の形勢が容易ならざるときであるが、確固たる方針を打ち立て、それを(藩の)上下に貫徹し、方向などが定まり、軍制なり会計なりがその時々に変遷することがないようにしてもらいたい。これから尊王の趣意を大いに示され、会計は倹約を主とし、大いに節減し、質素を示し、軍制は時勢に応じて編成し、時に臨んで不覚のないようにされたいとの意見を申し立てた。しかしながら、現在は吉田派が多く要路を占めていて、それにいささ尊王家も加わっている。その間には小八木派も時々出入りしていて、何分ただ一つの方向に進むことは、極めて難しいありさまである。(注①)
【注①。この意見申し立てについては『佐佐木老候昔日談』にさらに詳しく書かれているので、それを引用しておく。「當時政府部内は、積極消極の両極端に奔つて、殆ど統一がない。すべてが朝変暮改とも云はうか、始終動揺して、チャンと基礎が定まつて居らぬ。自分は嘗て開盛館の事に関してもこの基礎を定める事を建白したことがあつたが、是に至つては、実に焦眉の急務であると思うたから、時弊の最も甚しきものを個条書にして愚見を申立てた。(箇条書きのところは本文と同じなので略)
始めの二ケ條は矢張禁制したけれども、一旦御先代の御法度を廃したと云ふので、何分人心が落付かない。御先代以来の法度を廃すといふのは實に重大の事柄である。苟も要路に立つ以上は、十分攻究した上でなければならぬ。夫を軽忽にも廃して了つて、また新制に弊害が多いといふので、舊に引戻すとは何事ぞ。いはば御先代を馬鹿にした処置と謂はなければなるまいか。第三條は嘗て自分が郡奉行の際、其の不可を申立てたけれども、採用されず、物品なきに大に土木を起したが、果して無用の長物となり、人民非難の焦点となつた。第四條は會計の困難から思ひ出した事で、土佐には鯨を取る處が二ヶ所ある。西洋流に倣ふときは、大に利益があると云ふので、先年中山左近馬等を長崎にやつて捕鯨術を学ばせて、愈々夫に着手する段になると、十分伝習もないし、また船を造るとか、何とかいうて、費用も多額に上るといふので、トウトウ騒ぎ損になつた。土佐でも會計の困難から様々の事をやつて見たが、悉く失敗した。マア成功したのは樟脳位のものだ。これは何時であつたか覚えがないが、之より少し前の事であつたと思ふ。江戸から浪人がやつて来て、富士山の頂上のナバ(菌)を取り、夫を煎じて銅にかけると、金を絞り取る事が出来ると言ひ触らした。随分馬鹿気た話ではあるが、これを真に受けて、眞邊参政が妙な男と連立つて歩いたり、御馳走するのを見た事なぞがある。大骨を折つて、富士山のナバを取寄せてやつたが、もとより山師であつたから出来やう筈がない。多分夜逃でもしたのであらう。夫からまた鉱山に手を着けて、御山方から雲州砂鉄を製する處を見に行つて、夫を真似てやつたが、矢張失敗に終つた。尚これに就ては、随分滑稽な事が沢山あつたのだ。第五條は両公の思召はあらせらるるけれども、何分古流家が反対する。古流家には門地家が多い。家老の中にも、区々として、まだ実行の運に到らない。従つて以下々々の者には御趣意が貫徹しないから、方向に迷つて居る。第六條は勿論反対である。
要するに、前の如く種々と変更するのは、政府に一定の目的がないからだ。吉田派は唯積極的で進み過ぎる。守旧派は倹約のみを口にして、萬事控えて居る。ツマリ吉田派は急進して、小瑾抔は顧みず、すべて西洋流にやる。小八木派は固陋で、引込思案、西洋流は大嫌である。勤王派は質直で、一途に尊王を主張する。處が嘉永以来要路は吉田派が占め、小八木派が占め、また勤王家がその関係に加はり、幾派も混合して成立つたのであるから、政府は一定の主義を立てることが出来ない。若しこの儘で進んだならば、将来どうなる事であらうか、實に慨嘆に堪へない。そこで右箇条書の如き時事問題を引いて、確乎たる国是を定めんことを政府に建言した。今日は天下危急の秋である。若し現状の如く推移したならば、国は竟に収拾すべからざるに至るであらう。速に確乎不動の主義を立て、之を上下に貫徹せしめたならば、方向も定まつて、軍制にあれ、會計にあれ、時々変更するやうな事はない。而してその主義とは即ち尊王である。これは努力する迄もなく、国民たる者の片時も忘るべからざる大主義である。故に之を以て国是と定め、大に国民にその事を御示になり、會計は倹約を主として経費を節減し、質素を励行し、軍制は時勢に応じて編制し、緩急に際して不覚を取らざる様にして貰ひたいと申述べたが、當時吉田派が多く要路を占めて居る。聊か勤王家を加味しては居ると云ふものの、小八木派も時々出入して居る事であるから、中々六ケ敷い景況で、一寸には運びさうではない。」】
五月
一 この月一日、老候が京都ヘ着かれたという知らせがあった。
ただしこれは十日ごろに聞いた。
一 堀部氏の書簡、次の通り。
文面は承知しました。同役から別紙[略]の通り言ってきましたので、貴殿のところへは最早届いていることと察します。まだ届いていなければ同役の小生にお問い合わせください。以上。
五月一日 [御船奉行] 堀部左助
佐々木三四郞どの
[参考]
一 五月二日、朔日、各組の組頭が召され、(太守さまの)御意を拝承した。ついては一同拝承のうえ、「相心得候様御目付中被申」(※正確な意味が分からないので、原文そのまま引用)、御意の内容は次の通り。
京都の形勢が不穏の折から、ご隠居様が「御上京被為遊御含ニ被為在候ニ付、其心得可罷在候事」(※意味がよく分からないので原文そのまま引用)、以上。
五月二日
一 同十三日、大目付を仰せつけられる。
佐々木三四郞
右の者、大目付を仰せつけられる。従来の格式・役領知ともそのまま仰せつけられる。職務のことは諸事心を配り、油断なく勤めるようにとの仰せである。太守さまの御前において言い渡される。
これとは別に、奉行衆より軍備御用兼任を命じられる。
五月十三日
参政・大監察(大目付)は要路なので、前例によって(太守さまの)御前で仰せつけられた。
このたび大監察を仰せつけられたのは、抜擢である。馬廻り以下より(大目付になるのは)まれにあることだ。かつて大脇興之進(注②)が同格で参政加役になった。小笠原唯八(注③)も同格で大監察になったが、これは馬廻りの家筋から進められた。吉田元吉の時分に野中太内(注④)が大監察となった。これも小笠原同様の家筋である。天明改革の際に谷丹内(注⑤)が同格から大監察になったが、すこぶる異例だった。自分が大監察を仰せつけられたのは、このごろ大いに勤王家の勢いがよくなったためだ。しかしながら、やはり尊幕家も多数いる。もっとも、その人々も追々勤王に傾いてきて、もはや後戻りすることはない状況で、同志の者たちはひそかに喜んでいる。
【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、大脇順若(おおわき-まさより1826*-1905)は「幕末-明治時代の武士,実業家。文政8年12月3日生まれ。土佐高知藩士。納戸役をつとめたのち,安政年間山内豊信(とよしげ)の密命をうけ,大橋渡之助と称して京都で活躍した。以後,軍備御用,中老格などを歴任。維新後第七国立銀行の設立とともに取締役になる。明治38年2月20日死去。81歳。通称は興之進。」】
【注③。朝日日本歴史人物事典によると、小笠原只八(おがさわらただはち。没年:明治1.8.25(1868.10.10)生年:文政12(1829))は「幕末の土佐(高知)藩士。高知城下大川筋の生まれ。諱は茂卿,茂敬。晩年に牧野群馬と改名。文久1(1861)年前藩主山内容堂(豊信)の扈従となり江戸勤務。2年江戸・梅屋敷事件の善後処置に奔走,抜擢され側物頭役,大監察兼軍備用役に昇任,容堂の上洛に随従し公武周旋に当たる。帰藩後,元治1(1864)年に武市瑞山助命嘆願で野根山に屯集した清岡道之助ら23士を処刑した。慶応2(1866)年,容堂の命で土薩融和の使者として後藤象二郎と鹿児島に赴き島津久光と会見,3年5月,乾(板垣)退助,中岡慎太郎らが進めた薩土討幕密約に関与,いったん解任されたが大監察に復職,4年1月,鳥羽・伏見の戦を契機に藩論は討幕に転じ,只八は藩兵を率いて上京,三条実美の抜擢をうけ大総督府御用掛。江戸の彰義隊戦争,東北戦争に功あったが,会津攻城戦で奮闘中敵弾を受けて戦死。弟謙吉茂連もこの日の戦闘で戦死した。<参考文献>寺石正路『土佐偉人伝』(福地惇)」】
【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、野中助継(のなか-すけつぐ1828-1868)は「幕末の武士。文政11年生まれ。土佐高知藩士。吉田東洋に重用され,東洋暗殺後も公武合体論を主張して土佐勤王党を弾圧。戊辰(ぼしん)戦争では佐幕説をとなえてゆずらず,藩主の従軍命令を拒否して切腹を命じられた。慶応4年5月27日死去。41歳。本姓は永井。通称は太内(たない)。」】
【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、谷真潮(たにましお。没年:寛政9.10.18(1797.12.5)生年:享保14(1729))は「江戸中期の国学者。土佐(高知)藩士谷秦山の孫,谷垣守の長男。幼名挙準,字丹内,小字虎寿,号北渓。真潮は名。10代の終わりに稲垣長諷に歌の添削を受けた。20歳のとき上京,帰国後父の紹介で賀茂真淵に入門し,歌の添削を受けた。祖父の代より家学となっている神道においてはそれに満足せず,独自の学説を立て,父は「我家悪魔を生ず」といったという。宝暦10(1760)年藩校教授館教授。のち浦奉行となり,天明の藩改革に際しては藩主山内豊雍に抜擢され,郡奉行,普請奉行を経て大目付の重職に付き,改革政治を断行,寛政3(1791)年に辞職した。(飯倉洋一)」】
[参考]
一 五月二十三日、老候が病気のため帰国を願い、翌日、朝廷が許可した。[藩政録による。以下三件も同じ]
松平容堂
病気のため帰国お暇願いの趣旨、(天子は)やむを得ないことだと受け止めておられるので、願いの通りお暇を許す。ついては先日のお沙汰の趣旨もあるので、帰国して養生したうえで、回復次第早々に上京するように。山内兵之助以下相当の人員を残して帰国すること。
慶応三年五月
[参考]
一 五月二十三日、老公が越前宰相(松平春嶽)・島津中将(島津久光)・宇和島少将(伊達宗城)とともに時事を論じ、幕府に建白した。曰く、
天下の大政は、公明正大の至理(まことにもっともな道理=デジタル大辞泉)を尽くし、時勢を見抜き、内外緩急の区別を明らかにして、施行されなくては行われがたいことはもちろんのことです。もともと救うべからざる今日に至った理由を考えますと、憚りながら、幕府年来の礼を失した行為により醸成されたものです。ことに長州再討の一挙により物議が沸騰し、天下が離反する事態になった次第です。これにより、明白かつ至当の筋道をもって長州の処置をなされることが急務であるべきです。自ずから、兵庫開港と長州事件は大いに緩急・先後の順序があるということは、(我々が)相談のうえしばしば建言したことでありますし、とくと「退考仕候處」(※退き考えましたところ、と読むのかもしれないが、正確な意味が不明)、右の区別をもって曲直・当否の分かれ目を示し、反正(正しい状態に返すこと=デジタル大辞泉)の実跡(物事が行われた確かな形跡。実際の跡形=デジタル大辞泉)が顕れるか顕れないかにかかわることですので、虚心をもって繰り返し考察されるよう願います。朝廷に対し、(長州処分と兵庫開港の)二件を合わせて上奏されると拝承しましたが、皇国の安危にも関係することなので、是非至公至大の道をもって、私権を取り除き、治久の大策を立てられるようにしていただきたい。重大な事柄を黙止しがたく、なお再考を求める旨を言上しました。誠惶敬白。
五月二十三日
越前宰相
島津中将
宇和島少将
土佐少将(山内容堂)
[参考]
一 五月二十四日、朝廷が長州に対する処置を寛大にすること、および兵庫開港のことを許す。時に将軍が参内してこのことを上奏した。朝廷はただちに四藩を召してこれを評議させた。議決するに及んで、朝廷は次のような命令を下した。
兵庫開港等の件につき、別紙の通り、御所よりお命じになったので、このことをお心得として伝える。
五月
[別紙]
兵庫開港のことは元来容易ならざることである。ことに先帝が(兵庫開港を)差し止められたのであるが、大樹(将軍)が(開港も)やむを得ぬ時勢であることを言上し、かつ諸藩の建白の内容もあり、現在上京している四藩も同様のことを申し上げたので、まことにやむを得ず、(天子は)お許しになった。ついては諸事を厳しく取り締まるように。
一 兵庫(開港)が止められたこと。
一 条約を結び直すこと。
右をお取り消しになった。
長州に対する処置について、別紙の通り御所よりお命じになった。ご処置の品(※この場合、事情とか理由の意か)はなお改めて仰せになるが、まずこのことを伝える。
五月
[別紙]
長州の件につき、昨年上京した諸藩、今年上京の四藩など、それぞれが寛大なご処置のお沙汰があるよう言上した。大樹においても寛大の処置を言上した。朝廷も同様に考えておられるので、早々に寛大な処置を取り計らうべきこと。
[参考]
一 五月二十六日、四藩よりのお伺い書は次の通り。
兵庫開港、長州に対するご処置の二件は、現在容易ならざる内外の大事と存じます。もともと幕府の長州再討の妄挙は、大義名分なき軍を動かし、兵威で圧倒する心算でいたところ、まったく奏功に至らず、天下の騒乱を引き出す結果となり、各藩の人士が離反し、物議が起きる事態になりました。ついては、ただちに国家の基を立てるために至急為すべきことは、公明正大のご処置をもって天下に臨まれることです。それなくしては全体が治まりませんので、長州の件は、大膳父子の官位を元に戻し、平常のお沙汰をし、幕府の反正の実跡を示すことが第一と心得ます。判然明白な実跡を示してこそ天下の人心ははじめて安堵するのであります。第二の兵庫開港は今の時勢に必要なご処置が必要で、順序を得たいとかねてから考えておりました。先般、朝廷よりご下問を受けましたが、いまだ一同が朝廷のお尋ねに答えぬうち、前述の二件の順序区別をするよう、幕府へしばしば申し出ておきました。ところが、一昨日の二十四日、長州の件は寛大な処置を取り計らうべし、兵庫開港の件は、現在上京中の四藩も同様に言っているので、まことにやむを得ずお許しになり云々という通達文書を拝見し、まことにもって意外の次第で、驚愕に堪えませんでした。朝廷のお沙汰のことは容易に申し上げるべき筋ではなく、はなはだ恐懼の至りで恐れ入りますが、皇国の重大な事実に相違することで、黙止する場合ではありませんので、やむを得ず一応お伺いします。以上。
五月二十六日
越前宰相
島津中将
宇和島少将
土佐少将
[参考]
一 五月二十六日、藩において次の通り。
覚
厳略(藩の支出削減策)にあたり、「内外両役場」(※両役場は執政・参政を指すと思われるが、内外の意味がよくわからない。ひょっとしたら、近習(内政官)と外輪(外政官)という意味かも)をはじめ、すべて「役領物成米」(※よくわからないのだが、役領は家禄とは別に支給される役職手当てのことで、物成米は年貢米の意か)の半減を仰せつけられ、ならびに、お侍衆の末端にいたるまで、毎年支給されていた「御補」(※これも役職手当ての一種か)もこれまた同様に仰せつけられる予定だと、昨年十二月に通達されたが、今年の半知借り上げ(注⑥)については、このたびご詮議のうえ、今年にかぎり、役領・御補ともに、従来の通りに引き戻して、半知借り上げを行うことになる。
【注⑥。旺文社日本史事典 三訂版によると、半知借上(はんちかりあげ)は「江戸時代,藩における財政救済法御借上・上米・半知・借知ともいう。諸藩主が家臣の知行俸禄を継続的に削減すること。はなはだしいときは俸禄の半ばにも達したので半知といった。江戸中期以降一般化したために武士層は貧窮化していった。」】
慶応三年五月二十六日
一 五月二十七日、老公が京都を出発され、六月二日にご帰国。兵之助さまが名代として京都にお詰めになる。
(容堂公のご帰国は)ご病気のためだが、何分思し召しが意のごとくにならず、兵庫開港等のごときもいろいろ行き違いがあるなか、また薩摩の奸策で、朝廷・幕府の間をいろいろ画策したというご疑念もあるのではないかと恐察する。いましばらく堪忍されるように願ったが、仕方ない。何にせよお供の要路に人物がいない。ことに、執政の深尾左馬之助は無二の尊幕で、お供をしており、今日までも大義のあるところを知らない。一途に山内家の利害を考え、幕府の権力がいまだに盛んなことを強調する。参政にも眞邊栄三郎・寺村左膳は尊幕家である。福岡藤次はこのごろは大いに尊王論となったとのことだが、もともと眞邊や寺村らと同穴で、十分に力を伸ばしていないようだ。大監察の小笠原唯八はお供衆のなかで最も正義論だ。眞邊・寺村・福岡の三人は京都に残り、深尾左馬之助・小笠原唯八は(老公の)お供で帰国した。また京都留守居役は森多司馬で、俗物。いわゆる天保初年度の留守居役と同様で、何の論もなく、実に無用の人である。今日このような留守居役ではとても他藩の事情も、天下の形勢も、ひとつも分かるはずがないと考えで、非常に慨嘆した。
老公のご帰国については、京都では評判が悪いようだ。すでに薩摩人などは往来で次のように歌うとのこと。
夕べ見た見た四條の橋で丸に柏葉の尾が見えた
老公のお供で帰国したなかに大監察の小笠原唯八は大いに憂いて、今日は実に大事な時である。全体に、薩摩はとかく兵を用いるのを好み、老公はいつまでも干戈を動かさず、十分尽力周旋するというお考えで、その辺は食い違っている。なにぶん補佐の人に乏しく、どうにもならぬと大いに歎息し、自分らに事情を話してくれた。しかしながら、今日、薩摩と異論を生じては、勤王家よりは攻撃を受け、だいいち藩内が破裂の形勢なので、早々に重役の者を(京都に)派遣し、大義をもって、朝廷に尽くすことが最も急務だと、唯八らと議論を起こしたが、いまだ(藩の)方向が定まらない。執政はもちろん、局外にある者でも門地家は何事も因循で、朝廷と幕府の間に立って、山内家の安全を保つことを主張する情勢であるが、藩内の一般は勤王家が多く、これまでも郷士以下では脱走などをした者が多い。この先もしも尊幕論に傾くことになれば、たちまち藩内が紛乱するだろうと同志たちは大いに苦慮している。
【注⑦。容堂の帰国については『佐佐木老候昔日談』で詳しく述べられているので、それを引用しておく。「六月二日、老公は突然御帰国になつた。實に意外で・・・これは御病気の為ではあるけれども、何分御意の如くならず、兵庫開港抔に於ても行違があり、また薩藩が朝幕の間を種々細工したといふ御疑念があつたからだらうと想像される。もともと老公は平和主義で、干戈を動かさずして王政を復古せんとするのであるから、薩の兵力主義から割出された行動に対しては、絶えず御疑念があつて、現に大久保の近状に就て、坂井といふ男をして探偵せしめた位。何でも二條城中で、久光侯と共に閣老に面会しやうといふと、久光侯が反対すると、さういふ矢先だから溜まらない。久光侯の襟髪を捕へて、イザ参れと引摺ると、久光公も怒つて公の手を打つと、公は力に任せて突倒し、大笑されながら悠々として閣老の處に行つたといふ事だ。これは後に聞いた話だが、老公はこの上京に就ては、まづ王政を復古し、長藩を処分し、小笠原閣老を免職するが尤も急務で、兵庫は、余儀なければ、開港するも差支ないが、警衛を厳重にしなければならぬ。また天下の大事は各大藩の合議に依つて決しなければならぬといふ意見を懐いて居られた。故に薩藩と勤王といふ大根本は符合して居るが、そのやり方に於て違ふ處があるので、事に當つては衝突して、遂に御帰国になつたんどあ。のみならず、この時は御供の要路に其の人がない。執政深尾左馬之助は無二の佐幕家である。今日になつても大義のある處を解せずして、唯々山内家の利害の點のみを考へ、幕府の権力の強盛なるを欺称して居る。御仕置役眞邊栄三郎、寺村左膳も佐幕家である。上京するや否や令を下して、機密に関する者の外他藩士との出會を厳禁したのであるから、応接掛の者さへも、其意を察して、會桑方面の人のみに會つて、薩藩の消息を審にすることが出来なかつたさうだ。福岡は近来勤王論となつたが、もともと寺村や眞邊と同穴で、十分力も伸びなかったのであらう。その中でも薩との応接掛となつて小笠原のみは、正義家であつた。同志の山川良水や深尾三九郎も上京したが、要路ではない。彼等は大に憤慨して、窃かに戒禁を犯しては中岡慎太郎等に會して、其の方面の事をも審にし、王政復古の事をも談じたが、何分嫌疑が深いので、行動も不自由である。處が丁度乾猪之助[板垣退助]が江戸から帰つて来て、屡々西郷に出會して居る。乾は始め佐幕家に大同して居つたので、勤王家といふ疑もなく、無役である處から自由に薩人と往来する事も出来る。そこで山川や中岡等も、乾を首領にするが善からうといふので、事に托してかれこれ周旋した。乾が西郷と討幕の密約をしたのも實にこの時であつたのだ。また京都留守居森多司馬は、頗るの俗物で、所謂天保初年度の留守居と同様、無用有害である。今日の場合、かういふ留守居では、迚も天下の形勢も、他藩の事情も分らないと、同志とも歎息した事である。
さて老公の御帰国に就ては、京都では評判が悪く薩人などは途上で『ゆンべ見たみた四條の橋で丸に柏葉の尾が見えた』と謡うて、大に之を嘲つたさうだ。成程薩藩は兵力主義である丈に、さすがに兵力は土佐よりは優つて居て、常に久光候は兵士に護衛されて往来し、河原町の藩邸に久光候、越前公、宇和島候等が来られた時、薩兵が藩邸の四面を囲んで、銃丸をこめて意気天を衝く慨があつたといふことだ。ツマリ土佐の兵は薩藩に比しては頗る少数であつたのだ。愈々公は御帰国といふ事になつたので、兵之助様を御名代に残された。眞邊、寺村、福岡の三人も矢張残つて居る。深尾執政と小笠原は御供して帰国した。小笠原は自分の處へやつて来て、大に心配して云ふには『今日は實に大事の場合である、薩は兎角兵力に訴へる事を好み、老公は温和手段を以て解決する思召で、その邊は食違つて居るが、夫もどうか調和の出来ぬ事はないけれども、何分補佐の人物が乏しかつたので、益々齟齬して、今日の始末、實に慨嘆に堪へぬ』。と、自分も實に同感であつた。
そこで今、薩藩と異論を生じたならば、勤王家から攻撃を受け、第一に国内が破裂する形勢であるから、速に京都に重役の者を差立られ、大義を以て朝廷に盡すのが目下の急務であると、小笠原と共に議論を持出した。けれども當時執政は勿論、局外でも門地家は因循論で、朝幕の間に處して山内家の安全を計る光景であるけれども、国中一般勤王家が多く、是迄も郷士以下で脱走等も多く出た末であるから、この上藩論が佐幕の方へでも傾いたならば、忽ち紛乱して来るのは目の前に見えて居る。で、ツマリは小笠原と申出たのであるが、グズグズして居つて、中々運ばない。】
保古飛呂比 巻十七 慶応三年六月より同年八月まで
慶応三年丁卯 三十八歳
六月
一 この月、次の藩命があった。
佐々木三四郞
右は従来の勤事そのまま京都ヘ派遣する。来る十七日に蒸気船で、浦戸から乗船するように。
ただし彼の地(京都)においては探索御用兼任を命じられ、月に金十両を支給される。
右の通りご命令があったので、貴殿よりこの旨を申し聞かせるよう。以上。
六月十二日 深尾丹波
東野左次馬どの
別紙の通り云々。
右同日 東野左次馬
佐々木三四郞どの
参政の由比猪内、小目付の毛利恭助が同日同様に命じられた。
下横目の健三郎が随行を仰せつけられた。健三郎は勤王家である。[名字は岡本という]
右の通り仰せつけられたので、政庁に出勤し、両役場(執政・参政のことか)が同席していない場で、今度上京するについては、国是が一定せず、漠然と上京はできず、どういうことかと陳述した。よって、いろいろ議論となったが、確定せず、そのとき渡邊彌久馬が遅く出勤してこう言った。このたびの上京については、きっと議論があると思っていたが、果たしてもう始まったか。まことに大事な局面なので、十分なご詮議がなくてはかなわぬ。いずれにしてもこの件は容易ならざることなので、執政が列席して大いに御詮議すべし。明日にも御用番の集会の開催を申し出るべきだと、その日はそれで終わった。その席に近習目付の横山匠作がいたが、同人はすこぶる不快の顔色で一言も発しなかった。横山は自分の親類であるが、近年ははなはだ疎遠になっている。その訳は、匠作の父覚馬は国学家で、鹿持藤太(注⑧)の高弟であるが、すこぶる尊幕論で、あの小八木五兵衛・寺田左右馬・若尾直馬らの同類である。自分等は勤王論を唱えているため、何となくお互いに隔意をはさむことになった。今日自分が大議論を発して、自然と過激の口ぶりになったので、(匠作は)かねがね論点の合わぬところから大いに不平を抱いたのだが、いまだ若年でもあり、それゆえか一言も発せず黙ってしまった。これは佐幕家の異論のある所以である。
【注⑧。朝日日本歴史人物事典によると、鹿持雅澄(かもち‐まさずみ。没年:安政5.8.19(1858.9.25)生年:寛政3.4.27(1791.5.29))は「江戸後期の国学者,歌人。土佐(高知)藩の下級武士柳村惟則の子。妻菊子は土佐勤皇派武市瑞山の叔母。本姓藤原氏,その支流飛鳥井家の流と自称。鹿持は本籍地の名。名は雅澄のほか深澄,雅好など。通称原太,藤太。号は古義軒ほか。藩儒中村世潭に漢学を,宮地仲枝に国学,和歌を学んだ。生涯を微禄貧困のなかに送ったが,藩家老福岡孝則によって藩校の講義聴講,藩庫の蔵書閲覧の便宜を与えられた。『万葉集』注釈に生命をかけ,生涯国を出ず,ほとんど独学で学問研究に励んだ。その著『万葉集古義』141冊は,本文の注釈にとどまらず,枕詞から地理にいたるあらゆる分野の研究を網羅している。近代以前の万葉研究の最高峰といっても過言ではなく,維新後,天覧の栄に浴し,宮内省から出版された。また,万葉研究の過程で体得した復古精神は瑞山に受け継がれ,土佐の勤皇思想に大きな影響を与えた。<参考文献>尾形裕康『鹿持雅澄』,鴻巣隼雄『鹿持雅澄と万葉学』(白石良夫)」】
(続。佐佐木高行の活躍の舞台はこれから京都、そして長崎へと移っていきます。保古飛呂比の最初の山場の始まりです。お楽しみに。追伸、毎度のことながら分からないところが多く、申し訳ありません)