わき道をゆく第260回 現代語訳・保古飛呂比 その83

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一 (慶応三年)六月十三日、執政の深尾丹波どの宅で、執政・参政・大監察が列席して、前日にひき続いての詮議があった。その際もとかく因循論で、朝廷と幕府の間に立って、ほどよく周旋せよとの事だったが、「今日となってはもはやそんなことはできない。ここに至って(土佐藩の)国是が一定しなければ、三四郞においては決して上京できない。そもそも山内家は幕府の恩義が厚いことは誰も忘れていない。それゆえ薩摩や長州のようにはできぬ。また、今日のことは外国の関係することで、もちろん日本同志の争うことではなく、これまで老公も深く心を痛めて朝幕の間を周旋してこられた。三四郞らもそのご趣意を守り、軽挙妄動を戒めてきたのであり、これまで過激の徒が脱走などをするのはよろしくないと思い、一途に君公の大義をもって尽力されるのをいつまでもお助けしようという気持ちだが、今日の場合には、勤王をもって尽力されるのは当然のことだ。(老公は)幕府のためにはこれまで十分に尽力されたが、幕府も何分確固たる定見がないのであろうか。長州の再度の征伐はまことに失策で、天下の人心はいよいよ離れ、いずれにしてももはや天下は紛乱となるだろう。その時にはただただ大義をもってお倒れになるなら、後世までも忠節の名は朽ちない。因循して、いわゆる天気をうかがうようなことをすれば、知らず知らず不義の名を蒙ることがないとは言えない。であれば、この際、速やかに(藩の方針を)確定させたうえで三四郞らを派遣すべきだ」と、かなり激烈な議論を申し述べた。ところが、執政は何分半信半疑で、山内家の大事とすこぶる苦慮のありさまである。深尾左馬之助どのは、老公のお供で先日帰国したが、もとより尊幕家であるから、将軍家の外形を見て、いまだ幕府の威力が盛んだと心得ているから、自分らの議論が激烈になっているのについて、直ちに討幕を主張していると考えたのか、大いに怒り、大声で「そなたたちは、今日討幕とは何事だ。京都で将軍が二条城から参内した際、兵備の充実していること、その勢いは甚だ盛んである。二、三の藩で討幕する者があれば、これは夏虫の火に入るようなものだ。我らは山内家の大事のみで、討幕論などは思いもよらぬ」(と言った)。福岡宮内どのはよほど分かってきたものの、まことに山内家の安危存亡のかかった局面だから、躊躇の色がある。参政や大監察には三四郞に同意する者もあった。よってさらに申し述べたのは、三四郞とても今日ただちに討幕というのではないけれど、ただ大義のあるところに従っていずれは討幕すべしと。今日から(藩の方針)確定がなくてはならず、大体のご決定がなくては、上京の件はお受けできないと(言った)。ここに至って議論は紛々とし、枝に枝が出て、時刻が移り、深更におよび、なお決定せず、むなしく一同退出した。明日さらに大詮議をしようということである。

一 六月十四日、深尾丹波どの宅に(前日の顔ぶれが)集まった。今夕も議論がまとまらず、種々に論点が別れた。自分は何にしろ(藩の方針の)確定がなくては上京できぬと言い張った。昨年の太宰府行きのときから、同志とも相談したことがあった。今日になって佐幕家に巻き込まれたのでは、何の面目があるかと決心しているので、とかく議論も激烈になった。執政などは大いに不平の色があった。しかしながら、総じて人心が動揺しているときであり、自分を(大目付の職から)解任した場合、よほど困難のことに至る恐れがある。その訳は、門地家こそ尊幕論または因循家があっても、一般の人心は討幕の方が多くて、とても平穏には治まる見込みはない形勢であるから、執政もきっぱりと自分(佐々木当人)を解任することも難しいと考えたにちがいない。自分が繰り返し述べたのは、「両殿さま(容堂公と豊範公)にももちろん勤王のことは言うまでもないが、外国の大敵も眼前にあることなので、政令一途に出なくては何事も行われぬということを心配されて、天朝と幕府が合体し、万機一途に出るよう周旋されたのであるが、三四郞とてもほどよく合体となり、皇国の威権が立てば、このうえもないことと思っている。しかしこれまでの天朝と幕府の模様では、ほどよく合体することははなはだ難題と思う。であるなら、このうえ幕府においても言うべからざる(不敬の)処置に出るか。また朝廷よりも討幕のお沙汰が出るかも知れず、ついには元弘・建武の昔のようになるかもわからない。今日は外国の関係することであり、内乱に至ったときは、とうてい元弘・建武の昔の争乱ぐらいでは済まぬと思うので、十分に天朝と幕府の周旋に尽くすのは当然であるけれど、このうえ行き詰まったら致し方ない。利害得失を顧みる暇はないので、新田(義貞)・楠(正成)の跡を踏んで、倒れて止むほか策略はない。その決心により国是を一定させなくては大いなる不覚となり、千年後まで汚名を残されることになる。よって是非とも確固とした国是をうかがった上でなくてはとても周旋などできませぬ」とまたまた議論がやかましくなった。そこで自分は「ならばこのたびは、執政の方が一人上京され、(由比)猪内・三四郞らはそれに随行するよう仰せつけられ、何事も出先で決定するようにされたい」と言ったが、執政衆は進んで上京しようという意気込みがなく、とかく一決せず、進退が窮したところに幸いなるかな、乾猪之助[板垣退助のこと]が、昨年ごろより馬術修行と称して江戸に行っていたのだが、帰国した。乾はただちに大監察を仰せつけられてその場に列席したので大いに力を得た。乾は京都に立ち寄り、西郷吉之助らと何やら相談したとのこと。乾から京都の模様を説明して曰く。「今日は薩州の論が正義だと考えるので、薩州と分離するのはよろしくない。薩州はいつか(足利)尊氏となるかもわからないが、ともかく差しあたり至当の論だと思うので、そのあたりは十分ご考慮されなくてはならぬ」と。乾は平士中の門閥家なので、大いに勢力を得た。それよりいろいろご詮議が行われたうえで、昨日今日のご詮議の内容をもって両殿さまに申し上げ、思し召しを伺うことに決まった。

一 六月十五日に至り、ようやく両殿さまの思し召しにより、上京のうえ大義のあるところと思った場合は、そこへ方向を定め、決行すべしと、ご委任の旨を執政より通知があった。自分たちが申し立てた通りにはいかなかったが、上京のうえは力量次第で十分活動する余地があるので、お受けし、上京と決した。先に執政衆の一人が上京することを申し立てたのは、差し迫っての口実で、実際のところ、無力の執政らに随行したりすれば、何事も出来はせぬが、このたびはどうにでも策をほどこすことができると、密かに喜んだ。

随行の下横目・健三郎には、執政宅でのご詮議の内容は教えていなかったが、同人らは無二の勤王家なので、上京したらどういう方向になりましょうかと尋ねてきたので、おおよそのところは内々に話した。ただ、気にかかったのは、在京の参政・眞邊栄三郎・寺村左膳(注①)・福岡藤次(注②)は尊幕である。また兵隊も隊長はいずれも門地家なので、どうだろうかと思ったが、福岡は昨年長崎に行ったとき、海援隊と折衝したこともあり、もはやよろしい方かと察せられる。毛利恭助(注③)は微官でも、今日はだんだんと力をつけてきて、石川誠之助(中岡慎太郎のこと。注④)らと懇意にし、自分らはおよそ恭助の心情も心得ているのでよろしい。由比(猪内)は公平だから、悪いところはないに違いない。陸目付(小目付の配下)の樋口眞吉(注⑤)も在京で、同人は同志であって人望もあるので、兵隊も隊長より以下は同人よりよくよく話をすれば、いずれも同志衆が多くて都合がいいだろう。また後藤象二郞も長崎より直に上京する模様で、今頃はすでに上京しているかと思われる。同人は才士で長崎に久しく滞在し、その間に坂本龍馬(注⑥)らと昵懇になったようで、天下の形勢は心得ていると思われるので、同人が上京しているならば都合がいいと考えた。右の通りであるが、見込みが違ったときは自分の独断として、長州の三老臣と同じように(切腹して)果てるまでで、そうすれば山内家もご無事かと思う。そのあたりは上京の上でなくてはなんとも言いかねる。京都の方はかえって他藩人もあり、滞京の人々も時勢が目につくゆえよろしいかと思う。大いに懸念するのは留守中の藩のことである。なにしろ執政はもちろん、その他も、とかく尊幕家が多く、ことに深尾左馬之助どのなどは、昨今京都より帰国したが、幕府が盛んであることを信用しているので、またまたどのように変わるかわからず、そのことは同志へよくよく相談しておくつもりで、幸い乾も要路にいるので、都合がいいと考えている云々、健三郎ももっともと聞いて退出した。

尊幕家のある若手は、このたび討幕の方針を決定して上京されるように漏れ聞いているが、いよいよでしょうかと言ってきた者もあったが、「直に討幕ということでは決してなく、ただただ大義のあるところにしたがって尽力するという(両殿さまの)思し召しである」と答えた。尊王家は討幕のことを主張する者もあり、なかなか難しい人心(のありよう)となった。よって自分は、大義名分に処し、斃れて後やむの精神のみと決心したのであるが、何事も今日はみだりに口外できぬ事である。

同夜、布団のなかでつらつら思うに、今般の局面は、まことに山内家の安危存亡にかかわり、また千年後までも義か不義かの美名もしくは汚名を残すときであり、また皇国の安危、朝廷の存亡がかかる局面であると考えられ、一家一身のことであればただ進み倒れて止むということだけで事は終わるが、このたびの上京してからのことは、一藩の運命にかかわり、さらに大きくは皇国の浮沈がかかる大事という場合であるから、容易に粗暴の事は戒めなくてはならぬ。さりとてまた因循に流れてもならず、今日の時勢はまことにもって中庸は難しい。さる文久元年九月、武市半平太が江戸から帰国して以降、要路の人々や門地家からは、勤王家をもって軽格論との疑念を受け、また、勤王過激派からは因循家と思われたことは、自分も十分心得ている。なにぶん自分は山内家の大事を考え、天下の時勢は切迫しているが、なかなか軽率なことは大害があって、益がないと考えて、終始中間にあって心配したことである。官途にもしばしばあったが、一年以上勤めが続いたことがなかったのは右のような事情があったからである。もはや今日となっては、決心するところがなくてはならず、ただただ死処を得て、万分の一も(皇国と藩の)ためになることを熟慮すべき局面であるからと終夜考えて、寝につかず、ようやく安心して、このたびは一途に進んで難にあたれば、一身の義理も立ち、(土佐の)一般(の人々)に尽くすという赤心も貫き、君公への忠義となり、いわゆる我が君公を、勤王の大義をお踏みになられるところへ先導すべきだと考え定めたので、心中の妄念雑慮がはじめて消失した心地で、鶏の鳴く明け方に暫時快寝した。

【注①。「朝日日本歴史人物事典によると、寺村左膳(てらむらさぜん。没年:明治29.7.27(1896)生年:天保5.6.24(1834.7.30))は「幕末の土佐(高知)藩重役,旧藩主山内家家令。高知城下に住む中老700石取り寺村主殿の3男。資性温厚,国学に素養あり,公武合体論を持した。前藩主山内容堂(豊信)の側用役から仕置役に進み,慶応3(1867)年10月の土佐藩の大政奉還建白には後藤象二郎,福岡孝弟,神山郡廉らと連署した。4年1月,鳥羽・伏見の戦の報が高知に至るや,左膳は土佐藩の参戦に反対し,板垣退助ら討幕派に厳しく責められ,同年6月除族,安芸郡野根に蟄居した。まもなく赦免され,旧藩主山内家の家令を勤めたのち東京に出たが,晩年は不遇だったようだ。東京で病没。(福地惇)」】

【注②。朝日日本歴史人物事典によると、福岡孝弟(没年:大正8.3.7(1919)生年:天保6.2.5(1835.3.3))は「幕末の土佐(高知)藩士,明治政府官僚,政治家。高知城下に生まれる。吉田東洋の薫陶を受け後藤象二郎,野中助継らと吉田派の中心におり安政6(1859)年大監察。東洋遭難後は逼塞したが,隠居山内容堂(豊信)の帰郷後,藩政指導部に復帰,大監察,仕置役を歴任,容堂の公武合体路線に沿って行動。慶応3(1867)年大政奉還運動では後藤と藩を代表して成功させた。同年12月維新政府の参与として基本綱領策定の必要性を提唱,翌4年1月に五箇条の御誓文を起草。議事体裁御取調御用,明治2(1869)年学校御用掛。3年2月高知藩庁に転じ,少参事,権大参事として藩政改革,財政整理に尽力。5年政府に出仕,文部大輔,司法大輔,征韓論政変後に辞職。7年左院1等議官に暫時任じた。8年政変で元老院議官,政府部内の薩長両派と土佐派の緩衝役を務めたが,下野。13年元老院議官に復帰,14年文部卿,同年参議に昇任して18年内閣制度施行まで勤めた。この間,参事院議長も兼任。17年子爵。18年宮中顧問官,21年から他界するまで枢密顧問官。<著作>「五箇条御誓文と政体書の由来に就いて」(国家学会編『明治憲政経済史論』)(福地惇)」】。

【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、毛利恭助(もうり-きょうすけ1834-?)は「幕末-明治時代の武士,官吏。天保(てんぽう)5年11月29日生まれ。土佐高知藩士で,致道館剣道導役,小目付となる。慶応3年(1867)谷干城(たてき)らと薩土討幕の密約に参画。明治元年京都留守居役,のち新政府で静岡県参事などをつとめた。明治10年代に病没。名は吉盛。】

【注④。朝日日本歴史人物事典によると、中岡慎太郎(なかおかしんたろう。没年:慶応3.11.17(1867.12.12)生年:天保9.4.13(1838.5.6))は「幕末の尊攘・討幕派の志士,土佐(高知)藩郷士。大庄屋中岡小伝次の子,母は初。安政2(1855)年武市瑞山の道場に入門し坂本竜馬を知り,また間崎滄浪に経史を学ぶ。同4年,大庄屋見習となり結婚。文久1(1861)年土佐勤王党の血盟文に署名。翌年10月五十人組結成に参加,江戸に赴き山内豊信の警護に当たった。翌3年4月帰郷,藩庁による尊攘派の弾圧が始まり脱藩,長州に入り,三条実美らの護衛に当たる。翌元治1(1864)年6月上洛,長州軍の一員として禁門の変に参加。その後長州藩に逃れ忠勇隊の隊長となる。同隊は脱藩浪士を構成員とする長州藩諸隊のひとつ。以来,下関,大坂,京,太宰府,長崎,鹿児島と歩き,この間,竜馬と共に薩長の和解工作に尽力する。慶応1(1865)年冬『時勢論』を土佐の同志に送り,こう予言した。「自今以後,天下を興さん者は必ず薩長両藩なるべし。……天下近日の内に二藩の命に従ふこと鏡に掛けて見るが如し」。同3年2月,脱藩の罪を許され,土佐藩より陸援隊隊長に任命される。竜馬の海援隊に対しての陸援隊である。5月21日,板垣退助を西郷隆盛に引き合わせ,談は武力討幕におよんだ。6月22日,薩土盟約締結に立ち合う。京白河で討幕の日に備えていた同年11月15日,刺客に襲われ負傷,17日に絶命した。年30歳。(井上勲)】

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、樋口真吉(ひぐち-しんきち1815-1870)は「幕末の武士。文化12年11月8日生まれ。土佐高知藩士。郷士の子。遠近鶴鳴にまなび,諸国を遊歴して剣術や砲術をおさめる。帰郷して中村に家塾をひらき,土佐西部勤王党の首領格となる。戊辰(ぼしん)戦争に従軍,その功で留守居組にすすんだ。明治3年6月14日死去。56歳。名は武。字(あざな)は士文,子文。号は彬斎(ひんさい),南溟(なんめい)。」】

【注⑥。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、坂本龍馬(さかもとりょうま[生]天保6(1835).11.15. 土佐[没]慶応3(1867).11.15.)は「京都幕末の尊王攘夷派志士。倒幕運動に多大な貢献をした。本名直柔(なおなり),別名才谷梅太郎,通称龍馬。土佐藩郷士の出身。江戸で剣術修行中に知った武市瑞山,久坂玄瑞らの影響を受けて尊王攘夷運動に入り,文久2(1862)年脱藩して江戸で幕府の軍艦奉行勝安房守(勝海舟)の知遇を受けた。航海術に専心する一方,勝とのつながりから薩摩藩の援助を受けて長崎で洋式銃砲の取り引きを行なう貿易商社亀山社中を設立,慶応2(1866)年薩摩藩と長州藩の間を斡旋して両藩の和解,盟約を成立させた(→薩長同盟)。慶応3(1867)年に脱藩の罪を許され土佐藩に戻り,亀山社中を海援隊と改め藩と密接に結んだ。長崎から上京する藩船の中で土佐藩士後藤象二郎と国家構想「船中八策」をまとめ,土佐藩はこの案を元に将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した。討幕派と佐幕派の調停,融合をはかることに土佐藩の勢力拡大の道を求め,朝幕連合政権による新体制樹立を謀議中,同志中岡慎太郎とともに京都の旅宿近江屋で刺客に暗殺された」】

一 六月十六日、早朝より藤並大明神に参拝する。夕方、杓田村へ墓参する。介良村・長濱村の両墓所は遠方で参拝の暇がなく、出発後に家内に名代で墓参するよう言い聞かせた。

神田村の百姓・示野寿太郎に留守中のこと一切を頼んでおいた。同人はすこぶる実直で、世話が行き届き、村の方でも人望があり、いわゆる男伊達の気性があって、家政向きより万事引き受けてくれた。留守は幼子と女のみであるが、寿太郎に頼んだので安心だ。親族よりも頼もしく感じた。

惣領の先一郎は六歳、[弟]軍八郎が十二歳、祖母上[実の母]、母上[實の姉上]、妻貞衛、[長女]千勢[藤井に嫁入り]、[二女]於馬、以上の身上のことを寿太郎が引き受けた。

一 本山氏の書簡、左記の通り。

お手紙の件、委細承知しました。月番へも何のお沙汰もありません。たぶん貴兄に直接お答えがあるかと思っています。なお催促してみます。またご機嫌伺いの件、二の御丸(藩主・豊範のこと)は近習目付に文書を提出してください。少将さま(第十二代藩主・豊資のこと)・ご隠居さまへは小生よりうまく取り計らいます。そのように承知してください。以上。

即刻 本山只一郎

佐々木三四郞さま

さぞさぞご多忙と察します。場合によっては、後々お目にかかれぬこともなるかもしれません。季節の移り変わりによくよくご自愛ください。内向きの事情のところはこれから追々(藩上層部と)交渉します。

(高行の所感)このように只一郎から言ってきたのは、何も格別のことはなく、上京についていろいろ執政に確認しておくことがあったためである。大方のところは定まったが、枝葉のことが埒が明かないためである。只一郎はもとより同志なので、留守中の政庁の模様は同人から知らせてくれるはずだ。(それというのも政庁は)なにしろ今日までも尊幕家が多く、不安なことが多いゆえである。上京中の留守(この場合は土佐藩政庁のこと)の晴れ模様を祈る。乾猪之助・小笠原唯八らは頼もしく思っているので、尊幕に巻き込まれる気遣いはまずないと思うが、風向き次第で解任されるかもわからず、心配である。

このたびの上京に際し、老公が由比猪内に「福岡藤次を京都に置いておくと良くないので、その方らが上京したら、早速帰国を申し付けるように」と指示されたとのことで、猪内も大いに心配してこう言った。「京都の模様がわからない。福岡は昨年来、後藤(象二郎)を悪くいったので、老公が気を悪くなされたのだ。(福岡はそれまで)後藤と示し合わせて何事も進めてきたのに、一昨年、後藤が長崎へ逃れ出て以来(後藤のことを悪く言うようになった)。それゆえ老公は『同志の者をにわかに悪く言うのは、非常に(武士として)似つかわしくないことだ。藤次はともに死を契ることはできぬ男である』と常に仰っていた」とのこと。それゆえか、または(福岡が)近来薩摩の論に傾いたためか。もし、薩摩の論に傾いたためなら、同じく在京中の眞邊栄三郎・寺村左膳はやはり尊幕論を主張しているのか。そのあたりは、上京の上でないと分からぬと、(猪内と)二人で話し合い、いずれ上京の上の取り計らいにしようと(決めた)。たとえ老公のご指示に背いても、福岡を急に帰国させると都合が悪い事情もあるので、お咎めを受けても、そのままにしておくようにするつもりなので、その辺りはとくと含み置かれたいと猪内は言った。まことにいろいろと入り組んだ事情で、困却困却。

一 六月十七日、大雨雷、西町の私宅を出発、上京の途につく。

幡多倉よりはしけで、申の刻(午後四時ごろ)、浦戸港で空蝉(土佐藩所有の蒸気船)に乗り、申の下刻(午後五時ごろ)に出港。同行は仕置き役の由比猪内、小目付役の毛利恭助である。波が立ち、船が揺れて困った。

一 同十八日、曇り、申の刻前後に大坂川口に着いた。風波あり。はしけに移ることができず、兵庫に停泊した。夜中に上陸、船宿に泊まった。

一 同十九日、晴れ、夕方大雨、辰の中刻(午前八時ごろ)はしけに移り、申の下刻、大坂に着き、市中に泊まった。

一 同二十日、辰の刻、淀船(淀川を往き来する船)に乗り、酉の中刻(午後六時ごろ)伏見に到着。市中に止宿した。今夕、船中に川魚が飛び入り、自分の顔の上に落ちた。大吉兆だと一同大笑いした。

一 同二十一日、晴れ、辰の刻に伏見を発ち、大仏前に休息し、昼時に川原町の藩邸に着いた。それから枡屋友一郎方に止宿、即日、眞邊栄三郎の旅宿に集まり、政権返上の建白(大政奉還の建白。注⑦)の評決をした。同席したのは仕置き役後藤象二郞・由比猪内・福岡藤次・眞邊栄三郎・自分らである。ただし、御国論(土佐藩の方針)のありようも在京の面々に知らせた。(注⑧)

【注⑦。改訂新版 世界大百科事典によると、大政奉還 (たいせいほうかん)とは「1867年(慶応3)10月14日,江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が朝廷(天皇)へ政権返上を申し出,翌15日,朝廷が許可した幕末期の政治事件。〈大政〉とは天下の政治の意。慶応期(1865-68)に入って倒幕運動が進展する過程で,土佐藩は公議政体論の立場から,幕府に政権の朝廷返上をすすめる政策をとった。その中心人物が後藤象二郎で,彼は前藩主山内容堂(豊信(とよしげ))を動かしてこの運動をすすめた。この後藤の大政奉還論の背後には,いわゆる〈船中八策〉(坂本竜馬が後藤と上京の途次立案し,1867年6月15日綱領化された)にみられる政治綱領があった。それは政治の実権を幕府から朝廷に奉還し,朝廷(天皇)のもとに諸侯会議および新たに登用された人材(議員)によって構成された上下議政局をおいて万機を公議に決し,開国和親・法律制定・軍事力(御親兵)設置・貨幣統一などによって国家の体制を整えようとしたものであった。これはヨーロッパの議会制度の知識を借りた具体的な政権構想で,それだけに幕藩体制との妥協的な側面をもっていた。こうした公議政体論は,肥後藩士横井小楠,薩摩藩士五代友厚や幕臣大久保忠寛(一翁)らにもみられ,坂本竜馬はこの大久保の影響をうけたといわれている。1867年6月22日,後藤は,薩摩藩に働きかけて薩土盟約を結んだ。これは後藤のほかに,土佐藩の寺村左膳,福岡孝弟,真辺栄三郎,中岡慎太郎らが加わり,薩摩藩の小松帯刀(たてわき),西郷隆盛,大久保利通らとの協議によって成ったもので,公議政体路線と討幕派路線とが微妙にからみ合っていた。だから,この薩土盟約は薩摩藩の村田新八をとおしてただちに討幕派の拠点長州藩に報じられたが,長州藩ではこの盟約は最終的には武力討幕を否定してはいないとみていた。討幕派は政権構想では公議政体論によりかからざるをえない弱点をもっていたのである。後藤はこの討幕派の弱点を巧みに利用しつつ,薩摩藩を公議政体路線にひきつけて幕府との武力決戦を回避しようと企図していた。土佐の藩論を大政奉還に決定させた後藤らは,芸州藩とも交渉をもった。この後藤らの工策の裏をかくように,9月20日には,薩長芸3藩の挙兵協定も成立していたのである。こうして,公議政体路線と討幕派路線とが競合・交錯するなかで,後藤らは山内容堂の名で大政奉還をすすめる建白書を老中板倉勝静(かつきよ)をとおして将軍に提出した。その別紙には寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝弟・神山左多衛(郡廉)が連署し,内外庶政の急務,更始一新の要諦を列挙していた。これはさきの〈船中八策〉に基づいたものであった。これをうけた徳川慶喜は,板倉勝静・永井尚志(若年寄格)をはじめ,松平定敬(老中上座,所司代)・松平容保(京都守護職)らとはかって大政奉還を決意し,さらに松平慶永・徳川慶勝(前尾張藩主)・徳川茂承(紀州藩主)らにも意見を求めて上京を促した。10月12日から13日にかけて,老中以下の諸有司および在京諸藩の重臣らは二条城に招集されて慶喜の諮問をうけた。かくて,翌14日,永井尚志の起草になる大政奉還の上表文が朝廷に出された。そこでは200有余年にわたる幕府の失政への反省とともに,〈当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ,愈朝権一途ニ出申サズ候テハ,綱紀立チ難ク候間,従来之旧習ヲ改メ,政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ,広ク天下之公議ヲ尽シ,聖断ヲ仰ギ,同心協力,共ニ皇国ヲ保護仕候得バ,必ズ海外万国ト並ビ立ツ可ク候〉と述べられている。これは15日,勅許された。しかし,当時すでにこれを〈権略〉とみる見方もあった。つまり,〈大政奉還〉は,いったん政権が返上されても朝廷はこれをもてあまし,ふたたび政権は徳川慶喜に委任されるだろうという見込みのうえになされたというのである。事実,この時点で幕府内部では新たな政権構想が検討されていた。とくに奥祐筆所詰として慶喜の側近にあった西周(あまね)は,10月13日以降,新たな政権構想に関して慶喜と密接な交渉をもち,11月に〈議題草案〉として提出した構想(図参照)は,ヨーロッパの政治形態にならっていちおう三権分立のかたちをとるが,これまでの諸大名領はそのままとし,各藩それぞれの領国内の政治を議政院の立法の範囲で認め,軍事権は当面は諸大名がもつが,数年後は〈大君〉の中央政府へ統轄されるものとしている。この〈大君〉には慶喜がなり,各事務府の人事権は〈大君〉が握り,行政府の長としての〈大君〉は,上院の議長でもあり,下院の解散権ももち,両院でくいちがいがおこったときの裁定権も一手に掌握すると規定されている。そして,この西のプランでは,〈大君〉は外国の国王,あるいはサルタンまたはツァーに対比されているのである。これに対し,天皇の政治上の権限はすべて否定され,法の欽定権はあっても拒否権はなく,山城一国を与えられるにとどまる。明らかにこれは新たな徳川統一政権を意味していた。この〈大君〉制国家構想への見通しをもったがゆえに,慶喜の〈大政奉還〉はなされたとみてよい。そして,それが勅許されたことによって,同じ10月14日〈討幕の密勅〉を手に入れた討幕派は肩すかしをくったことになる。以後,討幕派は危機に追い込まれた。その打開のためにうたれたのが,討幕派による12月9日の王政復古のクーデタだった。執筆者:田中 彰」】

一 六月二十二日、晴れ、巳の刻(午前十時ごろ)に出勤、午時(正午ごろ)帰宿した。

一 同二十三日、晴れ、松本という借席(※貸し座席のことか)で会議。大政返上云々の建白を修正した。それより毛利恭助を同伴して、才谷梅太郎(坂本龍馬のこと)・石川誠之助(中岡慎太郎のこと)の両人の意見を聞くため、會々堂(八坂下河原の料亭)で密会した。夜に入り帰宿。今夕、大雨雷鳴あり。この日、才谷曰く。「我が藩はこれまで幾度も藩論を変えたため、薩藩もいまだ疑念が解けない。このたびは十分に目的を立て、変換がないようにすることが必要だ」。自分曰く。「もっともなことだ。しかしながら、このたびは最早時勢も切迫している上に、後藤をはじめこれまでの佐幕家も大政返上のことに熱中している。どのようになろうとも、今度はやるところまでやらなくてはならぬ場合になっているから、何とか十分芝居ができようと思う。安心してもらいたい」。才谷が笑って曰く。「何かまた芝居ができるとは名言だ。何でもいいから一芝居興業すれば、それより事が始まるであろう」云々。才谷・石川両人の考えも自分と同じく、大政返上などのことを我が藩が主張し、その主人役となれば、薩藩も必ず信用するだろう。薩長人も土佐より何か主人役になるのを出すことを望んでいるだろう。これは(土佐藩を)引くに引かれぬ局面に至らせるという心算があるのだろうと思う。お互いに十分尽力しよう(と約束し合った)。(注⑧)

【注⑧。この大政返上建白については『佐佐木老候昔日談』にさらに詳しい記述があるので、それを引用しておく。かなり長くなるが、ご容赦願いたい。「この時分、京都には後藤、福岡、眞邊、寺村等が滞在して居った。モウ大分感情も融和して居る。後藤と福岡とは大分善くなつて居り、眞邊等とても思うた程でもない。尤も眞邊は、まだ佐幕の方である。維新後は司法省の低い役人をした。寺村は中老で、依然佐幕の方で、伏見戦争の頃にもなほ寺田、小八木等に同意して、罰を受けた。明治二十年頃日野春草と改名した。丁度自分が京都ヘ着いた時は、かの大政返上の建白の評議最中であつた。着いた日即ち二十一日眞邊の旅宿に後藤、由比、福岡、眞邊及び自分と集会して、種々と評議を凝らした。眞邊なども別に異論もない様子。自分が国論一定の事などを話すと、後藤等は意外にも大に歓ぶ。

實はこの建白の根源をいふと、高知の漢方医の今井順清といふ男の発案なのだ。医師や町人、百姓は、孰れも勤王家であるが、今井はその俊秀であつたのである。處が西洋医を研究する為に長崎に出で、坂本と往来し、段々話合つて見ると、頗る名説がある。坂本も大に感心して、その説を基礎として、かの八策を作つた。すると後藤が長崎に出て坂本と懇意になり、坂本からこれを話込むと、後藤も目が醒めて来て居る頃であるから、夫は面白いといふ様な工合で、共に上京して大に奔走して居る次第。さういふ譯であるから、その発案者とも云ふべき坂本の意見を聞く必要があるので、同二十三日松本に集会して、建白を修正した後、毛利恭助を連れて、才谷梅太郎[坂本龍馬の変名]石川誠之助[中岡慎太郎の変名]と東山の會々堂に密会した。會々堂は至つて閑静な處で、また凡てが上品な料理家だ。

才谷の意見も別に大した事もなく、自分の意見とまづ大同小異だ。其の時才谷が云ふには、『吾が藩は是迄数回藩論が変じたので、薩藩の疑念も未だ解けない。今回は確乎と目的を定めて、変更のない様にしたい』と、自分が云ふには『夫は御尤もの事。併し此度は時勢も切迫せる上に、後藤始め従来の佐幕家迄も、大政返上の事に熱中して居る。如何にならうとも、騎虎の勢でやる處迄やらなければならぬ場合となつて居るから、何とか十分芝居が出来やうと思ふ。まづその邊は安心あれ』。といふと、才谷が、『何か又芝居が出来るとは名言である。何でも宜いから一ト芝居興行すれば、それより事が始まるであらう』と、この芝居の語は、後に自分等同志の間に盛に用ゐられた。

此夜は恰も大雷雨。これは芝居の前兆であると互に祝杯を交はし、胸襟を開いて談じた。才谷も石川も自分の考と同じく、此度の事に就て主人役となれば、薩藩も必ず信用するであらう。また彼等も之を希望すると共に、引くに引かれぬ場合に至らしむる心算であらう。といふ考を持つて居て、この点は互に警戒を加へて、大に盡力しやうと約した。其の後二三日の中に建白書の草稿も出来上つた。薩の脱藩生たる田中幸助[中井弘。注⑨]もその修正に加はつた。これは後藤が長崎から連れて来たので頗る面白い男。薩人には珍らしい通人の様に思つた。同二十六日愈々草稿を薩芸両藩に送つて、其の意見を問う事にし、同二十八日夕方、芸藩の辻将曹(注⑩)、寺尾精十郎、平山寬助、船越陽之助、小林順吉等と面会して、建白の事に就て種々話して見ると、芸藩では大体に於ては賛成であるが、字句の上に少々異論があるとの事。先づ以て安心した。すると七月朔日薩藩から『建白の趣旨は甚だ御同意である』との返事が来た。一同大に悦んだ。自分とても心中愉快ではあるが、夫と同時に薩藩の智略に感服した。役所から帰りながら由比と『芸藩は些細の事にも異論を唱へたけれども、薩藩は表面御同意御尤もと云うて、我藩を安心させ、裏面わが藩をして重荷を負はせ、一本打たせて、参つたと云はせ、二の太刀で大にやらうといふ積であらう。これ位の大事件に少し位の異議のないのは不審じやないか』などと話合つた事である。夫はさうと、既に薩と妥協したからには一ツ懇親を結ばうじやないかといふ事になつて、翌二日、柏亭へ、小松帯刀、大久保市蔵[利通]吉井幸助[友実]内田仲之助を招待した。西郷吉之助は病気で欠席した。吾が藩からは、後藤、福岡、眞邊、寺村、由比と自分とも六人。互に打解けて酒杯をかはす。後藤が気を利かせて、娘義太夫を呼んで一段語らせた處が、へたもへたで、一同クスクス笑ひ出す。真面目の大久保さへもトウトウ吹出すといふ始末。

正直に云へば、この時分は、かういふ宴会は盛であつたが、茲に困つた事は、福岡が前云うた會々堂に絶えず行つて、酒食に沈湎して居る事だ。後に福岡の妾になつたおかよが、山ねこといふ芸名で、この會々堂へ出入する。自米であるから品格も善い。福岡もスツカリこれに恋着して、昼夜の区別もない位。後藤初め一同眉をひそめて、アレ程では困つた者だ。また佐幕家から攻撃されはしないかと心配するが、後藤はもとより忠告する資格がない。そこで石川が一策を考へ出して、福岡に向つて『おかよは薩の家老の島津伊勢が愛して居る。若し君が行くといふ事が知れたら、必ず後難があるであらう。少し注意したらどうか』と云ふと、そこは家老の権威がある。福岡も驚いて、『イヤ実は知らなかつた。さういふ事なら止めやう』と反省したことがあつた。」】

【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusのよると、中井弘(なかい-ひろし1838-1894)は「幕末-明治時代の武士,政治家。天保(てんぽう)9年11月生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。安政年間脱藩して土佐高知にゆく。後藤象二郎の援助で慶応2年渡英。維新後外国官判事,駐イギリス公使館一等書記生などをつとめ,のち滋賀県・京都府知事となる。元老院議官,貴族院議員。明治27年10月10日死去。57歳。幼名は休之進。号は桜洲山人。別名に弘三。著作に「漫遊記程」など。」】

【注⑩。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、辻将曹(つじしょうそう(1823―1894))は「幕末維新期の政治家。諱(いみな)は維岳(いがく)。芸州藩上士の家に生まれる。ペリー来航を機に家老浅野遠江(あさのとおとうみ)ら改革派と藩政刷新を図るが失敗。浅野長訓(あさのながみち)襲封後は改革派が台頭、1862年(文久2)年寄役となって藩政改革にあたり、2年後年寄上座となる。第二次征長の際、長州藩への寛大な処分を主張、幕府から謹慎を命ぜられた。1867年(慶応3)秋冬の間、薩長芸三藩同盟締結、大政奉還建白の衝にあたり、小御所(こごしょ)会議で紛糾したときは後藤象二郎(ごとうしょうじろう)を説得して王政復古を成就させた。同年12月参与、翌年内国事務判事、さらに大津県知事に任ぜられた。1869年(明治2)功により永世禄(えいせいろく)400石を賜る。1890年元老院議官に任ぜられ、男爵を授けられる。墓は広島市の誓願寺。[頼 祺一]」】

(続。大政奉還に向けての動きが本格化しました。坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されるのが、大政奉還が実現して間もなくの慶応三年十一月ですから、これから五カ月後のことです。二人の短いけれども鮮烈な人生の軌跡が保古飛呂比には記録されています)