わき道をゆく第266回 現代語訳・保古飛呂比 その89

▼バックナンバー 一覧 2025 年 7 月 22 日 魚住 昭

一 八月二十九日、風雨、朝、寝床のままであれこれと才谷と話した。夕方、喜之助が来た。本日は少々病気のため、次々と見舞いに来て、夜、四ツ時(十時ごろ)前に帰った。風雨雷あり。自分の病気は先年、大熱を煩い、それ以降気管が悪くなり、いまだ平癒しない。このたびの船旅も無理だった。夜中、西川易二が藩の御用で来る。西川は藩御用達(の商人)なのでしばしば来る。

一 庄村氏の書簡、次の通り。

口上

(先日は)国歩艱難(国家が直面する困難)の実情や私の心中の思いを吐き出しましたところ、それぞれをお聞き取りくださり、かたじけなく存じます。今日、出発のご報告のため、御次(貴人の居室の次の間=デジタル大辞泉)に参りました。そのとき拝見しました東国事情を、(国許に)帰って、私の主君が上京して吾が藩の「甲東下之議」(※意味不明)、建言の証跡(証拠となる痕跡)にもなるだろうと思いますので、もし難しくなければ、御次で写し取って帰りたく、このことをあなた様のお気持ちを顧みず、お願いします。

八月 細川越中守内

庄村助右衛門(横井小楠門下の肥後藩士・荘村 省三のこと)

口演(口頭で述べること)

一 関東報告を拝借して写し取り、建言の種子にするつもりです。ただちに返還しますので、御本陣さま(この場合は佐々木高行のことか)にしかるべくお伝え願います。頓首。

八月二十九日 庄村助右衛門

一 八月三十日、風雨、二十八日ごろから体調不良だったが、少々よくなった。高橋安兵衛・橋本喜之助が調書を持参、なお清書するよう指示した。太宰府より小澤庄次の変名で戸田雅楽[尾崎三良のこと。注①]が来訪、あれこれ時勢談をした。夜に入って才谷が来た。終夜談話し、(高行の旅宿に)泊まった。種々の談話の末、才谷が言った。「このたびのことがもしならなければ、耶蘇教をもって人心を煽動し、幕府を倒そう」。自分はこう言った。「耶蘇教をもって幕府を倒すと、後々の害があるだろう。我が国体をどうする。自分は神道を基礎とし、儒道(儒学)をその輔翼(助け)にすべきだと考える」。才谷が言った。「今日、このようなありさまではとてもことはならぬ」と。お互いに議論がやかましくなったが、才谷も異宗教を研究したこともなく、自分も神儒の道を深く研究したことがない。互いに議論が果てず、いわゆる盲人の叩き合いのようになり、そのうち深更になったので、後日互いに研究しようと、笑い合って、寝に就いた。ついでに言っておくと、才谷は策略をもって何とかしようと、やむを得ない気持ちからの話であり、それゆえに、あるいは仏法をもってとも言った。自分は国体の上から神儒を主張した。しかしながら互いに勤王のことをなそうという考えであるから、詰まるところ種々さまざまと研究したということである。

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、尾崎三良(おざき-さぶろう。1842-1918)は「幕末-明治時代の官僚,政治家。天保(てんぽう)13年1月22日生まれ。三条実美(さねとみ)につかえ,慶応4年実美の子公恭(きみやす)にしたがいイギリスに留学する。太政官大書記官,元老院議官,法制局長官などをつとめ,23年貴族院議員。大正7年10月13日死去。77歳。京都出身。名は盛茂。幼名は捨三郎。変名に戸田雅楽。号は四寅居士。」】

一 坂本氏の書簡、次の通り。

一 参上するようにとご連絡を受けました。が、私方にもただいま長府・馬関の在番役[赤間ケ関奉行]の者と、そのほか二人ばかり来ております。[ただし昨夜長崎に出て来たばかりとのことです]。土佐商会の仕事のこと、このたびは(契約を)取り定めたいとのことです。何も問題がなければ、(佐々木先生の)お認めの書類をいただきたいと思います。まずはこの件を申し上げます。謹言。

即報 楳(うめ。坂本龍馬のこと)拝

佐々木先生

左右

今日のことは、あえて私からやりたいということではないのです。それはすなわち天地神明の知るところです。ただ(佐々木)大人の病苦をなぐさめようと欲しているのです。(ここに)会する面々は、女隊では[このことは内密のことですが]西川の女二人および胡弓を弾く芸妓、そのほか一人、そしてこれまた有名な芸妓一人、その他には下関の老婆です。今日、みなが集まり次第[ただしこの宴席の予定は四ツ時(午後十時頃)までのつもりですが、あるいは九ツ時(午前零時ごろ)にまでなるかもしれません]、使者を差し向けますので、ただいまより駕籠をお呼びになり、かつ左右調度などをお取り調べなされるがよかろうかと存じます。弊館には弾薬や大小の銃砲を取りそろえておりますので、(佐々木将軍が)一度命令されれば、諸将が雲のように湧き現れ、百万の兵馬をただ意のままに動かすことができましょう。誠慙百拝。

(以下は佐々木高行の追記)ただし坂本の書状は本文のようなものが他にも多い。相互に種々のことを書き送ったものだ。

ただいま長府の尼将軍、監軍の熊野惣助および二人が、私を供にして押し出てきて、わが右軍と戦おうとしています。かぶら矢の音がおびただしく、すでに二階の手すりにまで押し寄せています。別に戦おうとするはずの女軍はまだ来ません。思うにこれは、私が油断するのを待って虚を突こうという計略ではなかろうかと。まず私は先鋒のさらに先に立って、こちらから使いを(佐々木将軍に)送り、「或いは自ら兵に将としてをそふてとりことし来らんかと」(※ 意味不明のため原文そのまま引用)思います。(佐々木)将軍も勇気あり義あるならば、早く来て一戦し、ともに楽しもうではありませんか。まずはこのように急ぎの知らせまで。謹言。

唯今 楳[龍] 拝首

佐々木大将軍

陣下

先刻、(佐々木大兄を)お見受けしました。大兄がお帰りになってから、(海援隊の)援軍壮士三、四人が、ときの声を出し、エイエイと押し寄せています。それに加えて、女軍が、わが本陣を打ち破り、その声は雷のようです。大兄が(この戦に)参加されないのでは、地下(あの世)で会ったときに私にどんな顔を見せられるのでしょうか。その心根を私にお聞かせください。なぜに来られないのでしょうか。お聞かせください。拝首。

楳 拝首

佐々木将軍

陣下

一 私の方から藤屋の空虚を突きます。大兄もそのまま藤屋にとって返すのはどうでしょうか。謹言

即日 龍

[参考]

一 老中の美濃守(稲葉正邦のことか)より通達

このたびの兵庫開港で商社を開設することになったので、融通のため、これから金札を当分の間、通用させるようお命じになった。このため、(金札を)すべて金銀同様通用するものと心得、年貢そのほか諸上納物に用いても構わないので、五畿内・近国ともに差し支えなく通用するようにされたい。もっとも、この札を正金に引き替える際には、商社会所ならびに商社頭取そのほか御用達(の商人)たちの所で引き替えることになっている。引き換えについては歩割り減などが一切ないので、それに違反することがないよう、規則通りに取引をすべきこと。

右の内容を御料・私領・寺社領に漏れなく告げ知らせるように。

[参考]

一 同月、老中の美濃守より通達。

海外諸国へ学科修行または商業のため渡航したい志願者へは、御免の印章を渡す。ついては、印章受け取りの際には、当地においては外国奉行、神奈川・長崎・函館においてはそこの奉行へ、手数料を納めるように。納め方については、印章を渡す際に通知する。

保古飛呂比 巻十八 慶応三年九月

慶応三年丁卯 (佐々木高行)三十八歳

九月

一 この月一日、晴れ、病院に行き、蘭医「マンセヘルドー」の診察を受ける。病院には幕府医師の武内玄庵(注②)・池田謙齋(注③)、大村藩医の長与専斎(注④)等がいた。蘭医曰く。「ただいま養生が大切である。なにしろ世事に苦心するのははなはだよくない。気ままに保養すべし」と。しかしながら今日の時節、とても蘭医の指図を守ることはできない。よって半日は十分仕事に励み、半日は気ままに保養しようと答えた。そうは言っても多忙で、答えの通りにはいかず、少々寸暇があれば保養した。才谷をはじめみんなが深く心配してくれて、できるだけ保養できるよう配慮してくれた。よって、時々散歩などをし、茶屋などに会して子どものように遊んだ。才谷は早朝に帰り、再び来た。喜之助・安兵衛・中島・山崎等が来た。今日また小澤庄次(尾崎三良の変名)が病気見舞いに来て、菓子を持参した。病気のため面会せず。中島作太郎が代わりに面会した。この夜は中島と安兵衛が泊まった。

【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、竹内正信(たけのうち-まさのぶ1836-1894)は「幕末-明治時代の医師。天保(てんぽう)7年生まれ。竹内玄同の子。はじめ父玄同に,のち長崎でボードインらに西洋医学をまなぶ。長崎病院頭取,東京病院準頭取などをへて明治19年宮内省侍医となった。明治27年6月20日死去。59歳。字(あざな)は玄庵。号は麹園。」】

【注③。改訂新版 世界大百科事典によると、池田謙斎 (いけだけんさい。生没年:1841-1918(天保12-大正7))は「維新から明治時代の医師で,日本近代医学の方向を示したパイオニアの一人。新潟県出身。入沢健蔵の次男で,幕府医員池田玄仲の養子となる。緒方洪庵に学び,1862年(文久2)西洋医学所入学。64年(元治1)幕命で長崎の精得館に行きボードインAnthonius F.Bauduinらに学ぶ。68年(明治1)江戸に帰り,政府に用いられ大学大助教,小典医となる。70-76年ベルリン大学に留学。陸軍軍医監(のち陸軍一等軍医正),三等侍医(のち侍医局長)。東京医学校長を経て77年初代東京医科大学綜理,88年日本最初の医学博士号を受ける。98年男爵,1902年宮中顧問官。戊辰,西南,日清の各戦争に従軍するなど各方面で活躍した。執筆者:長門谷 洋治」】

【注④。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、長与専斎(ながよせんさい1838―1902)は「医学者。明治の衛生行政機構を確立した。肥前国(長崎県)大村藩医の家に生まれ、4歳で父と死別、祖父俊達に養育される。1854年(安政1)大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入り、1858年には福沢諭吉にかわって塾頭となる。1861年(文久1)長崎の精得館(せいとくかん)に入り、ポンペに医学を学び、1864年(元治1)大村藩の侍医となり、1866年(慶応2)ふたたび長崎に出て医学研究に従い、1868年(明治1)長崎医学校の学頭となる。1871年に上京し、文部省に入り、同年岩倉具視(いわくらともみ)遣欧使節団に加わったが、途中、別れて欧米の衛生事情を視察、1873年帰国。相良知安(さがらともやす)(1836―1906)にかわって文部省の医務局長となり、1874年東京医学校校長となった。1875年、文部省医務局は内務省に移り、翌1876年に衛生局と改称、長与は1891年まで衛生局長に在任し、その間、医制、創始期の衛生行政を確立し、コレラの予防などに功績を残した。長与の後任には荒川邦蔵(1852―1903)が就任したが、1892年には長与の意中の人、後藤新平(ごとうしんぺい)が衛生局長となり、その政策を推進した。退任後、長与は宮中顧問官、中央衛生会会長、大日本私立衛生会会頭などを務め、衛生行政界の大御所であった。元老院議員、貴族院議員。遺著に回想録『松香私志』がある。[三浦豊彦]」】

一 覚

土州藩

佐々木三四郞

右は六、七年前から毎年、秋冷厳寒の季節になると、咳が出て、胸肺部が拡張する症状が出ている。もしこれが激発すれば呼吸短息、あるいは喀血することがある。それにくわえてこのごろ「聖京屈慢性熱」(?)にかかり、よって前記の症状を発現した。ゆえに病院に来て、私に診察を求めた。これを詳しく診察してみると、気管支の「聖京屈慢性炎」であるので、まず次の治療法を施す。

依蘭苔(エイランタイ。注⑤)煎十二オンス、老里兒水(ラウリン酸のことか。注⑥)二オンス

右を混ぜ合わせ、「毎一字」(※意味がよくわからない)一さじを与え、衣服を暖かく着込み、寒冷凍風や、ことに精神を労する事件そのほかいろんな刺激を受けること、および飲酒を避け、滋養豊富な肉類を食べ、つとめて精神を鼓舞し、養生を要する。そうして常用薬として、

亞刺比亞護謨(アラビアゴム。注⑦)十二オンス、老里兒水一オンス

右の用法のまま、前記の禁戒を守り、謹慎注意するならば、三、四年間にして全快すると思われる。しかし、もしこの戒を犯すときは、ややもすれば肺結節腫に陥り、危険な症状になると思われる。

右の通り、命じられた事柄について、前記記載の通り。

慶応三年九月 日

オランダ海軍第二等医官

長崎精得館(注⑧)執上総督 満私歇兒馬[マンスヘルト]

同総督 竹内玄庵

同総督 池田謙齋

同当直 戸梶俊泉

     雪吹貫陵

     武田玄禮

     吉賀旦菴

     山服玄壽

     谷口秦菴

【注⑤。デジタル大辞泉によると、依蘭苔(えいらんたい)は「ウメノキゴケ科の地衣類。北半球の寒帯に多く、群生する。高さ5~10センチ。暗褐色または淡褐色、表面は滑らかで光沢があり、縁に黒いとげ状の突起がある。生薬しょうやくとして健胃剤に用いる。」】

【注⑥。デジタル大辞泉によると、ラウリン酸は「飽和脂肪酸の一。月桂樹油・椰子やし油などに含まれる。無色の針状結晶。水に溶けず、エーテルやベンゼンに溶ける。界面活性剤に利用。分子式C12H24O2」】

【注⑦。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、アラビアゴムは「北アフリカ原産のマメ科アカシア属のアラビアゴムノキ Acacia senegalの樹液からとるゴム状樹脂。またこの樹脂を出す植物を単にこの名で呼ぶこともある。木は高さ 10m足らずの低木状で,2回羽状の複葉をつけ,葉のつけ根に鋭いとげをもつ。花は白色で,径 1cmほどの球状に密集してつく。樹脂の採取は 12月から4月頃にかけて行う。主要な栽培,生産はセネガルを中心にアフリカ西部で行われ,現在でも重要な輸出品となっている。成分となっている糖およびその誘導体は,アラビノース,ガラクトース,グルクロン酸など。こはく色ないし褐色の固形樹脂状のものとして産する。接着とか液体に粘りを与えるのに用いられ,インキや医薬の粘滑剤,乳化補助剤,糊,捺染染料の混合剤など具体的用途は広い。なお,同属の近縁種 A. laeta,A. sieberiana,A. seyalなどからも同様の樹脂がとれるが品質は劣るという。」】

【注⑧。デジタル大辞泉によると、精得館(せいとく‐かん)は「江戸幕府が長崎に設立した西洋医学校。文久元年(1861)設立の長崎養生所を慶応元年(1865)に改称したもの。のち、長崎医学校を経て長崎医科大学(現長崎大学医学部)となった。」】

一 九月二日、晴れ、早朝、(岡内)俊太郎(注⑨)が薩摩より帰着した。佐々木栄・渡邊剛八・中島作太郎らが来た。それに続いて、才谷も安兵衛・喜之助も来た。俊太郎が帰着したことを西役所に届け出た。山崎直之進が来た。金の用談。安藤鈔之助が来て、小田小太郎の書き取り(供述を記録した文書)を差し出すようにとのことだった。いま小田は大患のため病院にいる。早速俊太郎を遣わして書き取りさせ、差し出した。明朝の八時、運上所へ佐々木栄・橋本久太夫[橋本は他国人である]らを召し連れ、出頭するようにと言ってきた。夕方、才谷の下宿の夷町弘瀬屋に行った。神事につき案内である。先日来、病気なので、保養のため駕籠で行く。長府人熊野直助、軍監泉何某の老尼も来ていた。泉氏は長府人で、故あって去年切腹した。招魂所に祭られているという。渡邊剛八・俊太郎も来会。夜、五ツ半(午後九時)ごろ帰宿した。

この日、

一 袴 一つ

一 羽織 一つ

一 帯 一つ

これらを求めた。代金は三両三朱だった。なにしろ運上所または外国人・他藩人との交際に必要なものなので、大いに贅沢をした。

【注⑨。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岡内重俊(おかうち-しげとし1842-1915)は「幕末-明治時代の武士,司法官。天保(てんぽう)13年4月2日生まれ。土佐高知藩士。坂本竜馬(りょうま)の海援隊にはいり,秘書役をつとめる。明治2年刑法官(司法省の前身)にはいり,司法大検事,高等法院陪席判事などを歴任した。元老院議官,貴族院議員。政友会に所属。大正4年9月19日死去。74歳。通称は俊太郎。」】

一 九月三日、朝五ツ時(午前八時)ごろより松井周助[小監察役として立ち合いに出る]、才谷梅太郎[海援隊長につき立ち合いに出る]、佐々木栄・渡邊剛八・橋本久太夫の三人の取り調べのためである。岡田俊太郎も模様うかがいのために派遣した。正午すぎに一同が帰る。それより榎津町の清風亭に行き、薩摩の小澤庄次らを待ち合わせたのだが、(先方に)差し支えがあった。よって今日、運上所に出た渡邊・佐々木・中島・菅野を呼んで酒を酌んだ。才谷も同伴した。午後八時すぎ帰宿。病中のため近辺でも始終駕籠で往来した。

一 小澤氏の書簡、次の通り。

拝啓、ご病気がおいおい快方に向かいお喜びいたします。ところで、坂本龍馬さまはどこに止宿されているでしょうか。なんともご面倒ではございますが、この紙片にでも(止宿場所を)お書き付けくださいますようお願いします。そのほかのことは今度お会いしたときを期すことにして、(とりあえずの用件は)このとおりでございます。草々頓首。

九月三日 [戸田雅楽こと]小澤庄次拝

佐々木三四郞さま

侍史

一 九月四日、雨、今朝、西役所に出頭するよう言ってきた。病気のため、俊太郎を名代として行かせた。佐々木栄の「著替所」(※着替え所と読むのだろうが、具体的に何を指すのかわからない)のことについて、早速書き取りを使いに渡した。その後、小澤庄次・喜之助・作太郎・梅太郎・周助・安兵衛ら、今朝から代わる代わる来て、話した。夜に入り、梅太郎と内田屋で話した。酒肴料二両一分を費やした。四ツ時(午後十時ごろ)すぎに帰宿した。

一 草野・松田両氏の書簡、次の通り。

手紙をもって申し上げます。お話ししたいことがあるので、即刻当役所へお越しください。このことは(長崎奉行の徳永)石見守に申し付けられました。以上です。

九月四日

草野静馬

松田佐太右衛門

佐々木三四郞さま

一 九月五日、雨、夕方曇り、才谷・野崎・橋本・佐々木・三澤・中島が来て、話しをして、昼食を出した。小澤庄次に手紙を渡す。明日の会議を約束した。野崎・才谷・三澤と産物所へ行き、直に帰宿した。

一 同六日、自分と松井(周助)の二人に西役所へ出頭するよう言ってきたので、行ったところ、戸川大監察[伊豆守こと]、設楽小監察[岩次郎こと]、両長崎奉行の能勢大隅守・徳永石見守が列座した席で、英国人もようやく疑念が晴れたので、両船ともいずれもお構いなしと言い渡された。その際、明日、岩崎弥太郎はじめ横笛船乗り組みの者らに、同船の出帆の手続きのことを奉行より尋ねたいので、出頭するようにと言われた。それから退席した。次の席で安藤鈔之助へ「段々心附」(※何のことかよく分からないので原文引用)を申し出たけれども、承諾しなかった。

一 坂本氏の書簡、次の通り。

お手紙拝見しました。明日、西役所へうんぬんとのこと、早々に(先生のもとに)参上するつもりなのですが、(私は)蒸気船を借り入れ、さらに小銃千挺を入手して、早々に出帆しようと決心しています。その(小銃購入の)ために通訳の者やそのほかの人数をそろえ、今から異人館へ行くところです。今夜、そこから帰り次第、(先生の)お宿まで参上します。謹言。

九月六日

佐々木先生 楳 拝

左右

[参考]

一 同六日、運上所よりの通達、次の通り。

岩崎弥太郎

菅野覚兵衛

橋本久太夫

渡邊剛八

佐々木栄

右の者たちに尋ねることがあるので、明七日の六ツ半時(午前七時ごろ)、麻の裃を着用し、召連人(※目下の者や家来を召し連れる人つまり責任者のことか)に付き添われて、当役のもとに出頭するように。

九月六日

一 草野・松田両氏よりの通達、次の通り。

手紙をもって申し上げます。お話ししたいことがありますので、ただいま早々に当役所にお越し下さい。このことは石見守の言いつけです。以上。

九月六日

草野静馬

松田佐太右衛門

佐々木三四郞さま

松井周助さま

一 安藤・小峰両氏よりの書簡、次の通り。

先ほどお話しした佐々木栄・渡邊剛八の肩書きを替えるにはいろいろ手数もかかり、時間もかかって延び延びになるため、とりあえず一同の肩書きを記さずに通達しましたので、書面の刻限に一同を連れてきていただくように。また、前述の両人(佐々木栄と渡邊剛八)が土佐守殿のご家来という肩書きになると、越前家の暇を受けて、御藩(土佐藩のこと)へお抱え入れという訳か、またはそのほかの趣意か、いずれにしても越前家の暇を受けた手続きを捨てるわけにはいかないので、そのことをとくとご考慮のうえ申告なさるようにしたいと存じます。もっとも、詳しいことは明日、お会いしたうえでのことにしたいので、その際に肩書きをどうするかお知らせくださるように。このことを申し上げておきます。

九月六日

安藤鈔之助

小峰利五郎

佐々木三四郞さま

一 九月七日、(岩崎)彌太郎が病気なのでその代理として森田晋三が出頭、横笛船の乗組員も出頭した。取り調べに手間取り、夜に入って一度、一同が帰宿した。それからさらに詮議したところ、佐々木栄の「聞取不束」(虚偽の申し立てをしたという意味か)に決まり、それに伴い、彌太郎も不行き届きがあったということに決まったので、彌太郎は(病気を)押して出頭し、奉行にそのこと(つまり不行き届きを認めて、恐れ入ること)を申し出た。ついては菅野覚兵衛・渡邊剛八も恐れ入るように奉行より言い聞かせたが、(二人は)恐れ入りを申し出るわけがないと言ってお受けせず、大いに議論となり、徹夜になった。その夜、一同が内田屋で酒肴を用意して待っていたが、そのような次第で(二人は)帰って来なかった。

一 次の坂本の書簡は、英人暗殺の嫌疑に関して奉行所で調べがあったときに書かれたものである。

ただいま戦争が終わりました。ただ、岩彌(岩崎弥太郎)・佐栄(佐々木栄)はかねてご案内の通りに、兵機(勝つチャンス)がないので、余儀なく敗走に及びました。しかし、ただ菅(菅野)・渡邊の陣だけは、敵軍があえて近寄ることができず、ただいま一かけ合わせするつもりです。彼らなら当たるところの敵は降参するでしょう。ひそかに思いますに、富国強兵、かつ雄将の働きにより、東夷は皆「イウタンヲ落シ申サント」(※よくわからないのだが、勇胆を落とす、つまり戦う気力をなくすという意味かも)と思います。

九月 楳 拝

佐々木先生

一 同八日、昨日の件がいまだ落着せず。ようやく夜の五ツ半(午後九時)ごろ、一同が役所からひとまず帰ってきた。内田屋で一同に酒肴を出し、慰労した。

(続。坂本龍馬からの手紙の訳については宮川禎一著『全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙』教育評論社刊を参考にさせてもらいました。ありがとうございました。助かりました)