わき道をゆく第267回 現代語訳・保古飛呂比 その90
一 土佐への書簡、次の通り。[この書簡、日にちが不明だが、あるいは八月末日か、九月早々のものではないだろうか。しばらく判断に迷ってここに収めることにした]
一筆啓上します。まずもって、
皆様ますますご機嫌よく、お互いに恐悦至極でございます。さて、(当方は)さる十五日夕方、長崎に入港し、すぐに上陸して、だいたいの模様を聞きましたところ、海援隊などには決して疑わしい者はおらず、(濡れ衣を着せられて)一同がいきり立っている状態でした。何にせよ御国(土佐)の者では決してないと誰もが言っています。しかしながら、もとより証拠のないことなので、いかんともしがたいのですが、種々の手を尽くして、しきりに探索はいたさせました。その結果、御国の者ではない見通しがほぼ立ちましたので、まずまず安心しました。ところが、くだんの横笛船が出帆したことについて、そのことで異人より不審を申し立てたようでしたが、この横笛船の出帆についてはいろいろ事情があると海援隊より申し出ました。これについては、いささか手順違いのこともあるようなのですが、いずれにしても右のような事情があるので、至急呼び返すよう、強いて異人より申し出てきましたので、同十六日、松井周助・岩崎弥太郎の両人に鎮台(長崎奉行所)の大小監察より指示がありました。初めは(奉行所は)僕をお呼び立てになったのですが、少々体調不良のためお断りを申し出たところ、右の両人を出頭させるようにというお沙汰になったのです。もっとも、先だっての出帆の際、早速呼び返すように命じられたので、急ぎの飛脚を出して呼び返しましたと彌太郎が申し出たところ、このたびは蒸気船を現地に送って呼び戻すようにというお沙汰でした。しかしながら、(才谷)梅太郎の留守中の海援隊を差配する渡邊剛八・菅野覚兵衛の両人と、そのほか中島作太郎という者が横笛船の一件をことごとく引き受け、疑いを晴らすつもりでいて、何にせよ事情を詳しく知っているので、横笛船を呼び返すまで日を空しく過ごすよりも、一同で出頭して、幕府役人の列座の席で、英人立ち会いの上で談判すればよろしかろうと話し合って、そのことを奉行所へ申し出ました。今日の八ツ時(午後二時ごろ)より運上所へ一同が出頭して、大小監察、奉行、英人らも出席の上で談判することを約束しました。そのうえで、是非とも横笛船の乗組員たちを呼び返さないと、疑念が晴れないというのであれば、幕府の船に誰か乗り組ませ、右の横笛船乗り組みの者を入れ替わりで呼び返すということも申し出ておきました。「委細之義は申取り兼候」(※よくわからないのだが、あるいは、これ以上詳しいことは聞いていないという意味か)。いずれにしろ談判のやりとりは手紙に書いて、そのうち送ります。今日の談判のことについて、昨日出勤して平山(外国奉行)ならびに大小監察、長崎奉行の列座の席で、いろいろと応答しましたところ、ことのほかご心配のご様子で、諸事丁寧でした。これはいまの幕府のなされかたでありまして、議論をさせぬようにする取り扱いと察されます。
九月 佐々木三四郞
一 同九日、海援隊のことについて、いろいろ取り調べることがあり、才谷らと藤屋に集合した。
一 同十日、今日の八ツ時(午後二時ごろ)一同が出頭したところ、いよいよ佐々木栄・岩崎弥太郎が不束(ふつつか。注①)に決まり、菅野覚兵衛・渡邊剛八がお構いなしというお達しを受け、退出してきた。さらに自分・梅太郎の両人が出頭したところ、なおこのたびのことを老中に伺うので、一同はひとまず帰国するようにとお達しを受けた。至極条理にかなっているので、お受けして退出した。右の英国人事件について、明日の十一日に会議をし、これまで無実(の嫌疑)のために大いに迷惑を受け、土佐守はじめ土佐藩全体が心を痛めてきた。それについて、事実無根の風説により英公使は土州人と確信し、幕府も同じ取り扱いをされたのはどういうことか、などいろいろ不審な点を文書で申し出ようと相談の結果、決まった。内田屋で祝い酒を酌み交わした。
文書は近いうちに奉行所に差し出す。草稿は才谷の筆である。十一日の項にある。
【注①。精選版日本国語大辞典によると、不束は「「江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つ。叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合には「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。」】
一 由比氏よりの書簡、次の通り。
お手紙が届き、拝見しました。まずもって皆さまご機嫌よろしく、お互いに恐悦至極と存じます。さる十五日に首尾良く長崎に着かれたとのこと。まことに病中のところをとりわけご苦労と存じます。横笛船も抜け駆けをして(長崎港に)居合わせず、ご心配のことと察します。これは幕府側の手抜かりと、我が方の関係者にも落ち度があるのでしょうか。先日の様子では、既に乗組員のうち二人ばかりの名前もわかり、不審点があるようなので、厳しく真相を解明すべきだと思っているところなのに、どういうことでしょうか。合点がいきません。(横笛船の)抜け駆けということになれば、ますます疑念を受け、まことに公然たることにならず、非常に具合が悪いことになると察します。海援隊には、疑いもなくそのなかに横笛の事情を心得ている者がいて、ともに談判するつもりだとのこと。誤解が解ければ問題はないでしょうが、なにぶん横笛を呼び返さなくてはすまないだろうと思います。その後のことは時々お知らせ下さい。御国でも、この後またまた「ミニストル」(英国公使)などが出てくるかもわからず、その際に事の始末手続きを聞いていないと、応対に難渋するだろうと、心配なのです。先だってより大洲(伊予国)の方へ探索のために人を派遣していますが、まだ帰ってきません。最早近日中に帰り、模様が分かればすぐさまお知らせします。御国でもこの事件の心配はしている旨を「サトー」に伝えておいてください。(後藤)象二郎も先月二十五日、乗船しましたが、折りから天気が悪く、南海は非常に波が高いため、出帆できず、三、四日、(港に)滞船して、三十日ごろに出帆しましたので、すでに大坂に着いているはずです。そこから最早京都に出て、大事件の事始めになっているかと思われます。その場合は、(貴兄は)遠からず長崎を出ることになると察します。とはいえ京都も模様変わりしていて、宇和島候(伊達宗城)も帰国され、薩公(薩摩藩主・島津忠義のことか)も大坂まで引き取り、これは水気(体がむくむこと)なので保養のためということです。原市之進(注②)も切られたとのこと。種々変動もあるでしょうが、高知の方はまず変わりはないとのことです。格別お知らせする事件も聞こえてきませんので、追々手紙を書きます。
一 大極丸殺害の一件(慶応三年七月、神戸港に停泊中の帆船・大極丸の水夫が起こした殺人事件。大極丸は海援隊が航行していた)は難しいです。町奉行とやらの手に扱いになり、終いに下手人とかは出奔させ、船は長崎に乗り込ませたと、(福岡)藤次より言ってきました。詳しい事情が分からぬまま(下手人を)出奔させたのは、かえって疑念を受けるきっかけになるのではないかと小生などはかえって気遣っているほうです。船を(長崎に)廻した後は委細ご承知になるだろうと思います。なにぶん幕府が浪士に目を付けている時節なので、海援隊・陸援隊をはじめそのほか帆船乗り組みの者たちの取り締まりや「唱方」(※意味がよくわからない)などは最も用心すべき事と存じます。やがて取り扱いがたきことにならなければいいがと気遣っています。他藩の脱藩者などを近づけておくのは、最も不具合なことなので、そちら(長崎)でもご心配の事柄があるだろうと察します。申すまでもなく、都合良く取り計らってください。
一 御国の政府もまず相変わらずで、いろいろ世間の物議はありますが、まずそのまま動揺の気遣いはありません。京都に行く大監察は神山と決まり、すでに命じられています。(京都の)お留守居役は寺田典膳です。「是も些異論を所持したり」(※これもいささか異論を持っているという意味だと思うが、よくわからない)。白川入りの浪士などは最も世間で論義があり、「高は腹のはりかねたること故」(※よくわからないのだが、つまるところは食い扶持が不足していることなので、といった意味かも)いろいろ不具合があります。お察し下さい。象二郎などが(京都に)行きますれば、またよい策も出るだろうと存じます。幽囚(※よくわからないのだが、あるいは獄中にある勤王の志士のことか)も少しずつお許しになっています。ほかに特段のことはありませんので筆を擱きます。引き続いてのお手紙を待っています。詳しいことをお知らせください。以上。
九月十日 由比猪内
佐々木三四郞さま
なおなお季節の変わり目にお気をつけ下さい。小生も変わりなく勤めています。当節の「大つき[ママ]御察」(※意味不明)、早く切り上げて、ご帰国されるのを待ちかねています。
(以下は佐々木高行の追記)それに関連して言っておくと、白川入り浪士うんぬんは、今年の七月、幕府が対馬人の立花某を下宿で捕縛した。よって幕府より嫌疑のある者は市中の下宿では不安心だといって、石川誠之助(中岡慎太郎のこと)の請求により、石川を頭取として浪士を土佐藩の下屋敷の白川に移した。このことに僕は最も関わっている。大監察であるためだ。由比も参政として関わっている。しかしながら藩において異論がしきりにあった。
【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、原市之進(はら-いちのしん1830-1867)は「幕末の武士。文政13年1月6日生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。会沢正志斎(あいざわ-せいしさい),藤田東湖にまなび,のち昌平黌(しょうへいこう)にはいる。帰藩後は弘道館訓導。一橋慶喜(よしのぶ)につかえ,慶喜が将軍職につくと目付となり,兵庫開港をとなえ,慶応3年8月14日部下の幕臣に暗殺された。38歳。名は忠敬,忠成。字(あざな)は仲寧(ちゅうねい)。」】
一 九月十一日、早朝より昨日評議した文書の作成をさせていたところ、土佐商会から山崎直之進が慌ただしく駆け込んできて言った。今朝、諏訪神祭なので、下代(下級役人)の島村雄二郎・田所安吾の両人が波止場へ神輿を見物に行く途中、外国人二人とやりとりをし、ついに雄二郎が両外国人を傷付けました。この外国人は米人一人「ジョージアンデルソン」、英人ひとり「エドワードワルレン」ということがわかりました。それについて土佐商会で評議したところ、隠密にして、早々に雄二郎・安吾は帰国させるようにしたいということになり、このことをお届けしますということだった。よって、その席に居合わせた者のなかで種々の議論が起こり、岡内俊太郎は、日本刀を帯びている以上は、その外人へ申し込み、討ち果たさせるべきだと力み立ち、あるいはそれに同意の者もあった。または、穏便な処置をすべきだという者もいた。土佐商会よりは、岩崎弥太郎はじめ是非とも跡を隠すようにしたいとしきりに申し出て議論紛々とした。そのうち才谷ととくと相談をして、これまで英人暗殺につき、嫌疑がはれたのであるが、このたびのことを隠しておいて、他から露見したときは、(英人暗殺の件も)前の状態に立ち戻り、どのような難事を引き起こすかもわからない。結局、今日のことは相手の乱暴が原因であるなら公然と届け出たほうがよいと決断し、土佐商会の大不服をたたき伏せ、ようやく四ツ時(午前十時)ごろ西役所へ届け出た。また米英領事館へは由比畦三郎をやって通知した。奉行は大いに喜び、先刻から英米領事より厳しく言ってきたので、探索に百方手を尽くしていたのだが、公然と届け出て来られたのでまことに安心した。詰まるところは相手の乱暴であって、こちらには十分条理があるので、談判もしやすい。もしも隠しておいて、後日露見すれば、たとえこちらに条理があっても、その隠したところが不条理になって、はなはだ困難なことになったと思うので、満足の至りだとのことだ。また英領事もことのほか喜び、これまで貴国人が外国人を害したとき、いつも隠して逃げていたので、わが国の人間をはじめ外国人一般ははなはだ感触が悪かったのだが、このたびのように公然と通知があったことは両国の交際上、ことのほか親密の印となった。十分に(事件の真相を)取り調べるつもりだと答えた。「由比畦三郎が帰ってからの話」
一 長崎奉行あてに差し出した文書の控え[坂本龍馬の草案」、次の通り。[十日の項を参照]
丸山にて記す。このたびの英人殺傷事件につき、上様の御書類によって御名(土佐藩主の名)へ遣わされ、すなわち平山圖書頭・戸川伊豆守・設楽岩次郎が土佐にやってきて、その際に英国軍監も土佐に来航してお調べになりました。なおまたこの長崎においても、しばしば談判の席に加わり、今日に至ってようやく嫌疑が晴れ、一同安心しております。しかしながら、この件は英人らの道路雑説をそのまま聞いただけのことです。こちらから疑念の筋を申し上げたところ、前記のように(無罪に)立ち至ったものですが、何らの証拠もありませんでした。今後も外国人の横死があったときには、自然と弊国(土佐)に嫌疑がかかって、たびたび同じような取り扱いを受けることになっては、弊藩の頑固固陋の人心は深く心を痛めます。なにとぞこのたびのことは、こうまで重大なお取り扱いになった以上、御名(土佐藩主の名)をはじめ、国中の人民においても、一同が感服するようなお沙汰をお命じになられるようにお願いします。
右の趣、宜しく○○○[欠字]以上。
九月 日
これを書き終わって枕辺に押しやるころ、門を守る犬の声には夜の深さを感じ、鳥の声がここかしこに聞こえるので、時計の針は寅(七ツ時。午前四時ごろ)から卯の刻(六ツ時。午後六時ごろ)の近くを指している頃かと。
一 同十一日、田所・島村の件につき、奉行所への届書は次の通り。
覚
田所安吾
島村雄二郎
右の者どもは今月十一日未明、波止場のあたりに行き、帰路、江戸町において、外国人二人が遊女らしき者四、五人連れでやってきて、右の女のうち一人を差し押さえ、荒々しい扱いに及んだので、見るに忍びがたく、雄二郎がその傍に止まって、手を振り制止したところ、(その外国人は)女を放し、携えていた杖をもって猥りに打ちかかってきたので、あくまで身をかわしたのですが、ついに顔を打擲されたため、やむを得ず帯剣をもって防いだところ、その剣先が相手の胴に当たったので、その相手は逃げ去りました。もう一人も同じように打ちかかって来たので、これまた防ごうとした剣先が顔あるいは手に当たったため、その者は逃げ去りました。しかしながら、もともと何らの恨みなき者なので、そのまま引き取った旨を申し出ましたので、なお詮議をしたところ、前記の通りに相違ありませんのでこのことをお届けします。以上。
九月十一日
松平土佐守内
佐々木三四郞
一 同十一日、英コンシュール館(英国領事館)での取り調べを記した文書、次の通り。
エトワルト、ワルレンの尋問
「コンメルシヤルホテル」[宿屋の名]の主人「ミストル、ワルレン」の兄弟「エトワルド、ワルレン」という者は次の通り申し述べた。
今朝六時ごろ、出島の近くの江戸町で英[ママ]国人「ジョージアンデルソン」とともに、日本の店に立ち寄って、麦酒を買い、「ジョージアンデルソン」は余より先に店を去り、余が店から出たとき、「アンデルソン」は一人の女子に向かって話していた。「アンデルソン」は余より十五ヤード[一ヤードは我が三尺に当たる]離れたところにいて、余が来るとき、右の女子は去っていた。「アンデルソン」はまた二、三歩進んで、両刀を帯びた日本の士官一人に遇い、余がそこに来たときは二人とも日本語で話していたが、「ジョージ」の方から初めて発言したか、または日本人の方から先に話しかけたのか余は知らない。そのときに余は日本人が刀の柄に手を掛けて抜こうとする様子を見て、すぐにその側に近づき、刀を抜くべきではないと言って、余の手でもって彼の手を押さえたが、(日本人は)これを突き放し、刀を半ば抜いたので、余もまた杖を振り上げ、危ないと言って逃げ去ろうとしたところを、一刀にて余の右腕を切った。余はこの一刀を受け、町を下ること二十五ヤードないし三十ヤードにして、後ろを振り返ると、「ジョージ」はまさに杖でもって日本人の切り掛かろうとするのを防ぐところだった。そのため彼を救おうと思い、後ろに立ち戻って四、五十ヤードのところに行ったとき、日本人はすでに「ジョージ」の頭の右側を切っていた。そのとき「ジョージ」の言うのを聞くと、余は頭を切られた。余は落命するだろう。余は回復することはないだろうと言った。こうして日本人は逃走したので、余が言ったのは、ともに(日本人を)追いかけて見つけ出せるかどうかやってみようと、「ジョージ」の先に立って走ったのだが、右手の第一番の角より、日本人の入るのを見たが、それより後は行方知らずになった。「ジョージ」が言うには、余らはともに帰ろう、余は家に着く前に死ぬに違いないと。
「エーワルレン」がここに印を付けた。ただし同人は腕をきられたので、筆をとることができない。余の頼みにより「エドワルド、ワルレン」は余の前で右の内容を述べた。ただしこのときに「アンデルソン」は疲弊して、ものを言うことができなかった。
マルキュス フローレス
一千八百六十七年十月八日、長崎において[我が九月十一日に当たる]
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
一千八百六十七年十月八日、長崎ブリテン(不列顚)の領事館(コンシユル館)で
余の前において
マルコス フローエル
ジョージ、アンデルソンの取り調べ
元サラ船(?)の第二等手伝い士官で、現在帆前(洋式帆船)の製造方である「ジョージ、アンデルソン」、年齢二十八歳、は次の通り申し述べた。
今朝六時ごろ、出島に近い江戸町で、日本の店に立ち寄り、麦酒を買って店を立ち去ったとき、日本の一女子を見て、どこに行くのか尋ねたところ、市中のある場所に行くと言ったが、余はこれを理解することができなかった。この女子が去るとき、帯刀した日本の士官二人が余のところに来た。そのうちの一人が余に向かい、日本語で何か言ったが、余はこれを理解することができなかった。余もまた英語で銘々の職分を顧みるべきだと言ったが、その日本人は刀に手を掛け、半ばこれを抜くとき、「ワルレン」が傍から「お前はそれを抜くか。気をつけろ」と言った。日本人は余の方へ向かって来たので、これを押し返したところ、すぐさま刀を抜いて「ワルレン」に向かい、その腕を切り、さらにその刀を返して余に切り掛かってきた。そのため余は杖と腕でこれを防ぎ、左腕の臂のあたりに傷を受けた。このため余は逃げ去ろうとして二三歩退き、後ろから日本人が来るかどうかを見回すうちに、左臂にまた一刀を受け、日本人は逃走した。余はこれを少し追いかけたが、右の者は日本人の家に入り、その姿を見失った。そのときに余は腕と鬢より出血も多いので帰宅した。
ジョージ、アンデルソン、ノラトン
[参考」
一 読売新聞[明治二十七年五月五日、第六千三十四号]に次の通り載っている[旧幕の外交談と題して]
[前略]ところが長崎で英国水兵二人が殺傷される事件があって、相手は土州藩の所有船・胡蝶丸の乗組員だという理由で、英国公使は幕府を介せず直にその軍監を土州に派遣してこれを詰問しようとした。幕府はまたその間にあって、これを処置しようとし、ついに幕府の重役がその軍監とともに土佐に行き、この事件の処分を行うという議論が熟したので、例の朝鮮使節の任を受けた外国奉行平山圖書頭[省齊こと]は、まずこのことを処理すべきだと命令を受けた。そのため平山は高知に行き、土佐藩主に面会して、そのことを議論し、その犯人を捕まえて、これを出させるべきだという答えを得て、ただちに長崎に行き、長崎にあるその藩の艦長に、その命令を伝え、それよりすぐに対馬に行き、副使の古賀がその地に来るのを待って、ともに朝鮮に渡ろうとしたが、将軍の政権返上のことがあったため、江戸に帰来した云々。
(以下は高行の所感)右は事実に相違するところがある。
一 九月十二日、今日、(島村)雄二郎・(田所)安吾が奉行所で(事件の)経緯を申し出る。八ツ時(午後二時ごろ)より運上所で対決するはずだったが、(奉行所から)延引の旨を言ってきた。今日も議論紛々、もし奉行より両人を留め置くか、甚だしい場合は入牢などを申し付けられれば、そのままにはできぬ、決して渡さぬ(という意見が出て)、それよりいろいろ枝に枝を生じ、やかましいことである。また証人を出すことになったので、昨日来、手を尽くしているが、外人を恐れてか、または関わり合いを嫌ってか、証拠が得られない。ようやく一人、年少の者が出てきた。また、丸山の娼妓を出すことになった。
このたびの事件の起こりは、以下のようなことだ。諏訪神祭はすこぶるにぎやか行事で、十日より神輿が波止場に神幸し、一夜同所で滞輿する。明け方から波止場へ参詣人がおびただしくある。このため、丸山の娼妓が三、四人連れで参詣の途中、ひどく酔った米英人らと遭遇した。米英人らが娼妓を捕らえたので、娼妓らは大いに恐れ、助けを乞うた。そこへ雄二郎・安吾も通りかかったので、雄二郎が手をもってノウノウと制したところ、相手は大いに怒り、二人とも杖で雄二郎に打ちかかった。なかなかの大男で激しく攻めてきたので、雄二郎はやむを得ず抜刀し、防禦した。その拍子に英人の腕を切り込み、米人の額に傷を付けた。英人は深く切り込み、米人は薄手(傷が浅いこと)だった。二人とも恐れて逃げ去ったという。
右の詳しいことは文書にし、藩庁へ報知した。
一 九月十三日、今日も対決のはずのところ、延引となった。
長崎の景況などを知らせるため、近日、岡内俊太郎(注③)が帰国の予定。才谷梅太郎も同じ船で上京、かつ内密に御国(土佐)に立ち寄る予定。それに関して、英形[ママ]ミネー銃(ミニエー銃。前装式ライフル銃)千挺を求め、(土佐藩に)廻すはず。右の代金がないので、手付けとして五千円を渡した。この金は才谷の周旋で、薩摩藩邸より大阪に送る為替金を借り受け、大阪で返済する約束で、自分と才谷の両人で証文を入れ、借り受けた。小銃買い入れの周旋は陸奥陽之助(注④)である。合計一千二百挺のうち二百挺は陸奥へ譲り渡すことになっている。(注⑤)
【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岡内重俊(おかうち-しげとし1842-1915)は「幕末-明治時代の武士,司法官。天保(てんぽう)13年4月2日生まれ。土佐高知藩士。坂本竜馬(りょうま)の海援隊にはいり,秘書役をつとめる。明治2年刑法官(司法省の前身)にはいり,司法大検事,高等法院陪席判事などを歴任した。元老院議官,貴族院議員。政友会に所属。大正4年9月19日死去。74歳。通称は俊太郎。」】
【注④。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、陸奥宗光(むつむねみつ。1844―1897)は「明治時代の外交官、政治家。天保(てんぽう)15年7月7日、和歌山藩士伊達宗広(千広)(だてむねひろ(ちひろ))の六男として生まれる。宗広が藩内の政争で失脚したため江戸に出て苦学、安井息軒(そくけん)などに師事。やがて尊王攘夷(じょうい)運動に身を投じて坂本龍馬(りょうま)を知り、1863年(文久3)ともに勝海舟(かつかいしゅう)の神戸海軍操練所に入った。同所が閉鎖されると龍馬に従って長崎で亀山(かめやま)社中を結成、海運・商業に従事、このころに陸奥陽之助(ようのすけ)と称した。1867年(慶応3)には龍馬の下で海援隊に入って活躍した。明治維新とともに外国事務局御用掛に登用され、兵庫県知事などを経て和歌山藩の藩政改革を担当。渡欧後、政府に復帰して神奈川県知事となり、1872年(明治5)には租税権頭(ごんのかみ)に任じられて地租改正を建議した。1875年元老院議官となる。1877年の西南戦争に呼応した土佐立志社の挙兵計画に加担し、1878年に拘引され、免官、下獄した。1882年出獄後外遊、1888年駐米公使となり、メキシコとの間の最初の対等条約締結に成功した。第一次山県有朋(やまがたありとも)内閣に農商務大臣として入閣、最初の議会で政党工作に努め、続く松方正義(まつかたまさよし)内閣にも留任したが、選挙干渉問題をめぐる政府の責任を追及して辞任した。枢密顧問官を経て第二次伊藤博文(ひろぶみ)内閣の外務大臣となり、イギリスとの間で条約改正交渉を進め、対外硬派による反対を抑えて1894年7月日英通商航海条約の調印にこぎ着け、治外法権の撤廃に成功した。さらに朝鮮で東学党の乱(甲午(こうご)農民戦争)が起こるとただちに出兵を決定、8月日清(にっしん)戦争に突入した。1895年伊藤首相とともに全権として講和条約に調印したが、三国干渉を受け、遼東(りょうとう)半島の還付を決断した。戦争中から持病の肺結核が進行し、1896年5月外務大臣を辞任した。この間1895年に伯爵となる。その後、竹越与三郎(たけごしよさぶろう)に雑誌『世界之日本』を編集させ、匿名で寄稿したが、明治30年8月24日没した。回顧録に『蹇蹇録(けんけんろく)』がある。[宇野俊一]『『蹇蹇録』(岩波文庫)』▽『陸奥広吉編『伯爵陸奥宗光遺稿』(1929・岩波書店)』▽『萩原延壽著『陸奥宗光』上下(2007~2008・朝日新聞出版)』」】
【注⑤。この銃の購入については『佐佐木老候昔日談』に詳しいのでそれを引用しておく。「時勢が切迫して、上国にては何時干戈を交ゆるかも知れぬ。国許では乾が精鋭なる銃隊を組織してはあるが、兵器は大に不足を告げて居る。他日出兵といふ場合は到底間に合はぬ。自分はどうかして之を整へたいと思うた矢先、英形ミネ・・・・銃が到着したと云ふ事を聞込んだ。才谷(坂本)も是非之を購入したいというて、自分に相談して来たが、生憎役場にも商会にも余裕が更にない。處が九月十三日、才谷が薩邸から大阪へ送る為替金があることを聞いて、知らせて来た。で『速に夫を借りやうじやないか。一ツ骨を折つて呉れぬか』と云ふと、快く承諾し、薩邸へ行つて、汾陽次郎右衛門等に相談して、其中五千両を借用し、大阪に於て返済の契約をして、自分と才谷と二人で借用証を入れた。其購入方は才谷から陸奥陽之助[後に宗光、伯爵]に命じた。陸奥は翌十四日蘭商ハツトマンの所へ行つて、ライフル千三百挺、代価一万八千八百餘両で購入の約を定め、手附として四千両を渡し、他は以後九十日間に支払うことを定めた。其中百挺は商人に渡し、千二百挺受取つて来たが、尚陸奥の依頼を容れて、二百挺を其同志の準備の為め譲り渡すことにして、千挺だけ整へた。實は自分は長崎の談判事情報告のため、岡内を帰国させる積りであつたから、此小銃を内々本藩に持たせてやらうとしたのだ。才谷も上京の途次立寄る筈なのだ。併し国許も俗論党が多い事であるから、之を拒むかも知れぬ。唯々其邊が心配である。で土佐行の事や、また上京後の方策など種々相談した。マア岡内が藩政府の形勢を見て、いかぬといふ様であつたら、渡邊、本山あたりに内々申立てた方が宜からう。勿論此小銃に就ては、自分が責任を帯びては居るが、さうすると却つて六ケしい。色々物議を引起して不成功に了るかも知れぬ。依つて表面才谷の名義にし、才谷が天下の形勢を慮つて持つて来たといふ様にした方が妙であらう』と、かう策を定め、一方藝藩の震天丸が大阪に行く序に、土佐に寄つて呉れる様に交渉して置いた。十八日になると、未明才谷は自分の旅宿に来て、尚相談残りの分を相談し、また別に自分から、之に関して渡邊等にやる密簡をば岡内に持たせてやる。朝日の東天に上る頃、岡内、才谷、山澤庄次[戸田雅楽]、菅野、陸奥、中島等一同乗込む。自分は之を波止場迄見送つた。才谷とは、此訣別が即ち永久の別であつたのである。戸田は八月三十日三條公の使命を啣み、時勢視察として上京の為め自分の所へやつて来て、『行路の便を計つて呉れ』といふ。『承知した。近日才谷も上京するから、暫く滞在して、御一緒にしては如何』と、丁度才谷も来て居たので、夫を話すと『宜しい』といふ。戸田も喜んで時勢談をして帰り、其後今日迄滞在して居たのだ。自分は後に残つて、国許の成否などを心配して居る。久しく消息もない。そこで、
思ふことありて
夷人とあらそふ事もよしやただ
心にかへる土佐の波風
土佐の海波しづけきや此ころは
たえてたよりも長崎のうら
松の森にて
名にし負はばまつに甲斐あれ松の森
吹きおとづれよ土佐の山風
其中に岡内から書翰が来た。其書翰や、才谷からの書翰、並に其後之に関係した戸田、中島、本山等に聞く處に寄ると、二十日才谷等は馬関に着した。其時一汽船の煙を挙げて東航するを見て、才谷等も大に不審した。すると才谷が丁度伊藤俊輔[後に博文、公爵]が京都から帰って来たのに會うた。伊藤は京都の形勢を告げ、また其汽船に就て、『實はアレは薩摩の船で、大久保市蔵[後、利通]が下の関に来て、長藩の木戸と謀り、長藩幷に末藩の岩国長府清末の兵は下の関に集合し、薩兵は小倉に進んで、時機を待つて、緩急事に応ずる約束をして帰ったのだ』と云ふ。で才谷は大に本藩を鼓舞して、事を京師に共にせん事を話し、新式小銃を準備した事情を打明けると、伊藤は『其準備夫は頗る結構であるが、若し貴藩が因循で、之を採用しなかつたならば、直に此處に回航すれば、我藩で譲受けることに取計らはう』といふ。此伊藤の一言には、岡内も才谷も大に激励されて、『たとへ本藩で容れなくとも、何でオメオメ長藩に持参することが出来やう。一死を期して成効させやう』と誓つた。薩長の計画は着々進行して居るに引替へて、本藩は因循である。最早一日も猶予は出来ぬ。といふので、岡内、才谷、中島等は急ぎ同所を出帆した。陸奥と菅野は京師に上らせ、小銃二百挺を分与して變に備へしめた。岡内等は十月二日浦戸港に着して、形勢を探ると、佐幕勤王の反目は愈々激烈である。才谷や中島は脱藩の身であるから、公然上陸は出来ない。岡内の周旋で、一旅人の風をして種崎の旅店に潜居し、岡内は直に藩庁に出て、長崎の事情及び談判の顛末を報告して、庁内の形況を窺うに、頗る不穏である。才谷の事はもとより、新銃の事も軽忽に切り出したならば、却て臍を噛む懼れがあると見たから、其儘黙して退出し、更に才谷等と熟議の上、自分の書翰と前に云うた木戸の手紙を持参し、仕置役渡邊彌久馬、大目付本山只一郎の私宅を訪うて、天下の形勢を述べ、才谷が窃かに本藩の為に心を摧いて新銃を齎して来たといふ事を告げ、尚才谷に面会して、直接容易ならざる時勢を詳しく御聞取を願ひたいと云ふと、渡邊も本山も同志の事であるから、速に承諾し、翌日の夜松ケ端の茶店に於て、渡邊、本山並に森権次、岡内、才谷と密会し、才谷から京都事情の切迫薩長連衡の計画を説き、速に藩論を一定して薩長と事を共にせん事を勧め、其準備ある可きを慮つて、新銃を購入して来たが、之は長崎藩邸から大阪同邸に送る五千両を借りて購入したのだ。幸ひ軍用の缺を補ふ事が出来れば、此上ない事であるが、若し不用とならば長藩の伊藤が是非廻航して呉れる様にとの事であつたといふと、渡邊等は元来同志であるから、薩長と同心協力することに賛成し、小銃も藩にて勿論受取る様にしやうと、そこで三人が携へて来た土佐の白酒を飲みながら舊を懐ひ新を断じて、深更に及んで別れ、夫より吸江の小寺に於て密話を遂げ、渡邊等の盡力で藩論を挽回して遂に之を購入した。
夫からまた岡内は、渡邊等の盡力で、才谷と共に上京する事となつて、同五日浦戸を発して、十月九日京都に着した。」】
(続。毎度のことですが、誤訳がいろいろあると思いますので、引用・転載はご遠慮下さい。また坂本龍馬関連では宮川禎一著『全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙』教育評論社刊を参考にさせてもらいました。ありがとうございました。
坂本龍馬は土佐経由で京都に向かい、この別れが佐々木高行との「永久の別」になりました。龍馬暗殺の時が刻々と近づいてきます)