わき道をゆく第269回 現代語訳・保古飛呂比 その92
一 (慶応三年)九月十九日、今朝、(長崎奉行所)調べ役の安東(鈔之助)らへ、先日来苦労をかけたことについての挨拶かたがた、「相勤メ候」(※勤めは仕事をするという意味だが、この場合何を指すのか、いまひとつ不明)。午後より、製鉄所へ行き、夕顔船(土佐藩の蒸気船)の修復を見分し、帰途、英国軍艦を見物。士官が親切に器械などを教えてくれた。夜更けに散歩、一力に寄って酒を酌み、四ツ半(午後十一時)ごろ帰宿した。[石田英吉・橋本喜之助・高橋安兵衛・荻原真齋同伴]
一 九月二十日、西役所へ「勤ム」。同所より先日の運上所の談判書を受け取り、午後から宿主の池田とともに光深寺に行った。初夜(午後八時ごろ)帰宿した。
一 金百両 土佐商会より受け取る。
一 同二十一日、陰晴(曇りと晴れ)、今夕、医師戸梶俊泉へ謝礼のため藤屋に招く。喜之助・安兵衛を相客とした。夜、四ツ時(午後十時)ごろ帰宿した。
一 同二十二日、晴れ、午後より渡邊剛八・山本孝庵・小田小太郎[吉井源馬こと]・石田英吉(注①)・高橋安兵衛・橋本喜之助をつれ、稲荷嶽へ遊歩。帰途、病院のそばを通った時、同院の二階で、大男の外国人が何か手に携えて、大いに怒り、大声を発し、自分をにらみつけ、手に持っていたものを投げつけようとした。そばに居合わせた日本人がそれを制止した。自分らはそのまま通行し、すぐさま病院で(何事かと)尋ねたところ、彼は先日、雄二郎に傷つけられた人で、自分(佐々木高行のこと)を悪人だと常に言っていたのだが、今夕散歩するところをたまたま見受けたため、前述のようなことになったようだ。今後はきつく戒めるということだった。笑うべし笑うべし。英吉・小太郎とともに夕方帰宿した。ほかの三人は途中で別れた。[金九両、喜之助の宿料を渡す]
【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、石田英吉(いしだ-えいきち1839-1901)は「幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)10年11月8日生まれ。土佐高知藩士。大坂の緒方洪庵(おがた-こうあん)に医術をまなぶ。天誅(てんちゅう)組の挙兵にくわわり,のち奇兵隊,海援隊に加入。戊辰(ぼしん)戦争にも従軍する。維新後,長崎県令,千葉・高知県知事などをへて,貴族院議員。明治34年4月8日死去。63歳。本姓は伊吹。別名に周吉など。」】
一 九月二十三日、晴れ、藝藩(広島藩)の西本清助・石津蔵六・国枝與助を玉川楼に招く。初夜(午後八時ごろ)、帰宿した。
覚
一 [八月]金二百両也、お貸しした分
この利息は八両也。[八月より九月までの二カ月分の利息]
合計で二百八両也。
右の通りたしかに受け取りました。以上。
九月二十三日 新屋藤助 印
山崎様
一 九月二十四日、晴れ、午後より散歩。本蓮寺へ行き、七つ(午後四時)ごろより、藝藩の招きで玉川楼に行く。山崎直之進・安兵衛・喜之助が同伴、夜四つ(午後十時)ごろ帰宿した。
一 同二十五日、晴れ、幸い(土佐への)便があったので、公用書簡と私用書簡をしたため、(届けるよう)頼んだ。薩藩の岩下佐次右衛門(注②)を訪問した。同人は仏国より帰朝したためである。仏国の状況などを何かと教えてもらった。その際、岩下曰く。天下のことも最早ただいまのままでは済まないと。その口ぶりは直ちに兵を動かして差し迫るように察せられた。しかしながら、薩摩のことだから、いまだ何とも言えないと人々と話し合った。長府人の熊野直助らが帰藩するというので、土佐商会に金子の支払いを求めてきた。何かの行き違いがあったようだとわかったので、周旋して、傳太の金百五十両を西川から受け取り、長府人に渡した。くわしいことは安兵衛・喜之助・大谷義庵・渡邊剛八・小田小太郎が知っているということで、自分は最初からあずかり知らない。夕方、西川易二とその家族を自由亭に案内した。これは(自分が)長崎に出て来て以来、ご用達を勤めてくれ、ひとかたならず周旋奔走してくれたことに対するお礼である。英吉・喜之助・安兵衛・本山竹之助らが同席した。五ツ半(午後九時)ごろ帰宿した。
【注②。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、岩下方平(いわしたほうへい[生]文政10(1827).3. 鹿児島[没]1900.8.15.)は「東京明治初期の外政家。薩摩藩士で通称は佐次右衛門。藩の精忠組に属した。生麦事件のとき,藩家老の代理としてイギリスとの交渉に加わり,慶応2 (1866) 年には,同藩の海外密航留学生として渡仏。帰国後,王政復古に際して参与となり,明治1 (68) 年,新政府外国事務掛,大阪府判事を歴任して,攘夷事件など困難な外交交渉に尽力。翌年,刑法官判事に転じ,さらに京都留守官の次官となる。同3年,京都府権知事,のち大阪府大参事を歴任。 1878年元老院議官。 87年子爵。 90年貴族院議員。」】
一 九月二十六日、晴れ、藝藩の西本清助の下宿を訪ね、談話した。帰途、上野達[彦]馬(注③)のところで写真を撮った。喜之助・安兵衛が同伴した。それから喜之助と別れ、安兵衛と三浦藤五郎のところに行き、蒸気仕掛けの米搗き車(板の両側に車をつけ、それが回転すると上の杵きねが米をつくように動く仕掛けの玩具=デジタル大辞泉)を見物し、松之森の千秋亭で夕食をとり、夜に入って帰り、ちょっと西田屋に行く。英国の「オールト」商会への案内が日延べになったことを伝えた。今夜、山崎直之進・譽田屋が大坂に向けて発った。
一 金二十両 小田小太郎に貸す。
【注③ 。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、上野彦馬(うえのひこま。1838―1904)は「営業写真師。長崎生まれ。鵜飼玉川(うかいぎょくせん)(1807―1887)、下岡蓮杖らと並び、もっとも早い時期に営業写真館を開いて職業的に写真を撮りだした、日本における写真術の開祖の一人。父俊之丞(としのじょう)(1790―1851)は長崎奉行所の御用時計師で、火薬材料や更紗(さらさ)の開発も手がけ、1848年(嘉永1)にオランダから発明当初の写真術ダゲレオタイプ(フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって発明され、1839年にフランス学士院で発表された写真術。銀板上にアマルガムで画像が形成される。1回の撮影で1枚の写真しか得ることができず、出来上がった写真は左右逆像)の機材一式をいち早く輸入したことでも知られている。1850年に俊之丞が没し、12歳で家督を相続。1852年、大分日田(ひた)の広瀬淡窓(ひろせたんそう)の私塾咸宜園(かんぎえん)に入門、漢学を学ぶ。1856年(安政3)長崎へ帰り、オランダ語を通詞名村八右衛門(なむらはちえもん)に伝授される。さらに1858年、長崎海軍伝習所の医官を務めていたオランダ人軍医ポンぺの塾舎密試験所(せいみしけんじょ)で舎密学(化学)を学び、津藩士堀江鍬次郎(くわじろう)(1830―1865)とともに写真術の研究を始める。1861年(文久1)津藩主藤堂高猷(たかゆき)(1813―1895)の出資でフランスから最新の写真機材と感材用の薬品を取り寄せ、江戸の津藩邸で藩主の肖像撮影に成功。翌1862年堀江の協力を得て津藩藩校有造館(ゆうぞうかん)の化学教科書『舎密局必携』を著し、同書中の「撮形術ポトガラヒー」の項で写真技法の詳細について述べる。同年、長崎中島河畔の自邸に営業写真館「上野撮影局」を開設、写真撮影業を始める。当初、長崎に滞在する外国人を顧客とした肖像写真の撮影をおもに手がけたが、やがて日本人にも客層を広げていき、坂本龍馬(さかもとりょうま)、高杉晋作(たかすぎしんさく)をはじめとする数多くの幕末の志士たちも上野のもとを訪れ、被写体として肖像撮影に臨んだ。明治期に入ってからも上野は写真師としての活動を旺盛(おうせい)に繰り広げた。1874年(明治7)、金星の太陽面通過を観測した日本最初の天文写真を撮影。1877年には長崎県令北島秀朝(ひでとも)(1842―1877)の委嘱により西南戦争の戦跡を記録撮影。陸軍参謀本部に提出されたそれらの写真は、弟子の冨重利平(とみしげりへい)(1837―1922)が反政府(西郷軍)側の谷干城(かんじょう)の依頼で撮影した同戦争の記録写真とともに、現存する日本写真史上最初の戦争写真として知られており、同年第1回内国勧業博覧会(東京・上野公園)に出品され、一等賞を受賞した。1890年代には上野撮影局支店をロシア沿海州のウラジオストクや中国の上海(シャンハイ)、香港(ホンコン)にも開設している。その門人から内田九一(くいち)(1844―1875)、守田来蔵(1830―1889)、冨重をはじめ明治期に活躍する写真師が輩出した。[大日方欣一]『鈴木八郎他監修『写真の開祖上野彦馬』(1975・産業能率短期大学出版部)』▽『上野彦馬抄訳『舎密局必携(覆刻版)』全4冊(1976・産業能率短期大学出版部)』▽『八幡政男著『評伝上野彦馬』(1993・武蔵野書房)』▽『『日本の写真家1 上野彦馬と幕末の写真家たち』(1997・岩波書店)』▽『「寫眞渡来のころ」(カタログ。1997・東京都写真美術館)』】
一 九月二十七日、晴れ、今朝フランス語通訳の平井義十郎(注④)を訪ねる。
それから西役所へ出頭し、安東に面会、英米人云々の事件の成り行きを尋ねた。未だはっきりせず。午後、森田晉三・本山武三郎が来訪、八ツ半(午後三時)ごろより喜之助・安兵衛・関雄之助(注⑤)・荻原真齋を伴って米国軍艦見物に行った。帰途、散歩。釜屋で食事をとり、初夜(午後八時ごろ)に帰宅した。安兵衛が(高行の下宿に)止宿した。本日、熊野直助が帰藩するとのことで、自分が留守のとき暇乞いに来たとのこと。
【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、平井希昌(ひらい-きしょう1839-1896)は「幕末-明治時代の唐通事,外交官。天保(てんぽう)10年1月27日生まれ。長崎奉行所の通弁御用頭取などをつとめる。維新後の明治6年副島種臣(そえじま-たねおみ)大使にしたがい清(しん)(中国)にわたる。太政官大書記官,賞勲局主事となり,賞勲制度の整備に寄与。のち駐米弁理公使。明治29年2月12日死去。58歳。肥前長崎出身。通称は義十郎。号は東皐(とうこう)。著作に「万国勲章略誌」など。」】
【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、沢村総之丞(さわむら-そうのじょう1843-1868)は「幕末の尊攘(そんじょう)運動家。天保(てんぽう)14年生まれ。土佐(高知県)の郷士。土佐勤王党にくわわる。文久2年坂本竜馬とともに脱藩。のち海軍操練所をへて海援隊に加入。慶応4年長崎奉行所を占拠した際,鹿児島藩士を誤殺し,同年1月15日責めを負って自殺した。26歳。名は延世。変名は河内愛之助,関雄之助。」】
一 山崎(直之進)氏(土佐商会の長崎駐在員)よりの書簡、次の通り。
私こと今日乗船しますので、お暇乞いかたがた佐々木様の旅館へ参上しましたところ、折りからお留守のためお目にかかることができず、残念のいたりでした。ところで、去る十九日、御役場の御用金五十両を復太屋に渡し、同人より受取書を取っておきましたところ、今日は多忙のため店におらず、そのうえ(佐々木様が)お留守なので、どうにもならなくなりまして、まず森田晉三(土佐藩出身の海援隊員)より右の金五十両だけ私が受け取って、取引がないように始末しておきましたので、右の五十両の受取書を晉三に渡すよう仰せつけください。かつまた例の千両(木戸孝允が長州藩船の修理費用千両の借用を竜馬らに求め、後日、土佐商会が千両を用立てた)の支払い・差し引きなど一切を晉三に詳しく話しておきましたので、なお同人よりお受け取りのうえ、よろしくご裁定をしてくださるよう伏してお願いします。恐々頓首。
九月二十七日 山崎拝
佐々木様
覚
一 金千両也[ただし軍艦局のご用意金から借用して受け取り]
〆(合計)
金千両也[ただし長藩木戸庄蔵へ用立てることが詮議の結果決まったので、同藩人中村某へ渡す]
右の借用金を軍艦局に払い込み、次の通り。
金二百両也、 軍艦局の諸作配方に渡す。
[ただし他から借り入れて払い込んだので、月二分の利息を要したのは後条にある通り]
金四百両也 右同に渡す。
[ただし右同断]
〆
六百也、
残金は
四百両也[ただし軍艦局払い込み不足の分]
〆
一 金千両也、[ただし木戸某より返却になり、山崎直之進が受け取る]
右の内
四百両也、[ただし軍艦局払い込み不足の分として渡す。無利息である]
残金は
六百両也、
うち
二百両也、 新屋藤助に渡す、
[ただし前条の他から借り入れた分の払い込み。もっともこの分は八月に借り入れたので、同月・九月と二カ月分の利息が八両になるが、元金だけ渡した]
四百両也、[ただし右同断。もっともこの分は九月借り入れにつき、一カ月分の利息八両になるが、右同断である]
〆
元金は皆済み。
右の利息
金十六両也、
うち 八両也、[西川・三浦に払う]
八両也、[新屋に払う]
〆この分二件とも書き付けにある通り。
[ただしこの件は、御目付方の臨時金から払い込みになるはず]
右の通りです。以上。
九月二十七日 山崎直之進
右は、木戸準一郎に用立てた金子である。
一 九月二十八日、晴れ、今朝越前藩の木内甚兵衛を訪ねた。小田小太郎が言ってきたのは、大村藩の渡辺昇(注⑥)が京都から帰藩する途中、山崎(直之進か)を通して面会を申し込んできたと。今夜は五ツ時(午後八時ごろ)より英国商人「ヲールト」を招いておいたので、明朝面会することにした。迎陽亭で「ヲールト」夫婦ほかに男女一人ずつ来た。四ツ(午後十時ごろ)帰宿した。
【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、渡辺昇(わたなべ-のぼる1838-1913)は「幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)9年4月8日生まれ。渡辺巌の次男。肥前大村藩(長崎県)藩士。江戸の安井息軒に漢学をまなび,斎藤弥九郎の練兵館にはいり塾頭となる。剣を通じ近藤勇と親交をもった。兄の清とともに尊攘(そんじょう)運動につくし,維新後は大阪府知事,元老院議官,会計検査院長。子爵。大正2年11月9日死去。76歳。名は武常。号は東民,其鳳。」】
一 九月二十九日、晴れ、午後から渡辺昇を同伴して栄町湊亭に行った。しばらくして丸山の煙草屋に行く。煙草屋は渡辺の案内である。それからいろいろ京都の模様を聞いて、なにぶん今は切迫している。まだ何ともどうなるかわからないと、なにかと内輪話もあった。また(渡辺)曰く。尊藩よりは貴兄の代わりに神山という人が上京した。これは左多衛のことであろう。酒宴中、渡辺が京都の流行のよしこの節(注⑦)をうたう。ざっと調子を合わせておいて、東夷(東国武士)の歌をうたい、夜四ツ(午後十時)ごろ、渡邊はじめ同席の者たちを残しておき、従者一人を連れて帰宿した。
【注⑦。精選版 日本国語大辞典によると、よしこの節は「 ( はやし声を「こりゃまたよしこの」とか「よしこのよしこの」と言ったところからいう ) 江戸時代の俗謡の一つ。文化(一八〇四‐一八)の終わりごろ潮来節(いたこぶし)の変化したものといい、都々逸(どどいつ)に似て、歌詞は七・七・七・五の四句から成る。文政(一八一八‐三〇)の初めから江戸・大坂・京都などで行なわれた。」】
一 この月、太守さまが国にあって、天下の形勢が日に日に切迫するのを見て、後藤象次郞・寺村左膳・福岡藤次・神山左多衛を上京させ、文書を幕府に提出して、大政を奉還し、王政を古に復し、広く衆議を採用し、富国強兵の鴻基(大業の基礎)を建て、西洋各国と信義をもって交際を結ぶことを請う。次の通り。
誠惶誠恐(心から恐れ畏まり)謹んで建言します。天下憂世の士が口を噤んであえて言わざるに至ったのは誠に恐るべきの時です。朝廷・幕府・公卿・諸侯の考えはお互いに違っているようで、誠に恐るべきのことです。この二つの恐るべきことは我の大患にして、彼(外国勢力)の大幸です。彼の策はここにおいてか成ると言うべきです。このような事態に陥ったのは、その責任は結局誰に帰すべきでしょうか。しかし、過去の是非曲直をあれこれと論難したところで何の益がありましょうや。ただ願わくは、大活眼、大英断をもって天下の万民とともに一心協力、公明正大の道理に帰し、万世にわたって恥じず、万国に対して愧じない大根底を建てざるべからず。この考えは以前上京の際にも、いずれ建言するつもりでしたが、なにぶん差し支える事情のみあり、そのうちはからずも持病が再発し、やむをえず帰国しました。以来、日常の起居動作といえども思うに任せぬようになり、再度の上京がしばらく叶わないのは、誠に残念の次第でして、ひたすらこのことをのみ日夜焦って思い悩んでおりました。このため私の思うところを一、二の家来どもを通じて言上いたします。ただ幾重にも、公明正大の道理に帰し、天下の万民とともに、皇国数百年の国体を一変し、至誠をもって万国に接し、王政復古の業を建てざるべからざる一大機会と存じます。なおまた別紙をとくとご検討を仰せつけられたく、懇々の情を黙止しがたく、泣血流涕(血が出るほどに涙を流して泣く)の至りに堪えません。
慶応三年9月 松平容堂
またこれとは別に四人の名をもって副書を提出し、建白書の細目を述べた。すなわち左の通り。
世界の形勢、古今の得失を鑑み、誠恐誠惶稽首再拝。
伏して思うに、皇国興復の基業を建てようと欲すれば、国体を一定し、政治制度を一新し、王政復古、万国万世に恥じぬことをもって本来の主旨とすべし。邪な者を除き良い者を挙げ、寛恕の政を施行し、朝廷・幕府・諸侯が等しくこの大基本に注意することをもって現在の急務と存じます。前に四藩が上京し、一、二の献言をした次第もあり、容堂は病気のため帰国して以来、なおまたとくと熟慮しましたところ、まことに容易ならざる事態で、運命の分かれ道は今日にあるかと考えます。よって早速再び上京し、右の次第のいちいちを及ばずながら建言したいと願っているのですが、今に至って病気のため難渋しており、やむを得ず微賤の身をもって、言上します。
一 天下の大政を議定する全権は朝廷にあり。すなわち我が皇国の制度法則、一切の万機
必ず京都の議政所より出ずべし。
一 議政所を上下に分かち、議事官は上は公卿より下は陪臣、庶民にいたるまで、正明純良の士を選挙すべし。
一 庠序(注⑧)学校を都会の地に設け、長幼の序を分かち、学術技芸を教導せざるべからず。
一 一切の外国との規約は、兵庫港において、新たに朝廷の大臣と諸外国が議論して道理が明確な新条約を結び、誠実の商法を行い、信義を外国に失わぬことをもって主要とすべし。
一 海陸軍備は一大主要とする。軍局を京摂の間に築造、朝廷守護の親兵とし、世界に比類なき兵隊とすることを要する。
一 中古以来、政刑は武門に出づ。洋艦来航以後、天下紛々、国家多難、ここにおいて政権やや動く、これ自然の勢いである。今日に至り、古来の旧弊を改新し、枝葉に馳せず、小条理に止まらず大根基を建てるもって主とする。
一 朝廷の制度法則は昔からの律例ありといえども、現在の時勢に照らし、なかには当然ならざるものあらん。宜しくその弊風を除き、地球上に独立する国本を建つべし。
一 議事に関わる士太夫は私心を去り、公平に基づき、術策を設けず、正直を旨とし、既往の是非曲直を問わず、古いものをすべて新しくし、今後の事を見通すことを要す。言論多く実効少ないという通弊を踏むべからず。
一 右の條目は恐らくは当今の急務、内外各般の至要、これを捨てて他に求むべきものはないだろうと存じます。であればすなわち職に当たる者は成敗利鈍(成功するか失敗するか、賢いか愚かか)を顧みず、一心協力を万世にわたって貫徹するようにありたい。もしあるいは従来の事件にこだわり、弁難抗論し、朝廷・幕府・諸侯が互に争おうとするなら、それは最も適切でない。これは容堂の真意です。よって愚昧不才を顧みず、大意を建言しました。ついては恐れながらこれらの次第を空しくお聞き捨てになっては、天下のために残念至極のことです。なおまたこのうえ寛仁のご趣意をもって、微賤の私どもといえども、ご親問を仰せつけられたく懇願奉ります。
慶応三年九月
松平土佐守内
寺村左膳
後藤象次郞
福岡藤次
神山左多衛
右の建言書は御両殿様(容堂と豊範)の歴覧に供するため、後藤象二郞・福岡藤次・神山左多衛らが持ち帰り、お渡しした。かねて七月に上京中、自分も右のことに関与した。
【注⑧。精選版 日本国語大辞典によると、庠序(しょうじょ)は「 ( 中国で村里の学校を周代には「庠」、殷代には「序」といったところから ) 学校。」】
[参考]
一 坂本龍馬の八策
一 天下の政権を朝廷に奉還させ、政令宜しく朝廷より出ずべきこと。
一 上下の議政局を設け、議員を置いて万機を賛助せしめ、万機宜しく公議に決すべきこと。
一 有財の公卿・諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を与え、よろしく従来の有名無責の官を除くべきこと。
一 外国の交際、宜しく公議を採り、新たに至当の規約を立つべきこと。
一 古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を撰すべきこと。
一 海軍宜しく拡張すべきこと。
一 御親兵を置き、帝都を守衛せしめべきこと。
一 金銀物価、宜しく外国と平均の法を設けるべきこと。
右は坂本の持論で、そのたびごとに右の相談があったことである。
[参考]
一 九月、幕府が英国人を招聘して海軍伝習を始め、また再び軍役の割り当てを改め、今後十カ年の兵賦(注⑨)は金銭で納めるべき旨を通達した。
【注⑨。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、兵賦(へいぶ)は「幕末,江戸幕府が直臣から徴発した軍役。文久2 (1862) 年の兵賦令に基づき,500石以上の旗本,御家人に領内から石高に応じて人数を出させ歩兵組として編成した。 500石以下の士は金納にとどめた。幕府は初期に軍役を課する制を設けていたが,有名無実化していたので,新しい状態に応じて改革し実施したもの。兵賦勤務中の食料は幕府が支給したが,給金は個々の主家から支給されたため,歩兵組は各主家によって給金に相違が生じ,不統一なものになり,また兵賦も期待どおり集らなかった。そのため幕府は慶応2 (66) 年すべて金納とすることにし,ようやく統一的な傭兵制度が完成した。」】
保古飛呂比 巻十九 慶応三年十月
慶応三年丁卯 三十八歳
十月
一 この月朔日(ついたち)、晴れ、今朝、岩下佐次右衛門を訪ねる。留守へ小太郎・英吉が来て、(自分の帰りを)待ち、言う。京都の模様話のみ何かと談話。白川何某が仏国より帰朝したというので、西洋話を聞くために藤屋に招く。小太郎・英吉・剛八を同伴。種々の新たな話を聞き、夜四ツ(午後十時ごろ)前に帰宿した。
一 同二日、晴れ、九時より米軍艦の練兵見物に行く。今日はなし。それより英軍艦見物し、薩摩の三国丸船長を訪問した。今夕、小太郎・英吉と藤屋で話した。ちょうどその折り大谷義庵が来たが、話は出来ず。初夜(午後八時ごろ)帰宿した。
一 岩下氏よりの書簡、次の通り。
昨日の朝はご来駕くだされたところ、折りから多忙中で、はなはだ失敬いたしました。さて、その折り、国許より両人が長崎に来て、京都の模様を少々知らせ、国許より出兵の動きなどとお聞きしましたので、私もにわかに思い立ち、今日帰国します。先刻、(佐々木様の)旅宿をお訪ねしましたが、外出中でお目にかかれませんでした。残念の至りです。まずは以上のことと、帰国の成り行きを申し上げたく、このように記しました。以上。
慶応三年十月二日
憚りながら諸君へもよろしくお伝えください。
薩摩 岩下佐次右衛門
佐々木三四郞さま
一 十月三日、晴れ、紀州藩岩橋轍輔(注⑩)・山田傳左衛門が来訪、国産物を持参した。これは「イロハ丸」償金(慶応三年四月、海援隊の「いろは丸」と、紀州藩船「明光丸」が瀬戸内海の六島沖で衝突、いろは丸が沈没した。坂本龍馬は紀州藩との談判で多額の賠償金をとることに成功した)の事件についてである。九時より小太郎・英吉・孝蔵を同伴し、白川何某の案内で、仏国人「モンブラン」を訪問、種々の議論を聞いた。同人は岩下と一緒に来朝した。仏国の貴族で、勤王論である。仏国は全体に佐幕論だが、同人は反対の説なので薩摩と昵懇になった。薩摩人の朝倉何某、通訳として岩下とともに来朝した。「モンブラン」の通訳などをしている。帰途、白川を誘い、小島屋で昼食をとった。夕方、喜之助・安兵衛が来た。これは芸州人に用談があって、両人にやらせているのだが、その連絡のためである。小太郎・英吉も来た。今夕は外出しなかった。
【注⑩。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岩橋轍輔(いわはし-てつすけ1835-1882)は「明治時代の実業家。天保(てんぽう)6年5月21日生まれ。もと紀伊(きい)和歌山藩士。大蔵大丞,四十四国立銀行頭取をつとめ,明治12年函館に開進社を設立。下湯川(しもゆのかわ),長万部(おしゃまんべ)などの開拓を指導した。明治15年10月28日死去。48歳。」】
(続。毎度のことですが、誤訳がいろいろあると思いますので、引用・転載はご遠慮ください。申し訳ありません)