わき道をゆく第270回 現代語訳・保古飛呂比 その93
[参考]
一 (大政奉還の)建白、十月三日閣老へ、翌四日関白殿へ、どちらもお取り上げになった。
一 十月四日、昨夜より大雨、午後晴れ、二時ごろより米人「フルベツキ」(注①)を訪問、翻訳を依頼した。新旧約全書(新約聖書と旧約聖書)を同氏より贈られる。肥前藩の本野某(盛亨のこと。注②)が同氏(フルベッキ)方で洋書を調べていた。夕方、紀州の岩橋轍助へ返礼として土佐黄紙を贈る。それより安藤鈔之助のところに行き、雄二郎の一件を尋ね、いまだわからず。橋本久太夫の帰国のことを(安藤に)申し出ておいて、帰途、藤屋に立ち寄ったところ、紀州人の山田傳左衛門・三宮精一・岩橋多輔[轍助の弟とのこと]そのほか三人が来た。また小太郎・英吉・剛八・栄・孝道らが落ち合い、大酒宴となり、四ツ(午後十時ごろ)前帰宿した。
【注①。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck 1830―1898)は「アメリカ改革派(オランダ系)の宣教師。オランダ生まれ。モラビア派の信仰の影響を受けて育ち、ユトレヒトの工業学校で土木技術を学んでアメリカに移住。コレラにかかった体験が契機となりオーバン神学校を卒業して宣教師となる。シモンズDuane B. Simmons(1834―1889)、S・R・ブラウンと来日(1859)した。佐賀藩の学校致遠館(ちえんかん)で教えた青年たち(大隈重信(おおくましげのぶ)、副島種臣(そえじまたねおみ)ら)が明治政府の枢要な地位についたため、東京の大学南校(現、東京大学)の教頭に招かれ(1869)、破格の待遇を得る。明治政府のために開港、開国、開教(信教の自由)、教育の各領域にわたって宣教師の役割を超えて力を尽くす(1875まで)。その後は全国各地を旅行してキリスト教の伝道に専念し、りっぱな日本語で説教と講演を行い、明治学院で教え、聖書の翻訳では『旧約聖書』の「詩篇(しへん)」を植村正久と担当した。68歳で東京で死去。[川又志朗 2018年8月21日]『高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』(1978/オンデマンド版・2007・新教出版社)』」】
【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、本野盛亨(もとの-もりみち1836-1909)は「明治時代の官吏,新聞人。天保(てんぽう)7年8月15日生まれ。本野一郎の父。もと肥前佐賀藩士。緒方洪庵(こうあん)に蘭学,フルベッキらに英学をまなぶ。維新後は神奈川県大参事,駐英公使館書記官,横浜税関長などを歴任。また子安峻(たかし)らと読売新聞を創業し,明治22年2代社長となった。明治42年12月10日死去。74歳。本姓は八田」】
一 岡内(俊太郎。注③)氏よりの書簡、次の通り。
高知より手紙を出させていただきます。いよいよご安泰であらせられ、慶賀奉ります。さては私こと、長崎港を出帆して以来、風向きが悪く、ところどころで船が滞泊し、ようやく九月二十日、下関に着港しました。とりあえず、才谷梅太郎・中島作太郎・私が一緒に上陸しました。折りから才谷の妻を同所東本陣[東本陣は長濱一の官庁です]に置いていましたので、種々の用事もあるようで、才谷は同所に滞留し、私は中島とともに宿屋に止宿しました。ここから陸奥源次郎(陸奥宗光のこと)・菅野覚兵衛は直に京都を目指して出発しました。かねて長崎から持参した小銃のうち、二百挺ばかりを両人に渡し、京都に事あるときの用意に充てました。さて、この小銃のことに関し、ここに必死の尽力をして、その事を遂げなくてはならぬ時宜になりました。かねて長崎を出帆の際にも、(佐々木さまが)種々のご苦慮をされ、またその節より私どもも苦心いたしましたのは、この小銃の一事でありまして、いよいよ国許においてこれを容れるところとなれば幸いですが、もし俗論派のために拒まれ、これを採用しないことになれば、まことに不安な成りゆきとなります。実は(我々が)この小銃を携えて本藩に持って行き、大いに事をなそうと欲する、その事情を、下関で一緒になった長藩人の伊藤俊助(伊藤博文のこと)に才谷が詳しく打ち明けましたところ、伊藤がこう言いました。土佐に持って行って、もし土佐が因循であって、これを用いることをせぬときは、また下関に引き返して持ち帰ってくれ、長藩でこれを用いるように計らうから、と。我々土佐藩の者が、何の面目あって再び長藩人にまみえましょうか。この一事は最早、ことの成否如何によっては最後の一決を行うほかないと、才谷ともども話し合ったことです。是非このことは一死を期して尽くさなければならぬと誓い、国許に着いた際の方策を講じ、どういう事に成りゆき、またどのようなことがあっても、再び長藩に持ち帰ることはしないと決しました。さてまた、ここにいよいよ薩長の一致協合は固く、実に愉快なことになりました。その下関に着港の際、一隻の蒸気船が煙をあげて東に向けて進行するのを見ました。これはどういうことか。何か確たることがあるのだろう。早速に探って見ようと、才谷も大いに焦って探索したところ、才谷が聞いてきた密話では、出帆の船は薩摩の船で、薩藩の大久保市蔵(大久保利通のこと)が下関に来て、長藩との打ち合わせも行い、薩兵は近いうちに小倉の地に繰り出し、長藩ならびにその末藩の岩国・長府・清末などの兵は下関に集め、京都の事に応ずるという打ち合わせを終えて出帆したということでして、まことにこのことを聞いたとたん(私どもの)心中は穏やかではありませんでした。国許の藩論はいまだに両派に別れて一決せず、そのとき薩長は最早一致しています。我が本藩の因循は最早一日も油断なりません。速やかに土佐に帰り、大いにこれらの事情を述べ、是非薩長と協力するほかなく、速やかに土佐に行こうと決め、急ぎ下関出帆の用意をし、才谷梅太郎・中島作太郎・私、ほかに長崎より連れてきた、太宰府から三條卿の内命を受けて、本藩の船により京都に出ようとする戸田雅楽(注④)を同伴し、ほかに薩人長崎留守居方のうち一人(実は小銃のことで金策の都合を頼み、為替金に関係する人です)大坂行きの者も同伴し、そのほか二、三の者に便船を与えて乗せ、下関を出帆、十月二日に浦戸港に着きました。そうして藩論の成りゆきを聞き合わせてみたところ、いよいよ二派に分かれ、双方ともなかなか激烈で、かえって私どもが国許を出たときよりも激しく、同志の方もなかなか奮発しており、また俗論も緩んでいない有様でありまして、このとき国許に来た才谷梅太郎が坂本龍馬であることも、また中島作太郎も現在脱藩の身であること、また太宰府から来た戸田雅楽らを同行していることも秘密として、どの人も一旅人を装って秘密にしておかないとかえって事が破れることになり、正義派のための得策にならぬと考え、まず差しあたり坂本龍馬らを一旅人にして種崎浦に隠しておき、それよりいろいろ龍馬らと謀議の上、とりあえずかねて長崎を出発するとき、龍馬から、その当時窃かに長崎に来ていた長藩の木戸準一郎(木戸孝允のこと)に、薩長間の事情や将来行おうとする方策について、一つの芝居に組み立て、その登場人物に薩摩の西郷吉之助をはじめ、土佐人をも登場人物となすように組み合わせた手紙を書いてもらい、この手紙に龍馬より添え状をしたため、これを渡邊彌久馬(注⑤)殿に届けるため、同封して、私が携えて彌久馬殿宅へ行き、いろいろな今般の事情や、また薩長が一致協力して大いにことをなそうとする大勢を話しました。また同様に本山只一郎殿の御宅ヘ行き、いろいろ申し上げ、とにかく最近の大勢は非常の時なので、極々秘密裏に坂本龍馬にお会いしていただき、容易ならざる時勢を詳しく、直にお聞き取りいただきたいと申し上げ、まことに天下の大事は今日に迫っていますと種々申し上げたところ、(渡辺、本山の)お二人は大いに奮発され、(龍馬からの)聞き取りをご決心になり、その龍馬と会う場所を松ヶ端の某茶店、時刻は夜の六ツ時(午後六時)と定め、私がお二人に申し上げた翌日に(会談の日を)取り決めました。それから私は坂本の種崎の宿に行き、詳しいことを打ち合わせました。そして坂本同伴で約束のように夜の六ツ時を期して坂本と私の二人だけで、(茶店に向かいました)。この時は中島は行きませんでした。(茶店に)来られた方は渡邊彌久馬殿・本山只一郎殿、ほかに森権次殿も加わって来られました。そこで坂本よりいろいろ申し上げたところ、(お二人は)大いに時勢の大体を看破され、まことに薩長と同心協力して、尽くさなければならないと言われました。そうして小銃のことももちろん受け取ることにしようという結論にまでは至りませんでしたが、このように今夜切りの会合ではことがつくせず、夜も更け、この後の会合は吸江の寺にすれば宜しかろうとの評決になり、今度は某寺でお会いすることに決しました。さて、(渡邊、本山、森の)お三方は珍しいことに白酒を持参され、坂本も数年ぶりで土佐の白酒を飲み、大いに昔を懐かしみ、快談に時を忘れ、夜が更けてから別れました。これよりその後の会合は吸江の寺で一、二度秘密の話し合いを持ち、すこぶる良い方向に向かいました。長崎で(佐々木さまらが)苦慮された小銃の一事も見事に運び、以前代価の立て替えをしてもらった人も連れて行き、例の薩摩人[大坂に行く為替係]へも金を渡すことができ、また長藩の伊藤俊介らにも再び面会することもでき、御国のためまことに喜ぶべきことになりましたので、返す返すもご安心なされるよう申し上げます。さて、長崎滞在中に、石田英吉と私が佐々木栄を呼び返すため、薩州へ行ったとき、出発の際に龍馬より私への注意により、薩藩で作っている二分金の模様、仕上がり品を探り取って来て、薩藩同様にこれを本藩(土佐藩)においても作らないと、事が始まったとき差し支えを生じるだろう、本藩に献策をして薩の方法にならいたいという一事は、私から献言を試みましたが、これはその細工職方の問題なのでなかなか難しい事情もあるゆえ、いずれ近いうちにその方法の詮議にとりかかることにしようということになり、この件はうまく行きませんでした。しかし、今度何とか、軍用金の調達は肝心なことなので、捨て置かずに詮議は行うことにしようということになりました。さて、二、三度の会合以来だんだん良い方向にことが進んでおりますが、ここに重大なる難問がありまして、(渡邊さまや本山さまらには)いろいろとご苦慮がおありのようでして、その事情をよくよく伺いますと、ご隠居様(容堂公)のお考えでは、兵を用いることは好まれず、専ら建言をなす策を採られるお考えであります。ついては、そのお考えなどに種々のご評議・ご議論もあるようで、後藤象二郎殿も兵を用いることの議論はないようです。しかしながら、天下の大勢、薩長の協力はいよいよ兵を用いることに決まっておりますので、土佐と薩長とは藩論が一致しないという事態にもなりましょうか。薩長が兵力に依拠するとき、土佐が傍観するのもいかがでしょうか。まことに重大な関係を生じないでしょうか。ただいま後藤象二郎殿は京都に滞留していますので、ともかくも早々に京都に出て、あれこれと周旋し、薩長と反せず、大いに王事に尽力しなければならぬ状況です。もしいろいろと(薩長と)反しては、容易ならぬことに立ち至り、まことに容易ならざる次第、早々に京都ヘ出て尽力するようにという議論でして、彌久馬殿・只一郎殿は兵力論の方であられるようですが、ご隠居様のご意思の趣旨も考えなければならぬ時、強いて兵力を用いることを国論とすべしというようにも参りかね、よほどのご苦慮の様子であります。とにかく龍馬・私どもは、早々に京都に出て尽力することをひとえに希望する次第でして、結局、後藤象二郎殿に説いて、薩長と反せぬように事態を進めるのを主とした次第です。もとより龍馬はじめ私ども、国許にある同志の議論は薩長力兵協力を用いる議論であります。とにかく龍馬・私・作太郎らは京都に出ることに決しました。彌久馬殿・只一郎殿は奮発しておられ、かれこれまず大体のところはうまく進み、上出来であります。これから出発することに決まり、野本平吉殿も京都派遣になり、それより出発支度に取りかかり、ただちに平吉殿・龍馬・作太郎・戸田雅楽らもまた一緒に出発することになりました。このとき▢(欠字)小事にわたりますが申し上げておきたいのは、一つの高知の模様です。さて、龍馬が高知へ旅人となって滞留中、夜中ひそかに上町の自宅に行き、実兄の権平にも久しぶりで面会し、昔を語り、戸田雅楽も行って権平より鍔をもらい、大いに喜びました。いろいろな珍事もありました。そのうち龍馬がひそかに高知に来ていることを、二三の同志の者に知らせたところ、皆がひっきりなしにやってきて、そのうち大石彌太郎(注⑥)もやって来て、龍馬と彌太郎の対話で、始めに何も話さないうちに双方から「君はまだ若いねや(若いんだねえ)」と言ったので大笑いいたしました。また池知退蔵(注⑦)らは歯ぎしりして、「今回土佐が薩長と一緒にやらねば、土佐は焼け跡の釘拾いじゃ」と言って、大いに憤激したことなど、いろいろな珍事もありました。いよいよ出発が明日五日と決まりましたので、用意をして、野本平吉殿および坂本龍馬・私・中島作太郎・戸田雅楽そのほかの者が乗り組むことになっています。まず御国(土佐)の模様は尽力周旋の如何により良い方向にも向かうでしょう。明日五日出帆と決まりましたので、長崎出帆以来今日までの御国の形勢を申し上げたく、なお今後の形勢は京都より申し上げます。ご自重ご大切になされますよう。長崎にいる同志の者へは、国許の事情をお知らせおきくださいますよう憚りながらお願いします。今後の形勢により、直ちに京都に駆けつけられる用意など、万端ご指揮のほどが肝要と存じます。まずは右のみこのようにご報告します。恐惶謹言。
慶応三年十月四日
高知表より 岡内俊太郎
長崎
佐々木三四郞さま
御左右
【注③。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岡内重俊(おかうち-しげとし1842-1915)は「幕末-明治時代の武士,司法官。天保(てんぽう)13年4月2日生まれ。土佐高知藩士。坂本竜馬(りょうま)の海援隊にはいり,秘書役をつとめる。明治2年刑法官(司法省の前身)にはいり,司法大検事,高等法院陪席判事などを歴任した。元老院議官,貴族院議員。政友会に所属。大正4年9月19日死去。74歳。通称は俊太郎。」】
【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、尾崎三良(おざき-さぶろう1842-1918)は「幕末-明治時代の官僚,政治家。天保(てんぽう)13年1月22日生まれ。三条実美(さねとみ)につかえ,慶応4年実美の子公恭(きみやす)にしたがいイギリスに留学する。太政官大書記官,元老院議官,法制局長官などをつとめ,23年貴族院議員。大正7年10月13日死去。77歳。京都出身。名は盛茂。幼名は捨三郎。変名に戸田雅楽。号は四寅居士。」】
【注⑤。新訂 政治家人名事典 明治~昭和 によると、斎藤 利行(サイトウ トシユキ肩書参議旧名・旧姓別名=渡辺 弥久馬生年月日文政5年1月11日(1822年)出生地土佐国(高知県)は「はじめ渡辺弥久馬と称す。13代土佐藩主山内豊熈の御側物頭となる。おこぜ組の一人として活躍するが反対党のため失脚、その後吉田東洋の抜擢をうけ、豊熈夫人智鏡院の御用役に新おこぜ組の一人として務める。安政の初め近習目付となり、同3年頃藩の銃隊を組織するにあたり、その操練教授となり、後、仕置役に昇進。慶応3年7月長崎における英国水兵殺害事件に際し、後藤象二郎と共に談判委員として活躍。維新後斎藤利行と改名し、新政府に仕える。明治3年2月刑部大輔、5月参議となり、4年2月新律綱領撰修の功を賞され、8年7月元老院議官となった。没年月日明治14年5月26日」】
【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、大石円(おおいし-まどか1830*-1916)は「幕末の武士。文政12年12月17日生まれ。土佐高知藩の郷士。文久元年洋学研究のため江戸で勝海舟の門にはいる。同年武市瑞山(たけち-ずいざん)らと土佐勤王党を結成し,盟文を起草。戊辰(ぼしん)戦争では参謀,小目付として従軍した。大正5年10月30日死去。88歳。名ははじめ元敬。通称は弥太郎。」】
【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、池知退蔵(いけぢ-たいぞう1831-1890)は「幕末-明治時代の武士,公共事業家。天保(てんぽう)2年生まれ。土佐高知藩の郷士で,土佐勤王党にはいる。京都で倒幕運動にくわわり,戊辰(ぼしん)戦争で活躍。明治11年郷里で士族授産のためマッチ製造の百做社(ひゃっこしゃ)をおこし,のち嶺南社香長学舎を設立し教育にもつくした。明治23年7月20日死去。60歳。初名は重胤,のち重利。姓は「いけち」「いけとも」ともよむ。」】
一 十月五日、雨、夕方晴れ、吉村荘蔵を訪問した。[吉村は長州人伊藤俊介(のちの伊藤博文)である]、留守だった。「今日時久出崎用向ヲ喜之助ヨリ為相尋候事」(※よくわからないのだが、今日、伊藤が久しぶりに長崎に出て来た用向きを喜之助に尋ねさせたという意味だろうか)。夕方、山本孝道を藤屋で餞別した。夜、五ツ半(午後九時)ごろ帰宿した。
一 (土佐藩)政府よりの書簡、次の通り。
芸船便で貴殿の書簡が届き、それぞれ承知しました。
一 先日以来、英人との談判の件(七月六日、英国イカルス号の水兵二人が何者かに殺された事件。当初、海援隊による犯行とみられたが、後に筑前藩士の犯行と判明)がことごとく皆済んでご安心のよし、国許も同様であります。その後また十一日に、英米人らとのやりとり(九月十一日、土佐藩の島村雄次郎が英米人二人に傷を負わせた事件)があって、再びご心配になられたとのこと、格別のご苦労心痛については当方も同じ思いでした。しかしながら、このたびの一件は当方に条理のあることで、その後の決着のところはわかりませんが、たぶん貴殿の処理方針で済むこととお察しします。
一 右の二カ条のうち、前者の英人との談判が皆済んで、公義へ伺い書を出す件については御国(土佐藩)に異論はありません。後者の英米人との談判が済んだ上で、養療金を渡すことについては、詮議の結果、渡す必要はないという結論になりました。もっともすべてが済んだ後で、いよいよ(英米人が)困窮するなどのことがはっきりしてきたら、その状況に応じて考慮するということです。
一 横笛船関係の海援隊を御国へ引き取ることは、どうにも手筈を整えられないので、なるべくはその土地(長崎のことか)で鎮定するようにと申し立てられたい。それができないときは、京都の白川屋敷に置けばいいという詮議の結果になりました。[ただし白川へ引き取ることになったときは御地(長崎のことか)より掛け合ってもらいたい]。
一 夕顔船は現在藩の方で有用なので、なるだけ早くお返しください。御国よりは後日、他の船を仕立てますので。
一 彌太郎の代わりは、(後藤)象二郎に相談して(そちらに)派遣します。分かり次第取り決めるようにします。
一 このたびの芸州船の借用にかかった経費ならびに石炭代などは御地(長崎のこと)で処理していただきたい。
一 芸州船は十月一日、上京の人員三百人を乗せ、浦戸港より大坂に向かいました。東寺岬(室戸岬のことか)に至って、逆風逆浪のために進めず、須崎港に引き返しました。上京する人員は空蝉船に乗り換え、六日に港を出航する予定です。芸州船は、若干の石炭を与え、帰国する予定です。かねての調べ違いのところ「御含ニテ可也」(※意味がよく分からない。かねての調べ違いとは、芸州船が長崎港を出る直前に福山藩士などが急遽乗り組むことになったのを指しているのだろうか)
一 藩の参政の長崎行きについては詮議中であります。(後藤)象二郎が急遽長崎に行くのは難しそうです。それまでのところは、何とぞ「可被仰付候」(※仰せつけらるべくそうろう、と読むのだろうか。どういう意味かよく分からない)
以上のことを概ね話した野崎傳太がこのたび陸路で長崎へ派遣されます。近日中の出発を命じられたので、詳しいことは言い含めました。また、右のほかの点で省略している分もありますので、野崎がそちらに着いたら、同人からお聞き取りください。この書状は傳太が着いた後になるかもわかりませんが、飛脚便で大阪まで送りました。(※大坂経由で長崎に送ったという意味だろうか)、まずはだいたいのところは以上のごとくです。
十月五日 参政府
佐々木三四郞さま
ご安全に勤務をなされ、大いに喜び、お祝いします。貴兄の拝借金も相応に仰せつけられるはずなので、しばらくの間、如何様ともご融通ください。また、長崎出張中の「御扱」(※おん扱いと読むと思うが、具体的に何を指すのか不明)とても、右と同様に、傳太がそちらに到着したときに分かりますので、そのようにご承知ください。
右のうち、海援隊のお国入りうんぬんについては、海援隊は土佐藩・他藩出身者ともに脱走した者たちで、ことさら土佐では佐幕家そのほかが概して忌み憎むため、御国人(土佐出身者)は最も(受け入れが)難しい。藩政府内も二派に分かれているので、右のような脱走人を入国させれば、そのために、大いに害を引き起こすので、入国は差し障りがあって難しい。すでに去る七月、僕が京都方面から帰藩するとき、英人関係のことゆえ、越前春嶽公より容堂公ヘのお手紙を坂本龍馬が持参して兵庫まで来た。折りから出港のときだったので、坂本龍馬はそのまま土佐に来たが、上陸できず、須崎港で夕顔船に隠しておいた。よってその旨を容堂公に申し上げたところ、上陸させてはよろしくない、まず隠しておけとのご沙汰だった。老公ほどの権力があっても人目を気にしなければならないことだった。その様子を思うべし。
芸州船うんぬんについては、坂本龍馬・中島作太郎らを乗り組ませ、ひそかに土佐に送った。もっとも、表向きは土佐の用向きなので、役人も同志の者も同船である。土佐に着くと、参政渡邊彌久馬、大監察本山只一郎らと夜中ひそかに会い、国事を相談したとのこと。これは卯年(慶応三年)九月末のことである。時勢が切迫し、いまだ藩政府は一つにまとまっておらず、僕らも苦心万々であった。
一 十月六日、晴れ、今朝伊藤(俊介)を尋ねるつもりであったところ、留守だとのことを小太郎から聞き、土佐商会に行って、良助に京都方面の情勢を聞く。至極静謐とのこと。夕方、伊藤を訪ね、話をした。今日、フランス人が白川を連れて来訪、喜之助・安兵衛・小太郎と話をした。
一 十月七日、晴れ、風、今日フランス人三人が来訪、明日「モンブラン」を招く約束をした。八ツ時(午後二時ごろ)薩摩藩の朝倉省吉の下宿に行った。白川何某は昨夜、鹿児島に発ったという。どういう都合か。急に藩地へ遣わした。疑わしい。明日「モンブラン」と一緒に来てほしいと朝倉に言った。ちょうどそのとき「モンブラン」が朝倉(の下宿)に来た。四時と約束した。松ノ森の千秋亭を借用し、料理などのことはことごとくみな藤屋に託した。夜、五ツ半(午後九時)ごろ帰宿した。英吉・喜之助が同伴である。
一 同八日、曇り、夕七ツ(午後四時ごろ)前より松ノ森の吉田屋に行く。やがて「モンブラン」と、ほかにフランス人三名が来た。夕食をとり、いろいろ話をし、夜四ツ(午後十時ごろ)前に英吉らとともに帰宿した。
一 同九日、晴れ、由比畦三郎・本山武三郎が来た。用談をした。由比は夕顔の船長、本山は士官である。岩崎弥太郎・小田小太郎が同伴して、釜屋に行き、帰途散歩、藤屋に立ち寄り、四ツ前に帰宿、一同が同伴した。
(続。佐々木高行は長崎で外国人がらみの二事件をうまく解決したことで、土佐藩内での地位を確実なものにしたようです。また、龍馬と協力して大量の小銃調達に成功したことにより、土佐藩のその後の針路に多大な影響を与えることになります。いずれも龍馬との信頼関係があってはじめてなし得たことと言っていいでしょう。この後、歴史の歯車は大政奉還、龍馬暗殺、戊辰戦争に向けて動いていきます)