わき道をゆく第271回 現代語訳・保古飛呂比 その94
一 岩橋(轍輔)氏よりの書簡、次の通り。
日を追って冷気が催す折から、いよいよご安泰でいらっしゃることと存じます。先日はご来訪くださり、そのうえ御国産の佳品をいただき、ご厚情の至りと感謝しております。ところで、後藤(象二郎)君のご出崎(長崎を出ること)の模様は分かりませんでしょうか。先月上旬、国許を発ってから、いまだに空しくお待ち申し上げていることをよろしくご推察くださり、しかるべくご周旋のほどを、伏して懇願致します。直接お伺いして陳情すべきところ、折りから体調が少し優れず、失礼ながら手紙をもって申し上げます。頓首。 (慶応三年)十月九日 岩橋轍輔
なおなお、この小魚は少なくて恥ずかしい限りですが、ご一餐(一回分の食事)のために差し上げます。以上。
【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、岩橋轍輔(いわはし-てつすけ1835-1882)は「明治時代の実業家。天保(てんぽう)6年5月21日生まれ。もと紀伊(きい)和歌山藩士。大蔵大丞,四十四国立銀行頭取をつとめ,明治12年函館に開進社を設立。下湯川(しもゆのかわ),長万部(おしゃまんべ)などの開拓を指導した。明治15年10月28日死去。48歳。」】
一 十月十日、晴れ、今朝(岩崎)彌太郎が来た。午後、真齋・敬吉を同伴して「フロイス」軍艦の見物に行く。藝藩の西本清助が帰藩するというので暇乞いに来た。夕方、小太郎、英吉・喜之助・安兵衛が来た。
一 同十一日、晴れ、今朝、小太郎・英吉・剛八・彌太郎が来た。今日、紀州人と彌太郎が会うので、その打ち合わせのためである。八ツ半(午後三時)ごろ、喜之助・真齋を同伴して「フルベッキ」へ用事のために行き、帰途、横笛船に立ち寄り、黄昏ごろ帰宿した。今日、国許から岩村左内(岩村通俊のこと。注②)が来た。御国もなにしろ乾(板垣退助のこと)に西洋行きを命じられたこともあったとのこと。まことに困却していると。こうしたいろいろな話を聞いた。この夜は御国のことを懸念し、ろくろく快寝しなかった。
一 十月十二日、明日、喜之助が上京するので、手紙を書いた。また渡邊昇が来て、話をした。今日はいろいろと多事で、英吉・小太郎など数人が出入りした。ようやく夜に入って用事が済み、英吉らと散歩、藤屋で酒を酌み、四ツ時(午後十時)ごろ帰宿した。
思うことがあって、
夷人とあらそふ事もよしやただ
こころにかかる土佐のなみ風
震天丸で坂本龍馬・岡内俊太郎など同志の人々が土佐へ行ったのに、日がたって何の音信もなかったので、
土佐の海の浪しずけきや此の頃は
たえてたよりも長崎のうら
松の森で、
名にし負はばまつに甲斐あれまつの森
吹き音づれよとさのやまかぜ
稲荷嶽を見て
稲荷嶽夕日さびしくさしにけり
都の秋はいかにあるらむ
(右の歌は、前に詠んだものもあるが、一括してここに記した)
一 十月十三日、晴れ、雨、今日、端本喜之助を京都に派遣した。用事は左に(ある通り)
一 京都の事情をその時その時知らせること。
一 長崎書生、取り締まりのこと[ただし御屋敷を買い入れること]
右は、おりおり書生も多くなって、その上、商用のあれこれで出入りする人があるので、御屋敷へまとめようという趣旨である。
一 海援隊の御取り扱いのこと。
一 船材の出し方の件につき、外国人雇い入れのこと。
一 軍艦・砲銃などの買い入れのこと。
一 紀州の一件のこと[ただしイロハ丸の償金の処置である]
一 帰国の命令を受けた面々を急いで処置周旋すること。
一 土佐商会より商取引のことにつき、岩崎弥太郎が上京すること。
一 西洋へ書生を至急派遣したいということ。
一 金子が注文したこと。
一 同志の沢井猶太郎が後藤象二郎に面会したいといって上京すること。
一 喜之助が紀州の大型船の便船を望んだこと。
一 寺村(左膳)氏(注②)以下四氏への書簡、次の通り。
一筆啓上いたします。さて、このごろまったく京都の情勢についての知らせがありません。万一ことが起きる時機が来たならば、当地(長崎)でもそれだけの処置が必要になります。僕が考えるところでは、当地は開港しているため、諸生(多くの学問をする者たち。多くの学生や門弟=デジタル大辞泉)の他は、いずれも外国人に関係する者で、京都方面でどのような変動があっても、また当地で同じような事態になっても、かえってそれに同調せず(にいたほうがいいと思います)。万一幕府より嫌疑などを受け、のみならず京都方面の「発し口」(※よくわからないのだが、もしかしたら告げ口、あるいは音頭取りのことか)により、御国の者がみな拘束されるような処置を受けることになったなら、おとなしく縛につき、命のまま死に入り、同志の者より外国人に幕府の不条理を示せば、自然と(外国人が)幕府の非を知る一端にもなるでしょう。もし外国に関係する者が動揺すれば、幕府は必ず外国人を介して本国に強く働きかける術策をとることは明らかだと思います。したがって、諸生をはじめ外国人に関係する小吏等は(長崎を)逃れる策をもって身命を全うするよう(にしたいと思っています)。(こうした方策も)京都の情勢により速やかに対処しなくてはたちまち事を誤るにちがいないと苦心していますので、そちらでの周旋の状況や見通しを詳しくお伝えください。
一 当地はご案内の通り、外国人は言うに及ばず、各藩もつねづね諸生などを出張させ、御国からもいろいろ多人数が在留していますが、ただいまの状況でははなはだ監督が行き届かず、この先いろいろと不都合なことが起きるでしょうから、相応の屋敷をお買い入れか、またはお借り入れになり、書生をはじめその他の者も屋敷内に置くようにしたい(と思います)。このことは先日、国許へも掛け合いましたが、さらにご考慮を願いたい。
一 海援隊に対し相応の扱いをお願いしたい。根本はすべてお構いなしの規則でありますが、土州援隊という名が高名になっているので、自然臨時の藩の任務を帯びることも往々にしてあると思われます。そのため、一カ年に何百石(を海援隊に与える)というようにお取り決めになれば、名分もよろしく、出費の上でもかえって藩のためになると考えます。なおご考慮をお願いします。
一 紀州藩の岩橋轍助という御仁が先日、長崎に来て、例のいろは丸沈没の件につき、何か申し分があるので、一昨日の十一日、岩崎弥太郎に面会したそうです。このたび紀州藩の三宅精一と申す者が上京し、後藤(象二郎)君に直接話をしたいといって今日、長崎を出帆しました。右の岩橋が長崎に来てからの事情は、橋本喜之助より直にお聞き取りください。
一 横笛船が出帆した件の取り扱いにつき、弥太郎はじめ海援隊の者どもはひとまず帰国すべしというお沙汰になった件については、詳しくは坂本龍馬こと梅太郎よりお聞き取りください。国許へも知らせましたが、いまだ何らの知らせもありません。長々とただいまのような状況では、取り扱いに難渋しますので、至急幕府で処置するよう、ご周旋をなるだけ尽力ください。かつまた、越前人の渡邊剛八・佐々木栄もやはり土州藩の取り扱いになっていますので、京都で越前藩にいろいろ照会してください。これまた梅太郎よりお聞き取りなされただろうと思いますので、格別申し述べません。万一梅太郎が京都に着いていないときは、喜之助よりお聞き取り下さい。
一 (土佐商会の)取引のことにつき、弥太郎が是非とも象二郎殿に直接に話をしなくてはならぬ件があり、先日、(奉行所に)無断で上京することを申し出てきましたが、やがて(後藤殿が)長崎に来ることにもなるので、また、もしも不都合なこと(※弥太郎は横笛船の一件で奉行所から長崎を出ることを禁じられていた)が起きてはよろしくないので、しばらく待つようにと言い聞かせていたのですが、とかく日延べになり、最早一日もそのままにしておいたら、たちまち如何ともしかたなくなると(弥太郎が)申し出てきたので、状況に即した臨時の措置として、このたび忍んで上京させたのですが、その都合によってはすぐさま長崎に戻していただきたい。詳しいことは弥太郎よりお聞き取りになるでしょうから、略します。
一 今日の情勢においては、軍艦をはじめ砲銃が十分になくては、とても国家保全の経略が立たないことは無論のことですが、基本は財貨の運用にあります。現在、船材(船を建造する際に使う木材)などを出せば、その利益は莫大になると思われますが、いまだその人がありません。最早外国人を雇い入れになって、大いに財利(財物や利益。金銭上の利益=精選版日本国語大辞典)を聞いて、いますぐ必要な器械を十分にご注文されることが急務であるように考えます。しかしながら、このことは御国の中で人心が折り合わないので、京都の情勢よりして誠にやむを得ぬ策に出るようにいたし、有志輩のよくよく心服する策略もあろうと思いますので、象二郎殿が長崎に出てこられて、とくとご相談したいと考えます。
一 先日来、外国人に談判し、その他の夷人とも会い、いろいろ話し合っても、「置辞」(※よくわからないのだが、ひよっとしたら通訳のことか)をもってしても差し迫る件々があるので、御国においても早々に相応の見識ある者四、五人に西洋行きを命じていただきたい。喜之助・真齋などは、かねて(藩から)有望視されているようなので、何とぞ急いで実現するよう周旋をお願いします・
右のそれぞれの件につき、当地においてとくとご相談したいので、かねて松井周助が上京の際に話した通り、象二郎殿が長崎に来られるまでは、なるだけ待ち受けし、打ち合わせをした上、国許に帰るつもりでしたが、それは今もって同様のことであります。そのうえ弥太郎はじめ帰国させるはずの者どもが進退自在になるまでは、(自分)一人が(長崎に)詰めていなければ都合がつかなくなることになるので、至急象二郎君が長崎に来ることを望みます。なお当地の情勢のあれこれは喜之助よりお聞き取りください。喜之助は現在役場の御用向きを勤めておりますので、そのようにご承知ください。以上のことをお知らせしたく手紙を書きました。なお(書き切れなかったことは)後便の機会に託します。頓首百拝。
十月十三日 三四郞
[寺村]左膳様[後日、日野春草と改める]
[眞邊]栄三郎様
[後藤]象二郎様
[福岡]藤次様
右の書面(注③)の趣旨は次に。
第一条は、
京都で勅命により、我が藩が討幕の兵を挙げる時には、長崎においては、長崎奉行の指揮する土地の兵および新たに警衛のため出張してきた三百の幕兵らが勤王の藩士を捕縛する恐れがある。しかしながら勤王の藩兵は皆無で、ただ同志とする藩は、薩摩、大村の二藩そのほか芸州藩とか、宇和島藩とかであるが、いずれも長崎出張の役人または書生のみであるから、幕兵に対して戦争はできない。しかしながら藩の書生らは憤激して、暴挙に出るかも知れぬ。幕府に対して暴挙するならばまだしもだが、自然外国人に対して(暴挙に及ぶ)場合もないとは言えない。万一外国人に対して不都合でもあつたならば、一大事を引き起す恐れがある。故に外国人との交易等に関係する者は、この際に於ても少しも動揺せず、書生及び外国人に関係する小吏等は情勢次第でことごとく長崎を退去させ、自分は責任者なので、一人であっても居残り、幕府の処置に任せ、さうしたならば、外国に関係する者であっても何も兵に携はらぬ者まで幕府が捕縛するなどのことがあれば、自然幕府の暴挙となるようにしたい。もし我より外国人に対して不都合のある時は、幕吏に口実を与えることになるので、その辺を心配し、不都合のないよう処置するためである。
第二条は、
長崎は居留地であるから、外国人も多く、各藩からも役人書生が来ている。我が藩も書生が来ているし、また海援隊もあり、自然内外人の間でどんな不都合が起きるか分らない。それを取り締まるためである。
第三条は、
海援隊はもともと脱藩人の集合体である。我が藩ばかりではなく、他藩人もおり、このような集合体であるから、藩からは何も手当はない。後藤が長崎にいる時、藩の名を許しているだけであつたが、坂本龍馬が隊長で、輩下には激論家が多いところからして、自然土州の海援隊と言って、他からも嘱目され、長崎においては勢力がある。交際そのほか体面上已むを得ざる費用が多いが、もしこのうえ財政の方が窮迫して来れば、不都合もしかねまじき状況であるから、本藩より手当てを支給したならば、現在の時勢に必ず藩の役に立つ見込みがあるので、申し立てたのだ。
第四条は、
いろは丸と紀州藩船との衝突事件で、紀州より岩橋轍助が長崎に出て来て、償金の値下げを申し込んできた。この件は、自分は最初関係なく、後藤(象二郎)・坂本(龍馬)の両人で取り扱ったことにつき、なにぶん後藤と相談しなくては決定しない件なので、紀州人の三宅精が上京し、後藤に面会するとのことだ。彼の藩(紀州)の状況を知らせるため橋本喜之助に詳細を言い含めて派遣したのである。
第五条は、
土州名・横笛船を薩摩に向かわせた件で、長崎奉行が定めた規則を破った件である。運上所で取り調べを受けたとき、不都合のかどがあって、海援隊の者二、三名および岩崎弥太郎も関係して、追って国許へ送り返すべしとの達しが(奉行所から)あった。もっとも、追ってということで、それまでは長崎に留め置くことになり、弥太郎は土佐商会の用向きや外国人との取引があるため、はなはだ困却しているので、早く処置をするようにしばしば長崎奉行に申し立てた末、後藤へも通知したのである。
第六条は、
土佐商会の取引の件につき、弥太郎が後藤に直談しなければならぬ件があるのだが、前述のように弥太郎は長崎の外に往来できない状況となっているので、(奉行所に)隠れて上京したいということであるが、もし奉行から呼び立てなどがあったら不都合である。これまで外国人と我が藩の人間との間で起きた二件とも勝利となっているが、僅かなことのために落ち度があっては、せっかくのこれまでの勝利も水泡となるし、後藤も近々長崎に出てくるから(弥太郎を)留め置いていたが、外国人との取引であるからやむを得ぬ次第となって、(奉行所に)無断で弥太郎の上京を許可した。土佐商会の頭取は後藤であり、しかも後藤は参政で、参政は会計をつかさどるゆえに土佐商会も支配している。自分は大監察で、商会はもちろん、会計に関係ない職務であるから、取引上のことは関係ない。しかしながら職掌上、商会の者であっても進退のことには最も関係があるのだ。自然、商会の相談も内輪ではあるが、決行することは出来ないので、後藤に岩崎が面会の上でなければ物事が進まぬことであるから、仕方なく密かに上京させたのである。
第七条は、
ただ今のところ、国産としては樟脳を輸出して西洋の船艦砲銃を買い入れているが、とても十分の見込みはない。よって、材木を売り出すことができれば、利益が上がるようだ。土佐の深山には良材があるので、何とかそれを売り出す工夫はないものかと考えたが、今日、適当な人材がなく、よって外国人を雇い入れることが良策であるが、世間では攘夷論が盛んなときに、猥りに手を出すと、どのような変事も起こりかねない。よってまことにやむを得ずまた外国人を雇い入れても、国辱国害にならぬ道理を有志者に説得するには、京都の情勢より説いて、容堂公の思し召しをもって着手すれば行われようか。しかしながら、よほどうまくことを運ばないと、かえって藩のためにならぬ。ついては後藤が長崎に出てくるのを待って、とくと相談したいと、自分はずいぶん(実現の)見込みがあるので(弥太郎を通じて後藤にそう)言ってやった。
第八条は、
外国人との談判は通訳を介してするが、なにぶん意気(事をやりとげようとする積極的な気持ち。気概。いきごみ=デジタル大辞泉)が貫徹せず、のみならず不安心なことも少なくなく、かつ外国の事情も分からないと何事もできない。このため数十人を西洋に行かせたいが、第一に人心に大いに関係し、かつ費用の点もあるので、まずもって長崎の書生の中から四、五人も西洋に派遣すれば、人心にも関係することが少なく、費用の点も都合がつくだろうと思う。しかしながら財政に関係するので、後藤と相談の上でなくてはできず、そのため手紙を書いたのである。
同夜、藤屋に集まり、九ツ時(午前零時ごろ)前に帰宿。高橋安兵衛が(高行の下宿に)止宿。今日、金二十円を海援隊にやった。金三十円を喜之助に渡した。金百円を土佐商会より受け取った。写本三部を受け取り、二部を喜之助が持っていった。
【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、寺村左膳(てらむら-さぜん1834-1896)は「幕末-明治時代の武士。天保(てんぽう)5年6月24日生まれ。寺村成相(しげみ)の3男。土佐高知藩士。公武合体論をとなえ,山内豊信(とよしげ)の大政奉還建白副書に後藤象二郎らと署名。鳥羽・伏見の戦いへの参戦に反対し,蟄居(ちっきょ)となる。のち日野春草と名のり山内豊範(とよのり)の家令などをつとめた。明治29年7月27日死去。63歳。名は成範,道成など。」】
【注③。この手紙を書いた経緯について『佐佐木老候昔日談』にはこう記されている。
「土佐は長崎とは深い関係を持つて居る。前に云うた様に、後藤が商会を建てて外国貿易をやり、坂本が海援隊を組織して、大に活動して居る。然るにこの十月頃になつては、両人とも上京して留守である。京都の方が忙しくて、長崎に帰ることも出来ぬので、藩務の方も渋滞して来る。自分は、一体問題が済めば帰国の筈で、諸事規則外の取扱を受けて居るが、さういふ事情であるものだから、自然其の方を処理せねばならぬ羽目になつて、中原に出ることも出来なくなつた。で十月二十三日付を以て御仕置役兼任を命ぜられ、十一月初旬其の辞令を受取つたが、事実上はこの前から、其の仕事をして居たのだ。蒸気船の売買修繕、兵器其の他器械、石炭の輸入、樟脳及び国産の輸出等、悉く長崎でやるので、モウ三四千円位の手形は外人の中に融通は出来るが、後藤のやりかけた仕事ではあるし、自分が新らしく之に関係することとなつたに就いては、其の方針も定め、また当面の問題も打合せなければならぬ。そこで十月十三日橋本喜之助を使者として京都に遣し、吉村、後藤等に打合せをした。」】
一 本月、島村雄二郎・田所安吾を帰国させるよう長崎奉行所より達しがあった。
右は、去る九月十一日、諏訪神社の御祭典の際、波止場で神輿を拝もうと、早朝、島村雄二郎・田所安吾の両人がやってきたとき、丸山町の遊女二、三人が同じようにそこに来た。そのとき英米人両名が狼藉がましいことを仕向けたので、(島村・田所の)両人がそれを制したところ、英米人が杖で無法に攻撃したため、雄二郎が刀を抜いて英米人に傷を負わせた。それで騒動になって、しばしば談判したところ、(当方の)勝利になったように見え、本文の通りの通達となった。一同大いに安心した。
[参考]
一 同十三日、将軍が戸川伊豆守(幕府の大目付)に我が藩の意見を訊かせた。
我が皇国の歴史的な沿革を考えるに、昔、朝廷の権力が衰え、藤原家が政権を執り、保元・平治の乱で政権が武門に移ってから、我が祖宗(徳川家康)に至り、さらに(皇室の)寵愛を受け、二百余年も父祖が政権を受け継いできた。我もその職についたが、その政治や行刑の当を失うこと少なからず、今日の形勢に至ったのも、畢竟不徳の致すところで、全く恥ずかしく、恐れ入る次第である。ましてや最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、朝廷に権力をひとつにしなければ、もはや国の根本が立ちがたいので、従来の旧習を改め、政権を朝廷に返し、広く天下の公義を尽くし、(天皇の)聖断を仰ぎ、心を一つに協力し、共に皇国を保護すれば、必ず海外万国と並び立つことができる。我、国家に尽くすところはこれに過ぎない。なお、(これについて貴藩に)意見があるならば、いささかの忌諱を憚らず言ってくるように。
十月十三日
一 十月十四日、雨、高橋安兵衛・石田英吉・小田小太郎が来た。夕方の七ツ(午後四時)ごろより、由比畦三郎・本山武三郎・平野富次・木村らに別れの盃。夜、四ツ(午後十時ごろ)前、安兵衛を同伴して帰途、西川に立ち寄り、安兵衛はそのまま止宿、今日も藤屋で別れの盃。
一 京都より岡内氏の書簡、次の通り。
京都よりお手紙を差し上げます。いよいよ御安泰でいらっしゃることとお喜び申し上げます。私どもの一行は高知を出ましてから、その前日に報告しました通り、いよいよ五日に浦戸を出帆、[かねて借り入れておりました藝藩船・震天丸に一同乗り込み]乗り組んだのは野本平吉殿・坂本龍馬・私・中島作太郎・戸田雅楽そのほかの者です。浦戸港外に進んだところ、おりから波が荒く、水先案内の航海に熟練した土佐人が言うには、一度船を引き戻し、一両日天気を見合わせたいとのことでしたが、なにぶん急ぎの用事がありますし、かつ、藝藩の乗組員は南海の模様は知りませんし、私どもももとより航海等のことは熟練しておりませんので、水先案内の申し出を拒み、強いて船を進めましたところ、いよいよ波が荒く、とても進むことができず、ようやくにして室津港まで進み、同港に碇泊しました。すると果たしてさらに風浪が強くなり、その夜は怒浪となり、ほとんど船が沈もうとするありさまで、たちまち機関が壊れ、とても大坂まで航海ができず、やむを得ず破損箇所を繕い、やっとのことで須崎港まで引き返し、[浪潮の都合により浦戸港に入れず]乗組員全員が上陸し、ただちに昼夜兼行で須崎より高知に赴き、[龍馬そのほかはことごとく須崎に留め置く]、この難船のことを(藩庁に)申し出ました。幸いに浦戸港内に外事船[胡蝶丸](薩摩藩が英国から購入した鉄製の蒸気外輪船)が居合わせているのを幸いに、この船を(震天丸の)替わりに差し向けることになり、直ちに私一人が乗り込み、須崎港に廻し、震天丸に乗り込んでいた藝藩人らが乗り組んで、残りは須崎に残しておいて、私ども一行はこの胡蝶丸に乗り換え、ただちに須崎港を出帆して、大坂に赴きました。折りから同志の上田楠次(注④)という者がこの船に事務係として乗り組んでおり、幸いなことに龍馬からも楠次に将来のことをいろいろ言って聞かせ、いよいよ京都で事が起こったときは、神戸にある石炭を船に積めるだけ積むことに注意するよう、軍艦には石炭が肝心であることを告げるなどしました。そのとき石川誠之助(中岡慎太郎のこと)が楠次をからかう手紙を送って来ていて、それを見せられ、龍馬とともに笑いました。その手紙にはこうありました。
君は京に来ておってお帰りになったそうだがどうなのだろうか、最近は音沙汰がない。いったい同志の何のと言っても、一時の血気にはやった慷慨は決して恃むに足らずか。また志を立てて、若くして望みを持つのは早く、世を憂うの志が深くないのだろうか。いや、そのはずはないだろう。蠖屈(尺取虫が伸びるために一時からだをちぢめること。また、人がそのように身をかがめちぢめること。将来の雄飛に備えて慎み深く世を渡ることにもいう=精選版日本国語大辞典)龍伸(※時機が来れば龍のように志を伸ばすという意味か)は丈夫の志、深謀遠慮は人に知られることになるだろう。頓首。
七月十日 鈍正
短躯巨口先生
坐下
上田楠次様 石川誠之助
とありました。御一笑に供するため写して差し上げました。
【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、上田楠次(うえだ-くすじ1837-1868)は「幕末の武士。天保(てんぽう)8年2月18日生まれ。土佐高知藩士。間崎滄浪(そうろう)にまなぶ。土佐勤王党にくわわり江戸で活動。戊辰(ぼしん)戦争では東山道総督に属し,下総(しもうさ)流山(千葉県)で捕らえられた近藤勇を板橋本営に護送した。慶応4年4月18日戦死。32歳。名は元永。幼名は寅治。変名は江口大蔵。」】
(続。岡内の書簡はこの後もまだ続きます。毎度のことながら、誤訳がいろいろあると思われますので引用・転載はご遠慮下さい)