メディアと知識人第一回
だが、1980年代の終わりになって、冷戦体制が終わる、ソ連の国家社会主義体制が終わるという状況になって、変化が起こってきました。これまでのあり方はそのままでは維持できない。変わらなければならないということになりました。アメリカが一人勝ちしたようにも見えましたが、今から考えてみますと冷戦が終わった段階で、アメリカの体制も相当程度傷ついていたと考えるべきではないでしょうか。それがおくれて、今日のアメリカの混迷になって出てきていると考えられます。一見するとアメリカに非常に力があって世界をリードして支配していくように見えましたが、それは一種の幻想であったということがいまでは明らかと思います。冷戦が終わった段階で、アメリカも含めて変わらなければならなかったのだと思います。
代わりに出てきたのはアジアが台頭してくるということでして、中国やインドや東南アジアが上がってきました。アジアが全体として台頭していますが、アジアの中で特に悲劇的に危機的状況に入ったのが北朝鮮です。社会主義が終わることによってソ連との関係がダメになり、重油が入らず経済的には完全に破壊的な状態に陥りました。アジア全体が台頭しているのに北朝鮮は危機であるというのが今日の特徴です。
国内的には55年体制が終わって、自由民主党の永久執権状態ではなくなりました。細川連立非自民政権ができたかと思うと、自社さ連立で社会党の総理大臣が誕生するということもありました。そういう状況の中で問題となったのは憲法問題でした。つまり憲法9条のもとに自衛隊があって専守防衛だと言っているだけでは済まない状況があらわれました。地域的な紛争は多く起こっている。世界戦争の時代は去ったが、むしろそうであるだけ、地域的な戦争が激発する。そういう状況ですので、自衛隊の海外業務が問題になってくる。そういう状況になってきて、憲法と自衛隊の関係をどう考えるべきかが問題になったのです。
社会党の村山総理は、日米安保と自衛隊を丸呑みしました。自由民主党の論理を丸呑みしたので、社会党の支持者が逃げて、社会党はつぶれたような状態になってしまいました。村山さんは明らかに一つの解決策を出したのですが、そのようには変われない人がいたのです。もう一つは歴史問題です。歴史問題はずっと自由民主党が回避してきたわけですが、それはもう回避できなくなった。東アジアの熱戦がおわって、米ソ冷戦が終り、アジアが台頭してくれば、アジアと日本の関係において、日本がアジアへの侵略に対してはっきりした態度を示す必要が出てくるのです。どうしてもそれが避けて通れなくなったわけです。
両方合わせれば、歴史問題をはっきりさせずに自衛隊を海外に出すことはできないわけです。つまり過去の戦争を否定すること、過去の侵略を否定することがはっきりして、そういう歴史とは完全に切れているということになって、初めて、新しい意味で自衛隊を国の外に出せるわけなのです。したがって歴史問題はそういう意味でも非常に重要な問題になったのです。そしていまや地域の協力が非常に問題になっている。北朝鮮の問題があります。北朝鮮の問題を考えれば、ロシアと日本の新しい関係が必要だということになる。そうなれば、北方領土問題が重要になってくる。北方領土問題は冷戦時代には解決しないから意味のあった問題でした。解決しないから日本とソ連の関係が緊張し、日本とアメリカの関係が仲良くなるために役立っていたわけです。冷戦後の新しい状況では、領土問題を解決して日本とロシアの新しい協力関係を作って地域に貢献していくということが必要になる。そういう意味で新しく問題がさまざまに出てきたということではないかと思います。そこで知識人の新しい役割が必要とされることになりました。
知識人は社会党の万年野党の体制の中にいました。ある意味で言えば、冷戦期においては気楽に政府を批判しているところがありました。しかし今や知識人は責任をもって日本の国家、日本の国民がこれからどういうふうに生きなければならないかということについて、考え、道を見出すために貢献していかなければならなくなったのです。単純に社会党の支持者にとどまっているということでは済まない状況になったわけです。そういうことに迫られる情況が出てきた。80年代末とはまさにそういう時期だったと私は思います。
そういう80年代末に出てきた二つの問題について私はどう考えたかということを、これからお話ししたいと思います。