メディアと知識人第一回
それで『世界』(86年12月号)に「『北方領土』問題についての考察」という論文を出しました。この雑誌は80年代はじめから私に韓国問題について論文を書かせてくれていましたので、「世界」の編集長の安江良介氏に頼んで書かせてもらったのです。私が書いたことは、領土問題は解決しなければならない。領土問題を解決するためにはどうしたらいいか。それを考えるには、三つの前提がある。第一は、日本人は四島を返してほしいと思っている。なぜかというと、それは日本とロシアが幕末に初めて国交を樹立したとき、択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間に国境線を引いたのだ。あの1855年の日露通好条約は、ある意味では日本人とロシア人の麗しい友情に満ちた関係で結ばれた条約であって、そこで引かれた国境線に戻りたいという日本人の願いの中には、ロシアに対して侵略的な気持ちも、報復的な気持ちもない。四島を返してほしいという日本人の気持ちは、日本とロシアの国交の原点、友好の原点に戻りたいということなのだ。
第二は、ソ連側の見方です。日本とロシアは日露戦争を戦って、ロシアはサハリンの南半分を取られた。そして一九四五年の日ソ戦争でソ連は南サハリンを取り戻し、こんどは千島を獲得した。戦争でお互いの領土を取ったり取られたりしてきた歴史がある。現状は既成事実であって、これを変えることは大変だ。変えるべきではない。戦争でできた既成事実を変えるということは関係を混乱させる。だからこの現状を守りたいという気持ちがロシア人の側にはある。日本人としても、この気持ちは理解できる。
第三は、サンフランシスコ条約で日本はクリル諸島を放棄している。一方、歯舞、色丹は放棄しないと吉田茂(首席全権)は会議の席上発言している。そしてソ連は1956年の日ソ共同宣言で平和条約調印後に歯舞、色丹を引き渡すと約束しているという事実がある。これは両国間にある国際法的なとりきめである。
この三つの前提から出発して、解決策を考えるとすれば、結局のところ第三の前提からして、択捉、国後はロシアの領土だと認めるしかないだろう。歯舞、色丹は約束通り日本に渡してもらう。しかしそれでは第一の前提である日本の国民の希望が満たされない。1855年の原点に戻りたいという気持ちが生かされない。それを生かすには、主権は分かれるが、四島を日ソで共同経営する、ということにすべきではないか。
四島共同経営の原則として、まず第一に四島を非軍事化する。軍隊は置かない。第二に両国民がこの4島には自由に往来できるようにする。そして第三に資源、環境を保護する。第四に共同経済開発をする。こういうことでやったらどうかと。お互い国境を乗り越えて協力関係に入っていくことが、新しい世紀にとって必要ではないか。問題を解決していくことが何よりも望まれるのは、日本とソ連が第2次大戦末期に戦争をして最大の被害を受けたのは、ソ連参戦の結果、国土が分断された朝鮮の人々だからだ。今日でもそこから問題が発生している。だから日本とロシアが領土問題で話をつけることが必要になるのだ。日本とロシアが互いに協力し合って朝鮮人の問題を解決するために貢献することが求められているのではないか。こういう論文でした。私なりにいろいろ考えて案を出しました。
それを朝日新聞の記者の白井久也氏が読んくれて、「私の言い分」という欄に出してくれたのです(87年11月30日付)。私はあまり恐怖は感じていませんでしたけれども、すぐ電話がかかってきたのは有名な村山七郎先生(1908~95、言語学者)からでした。「右翼から攻撃が来ませんか」とお尋ねになったのです。
もっとも、私の『世界』の論文が11月に出る前に、共同通信がその論文のことを記事として配信しています。「国立大学の教授がこういう論文を出す」という趣旨の記事で、私とだいぶ立場が違う人ですが、東京外国語大学教授(当時)の中嶋嶺雄さんが『現代』に書いた二島返還論も一緒にとりあげています。つまり、期せずして国立大学の教授が2人も2島返還がらみの論文を書いたとして、共同通信が記事にしたわけです。共同通信の記事は、『世界日報』という統一教会系の日刊新聞の一面トップで取り上げられました。まだ『世界』その号が出る前の話ですよ。ゲラの段階で読んだのでしょうね。私は「大変な騒ぎになっているな」と思いました。
私が書いた『世界』の論文については、すぐそちらの系統の議員が質問をして、中曽根首相が「二島返還を要求する気などない。4島返還の要求は守る」と答弁しているわけです。私の論文が出る前にそこまで行ってしまっていたのです(以下、国会議事録より該当部分)。