読み物スクープした記者が明かす 恐怖の「胆管がん多発事件」はなぜ起こったか

▼バックナンバー 一覧 2012 年 12 月 6 日 立岩 陽一郎

■厚労省は「他国の行政機関の判断で日本が動くことはない」と

  このような動きについて、化学物質の安全な利用を推進するNPO 「American Council of Science and Health」代表のギルバート・ロスは次のように話した。
「動物実験で発がん性が認められれば、人間への発がん性の恐れは当然出てきます。仮に雇用主が、そのことを現場の労働者に警告せずに1,2-ジクロロプロパンを使わせ、労働者ががんを患ったら、政府の罰則と共に巨額の損害賠償を払うことになります。誰もそんなリスクは取れないので、結果として、発がん性の疑いが出た物質は市場から退場せざるをえなくなります」
 なぜ、アメリカの情報は日本にもたらされなかったのか。厚生労働省に尋ねた。
 取材に応じたのは、化学物質対策課長の半田有通。旧働省時代から化学物質の問題に携わってきたその道のスペシャリストだ。半田は言った。
「NPTの実験結果は、発がん性を指摘するには不十分なものでした」
 半田の言葉に、補佐の搆(かまえ)健一が付け加えた。
「報告書を読まれたと思いますが、マウスではがんが見つかっていますが、ラットでは、見つかる前に死んでしまったりしています。ですから、あれの結果で、人への発がん性の恐れ(がある)という結論にはなりません」
 実験結果をどう判断するかは容易ではないというのはわかる。半田は「発がん性の判断には厳密さが求められる」と語った。確かに、そのこと自体に納得できないわけではない。
 では、EPAが暫定的とは言え、「人への発がん性の恐れがある」と分類した点についてはどう受け止めたのだろうか? 半田は次のように言い切った。
「EPAの判断というのは、それがどういうものであっても、他の国の行政機関の判断であり、我々が参考にすべき客観的なものとは考えていません。もちろん、NPTの実験結果は客観的な事実ですから、我々も参考にします。その結果、発がん性は確認できないと判断したわけです。しかし、繰り返しになりますが、他の国の行政機関がどう判断したかで我々が動くことはありません」
 半田は、「発がん性の指摘は慎重でなければならない」と強調した。因みに厚労省はがんを漢字で表記しない。漢字で「癌」と書くと、英語の「cancer」、つまり狭い意味でのがんだけを意味するからだという。「がん」と平仮名表記することで、「malignant neoplasm」(悪性腫瘍)という、幅広い意味での腫瘍を表したいのだという。
 その説明一つとっても、厚労省ががんの問題に誠実に対処しようとしてきたことが窺える。そうであれば逆に、胆管がんの連続発症を防止できなかったことが悔やまれる。

 ■「職場の化学物質でがんになった」と知らずに死亡した人々

  アメリカで1,2-ジクロロプロパンが発がん性物質とされた後、日本はどう対処したのか、事実関係を簡単に述べておこう。
 2000年になって、ようやく旧労働省は思い出したかのように、1,2-ジクロロプロパンについてのがん原生試験を開始した。そして2005年、マウスとラットの双方にがんを発見。その試験結果を有識者会議で検証し、2011年に入って、「哺乳類を使った実験で発がん性を確認した」と発表している。
 アメリカで人間への発がん性が指摘されてから、実に20年以上も後のことだった。
 厚労省は毎年、「人口動態統計」というデータを発表している。それを見ると、年間にどの病気で何人死亡したかがわかる。この統計によると、2011年の1年間で、全国で胆管がんで死亡した人の数は1万3707人となっている。
 若い人には稀な病気だとされるが、実際、20歳以上、50歳未満の胆管がんによる死亡者数は701人だった。全体のわずか5%。
 過去のデータをたどっても、ほぼ同じくらいの数字で推移している。基本的に、50歳未満の人が胆管がんにかかるのは珍しいと言えそうだ。
 胆管がんによる死亡者のうち、労災が申請されたケースはあるのだろうか? 厚労省に問うと、ないとのことだった。
 おそらく、職場の化学物質によって胆管がんが引き起こされたと知らずに死んでいった人たちが、SANYO-CYP関係者以外にもかなりいるのではないか。実際、そのことを示唆する調査結果が出始めている。
 新聞がこの問題を活発に報じ始めると、各地で胆管がん被害の報告がなされるようになった。最初は宮城県。続いて東京、石川、静岡の3都県。
 また、厚労省は全国の印刷会社に立ち入り調査を行った他、アンケートなどで職場の状況を調べた。そこでは、会社の従業員や元従業員の中に胆管がんを罹患した人がいないかどうかも問うている。その結果、SANYO-CYP以外の印刷会社で、22人について胆管がんの情報が寄せられたという。
 また、胆管がんについて労災を申請する人も出てきて、その数は10月9日時点で45人。ただし、印刷会社で胆管がんにかかった22人とこの45人の間に、重複している人がいるかどうかはわからないという。
 厚労省も、これまで出てきた胆管がん患者がすべてだとは思っていない。「これ以上は(胆管がんにかかった印刷会社関係者が)出てこないと思いますか?」と問うと、半田は「そう願いたいところだが、とてもそうは思えない」と率直な心情を吐露した。
 そもそも当初から、厚労省の調査に限界があることはこの関西労働者安全センターの片岡明彦らから指摘されてきた。その指摘が正しいことは、すぐに証明された。

 ■先進国でなぜこんな事態が放置されてきたのか

  9月、三重県に住む男性が記者会見を開いた。胆管がんを発症して治療を続けているという。
 彼は1984年から95年まで印刷会社で働いていた。職場で使われていた洗浄剤は2種類。1つにはジクロロメタンが、もう1つは1,2-ジクロロプロパンが含まれていた。SANYO-CYPのケースと同じである。
 状況から考えて、いずれかの洗浄剤によって胆管がんになった疑いが濃い。しかし男性は、厚労省のアンケートからは漏れていた。彼が勤めた印刷会社がすでに廃業していたからだ。
「私のように会社が倒産してしまったところで働いていた人間は、絶対に国の調査では把握できませんよ」
 男性はそう言い切った。彼の話では、その会社で一緒に働いていた仲間は10人余り。全員が男性と同じように有害な化学物質にさらされていた可能性は極めて高い。
 記者会見の数日後、その男性を三重県に尋ねた。彼が胆管がんの治療に使った医療費はすでに300万円を超えているという。その中には粒子線治療も含まれる。
 そして抗がん剤。副作用で常に吐き気に苦しみながらの生活が続く。
 今後、いくら治療費がかかるかもわからない。当然、妻も働かざるを得ない。男性は言った。
「この先進国の日本で、ですよ。こんなことがずっと放置されていて、今後も何も変わらないなんて……。そういう事実が僕には本当にショックなんです」

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