読み物スクープした記者が明かす 恐怖の「胆管がん多発事件」はなぜ起こったか
■妻のために、絶対に元気でいなきゃいかんのです
洗浄剤について語ってくれた前出の大成幸司は、大阪市内の下町の小さな町工場で父親と二人、金具を作っている。訪ねていくと、大成は忙しく機械の間を動きながら、製造工程に間違いがないかを見守っていた。
父親は椅子に腰かけて、手製の金具を作っていた。母親がアイスコーヒーを出してくれた。
大成の父親は、もともと金具を製造する会社に勤めていた。大成がSANYO-CYPを辞めるとき、父親は勤めていた会社を辞めて独立した。「息子に仕事をさせてやりたい」と思ったからだった。
以来、銀行の融資などで機械を揃え、親子で金具作りに励んだ。出来の良さと納期厳守の徹底で取引先の信用を得て、不況の今でも注文が途切れることはない。銀行からの融資はまもなく完済する。
休憩時間になり、機械を離れた大成が話し始めた。
「何とかやっていますけど、今も不安と闘う日々です。いつ肝臓の数値が悪くなるかわかりませんから……。家族と一緒にいて、楽しいことがあっても、本当に心の底からは笑えない。常に不安を背中に抱えているという感じです」
両親は黙って大成の話を聞いている。大成は両親の家の近くに、夫人と中学生の息子と小学生の娘の4人で住んでいる。
夫人は笑顔の素敵な女性だ。いつ取材に訪れても、嫌な顔一つせず、大成を呼んでくれた。
「このニュースが流れて、奥さんから何か言われませんか?」
という私の問いに、大成は静かに答えた。
「彼女も胆管がんで死んでいった仲間を知ってますから、そりゃ不安だと思うんですよ。でも、僕には何も言わないんです。だから、彼女を絶対に心配させちゃいけない。絶対に元気でいなきゃいかんて思うんです」
一方で、こうしている瞬間にも病勢が進んでいる人もいる。大阪市のある総合病院に、SANYO-CYPの元従業員がやはり胆管がんで入院している。点滴をつけたまま弱々しく歩く彼は、目も顔も、すべてが鈍い黄色に覆われていた。強い黄疸の症状だ。生体肝移植しか生きる術はないという。
あまりの衰弱ぶりに驚きつつ来訪を詫びる私に、彼は言った。
「もう来ないでください。僕は必死なんです」
私は短く謝罪の言葉を述べ、立ち去るしかなかった。
■ほとんどの化学物質が野放しになっている社会
10月12日、検査入院をしていた本田真吾が退院した。東京にいた私は本田に電話を入れた。
医師からはまだ、明確な検査結果は告げられなかったという。腫瘍が他にも見つかったらしい。さらに検査をする必要があるのか、手術は必要なのかといったことも、医師からの連絡待ちだという。
「不安なのは、検査結果がわからないことではなく、最近、急激に疲れやすくなっていることなんです。今まで、こんなことはなかったのに……」
数日後、再び本田から電話が入った。手術をすることになったという。
「かなりの部分、肝臓を切り取るそうです」
「本当に手術を受けるの?」
「手術、します。それしかありませんから」
切除するのは胆管だけではすまない。胆管は肝臓の内部に入り込んでいるため、肝臓のかなりの部分を切り取ることになるのだ。30歳の若者にとって、あまりにも重すぎる決断だろう。そのせいか、「迷いはない」と言う本田がなかなか電話を切らない。
私が「また連絡しますから」と言って電話を切ろうとすると、本田は急に我に返ったように「あっ」と声を出した。そして「手術日が決まったら連絡します」と言って電話を切った。彼の心の動揺が伝わってくるようで、辛くてたまらなかった。
神奈川県秦野市に、化学物質の発がん性を調べる施設がある。日本バイオアッセイ研究センターだ。
前述の1,2-ジクロロプロパンの検査も含め、国は、化学物質による発がん性の検査をすべてここで行う。世界でもトップレベルの設備を誇るという。
この研究センターを取材した記者の報告を聞いて驚いた。世界トップレベルの施設なのに、発がん性を検査できる化学物質は、1年間で2種類ほどだという。ところが、新たに登場する化学物質は、1年間に1200種類もあるのだ。
もちろん、動物実験などには時間も手間もかかるので、一度に多くの検査ができないのはやむを得ない。しかし、調べられる物質が年に2種類で、新たに出現する物質が1200種という差には愕然とした。
言うまでもなく、毎年登場する1200種類の化学物質すべてに発がん性があるわけではないだろう。しかしそのほとんどが国の検査を受けることなく製造側の提出したデータによって流通していることは強調しておきたい。少なくとも、私たちがそういう社会に生きているということは知っておいた方がよい。
今回の胆管がん多発事件については、有毒な化学物質が引き起こしたことが明らかになった。しかし、他のどんな化学物質が、いつ、どんな形で私たちの肉体に襲いかかるかは誰にもわからない。ひょっとすると、それはもう、どこかで始まっているかもしれないのである。