月刊日本佐藤優×山崎行太郎 憂うべき保守思想の劣化!
保守思想は複数の真理に耐えよ
佐藤それは世界史の問題でもあります。日本にとって元寇という出来事は、国家存亡の危機であり、歴史に大書特筆すべき事件だったけれども、チェコにとっては瑣末な出来事です。チェコにとって17世紀のビーラー・ホラ(白山)の戦いは後の三十年戦争の原因となる歴史的大事件ですが、これは日本から見た歴史においては大した意味を持ちません。このように、立ち位置が異なれば、見えてくる世界、歴史も異なります。そしてそれらはそれぞれにとって、真理なのです。
同様に沖縄の集団自決問題も、立場が違えば受け取り方も異なってきます。手榴弾を渡されたという事実にしても、投弾訓練もせずに配られた側からすれば、これは自決せよという意味だな、と受け止めるのは当たり前です。人間は偏見から逃れることはできないということをイギリスの保守主義者エドマンド・バークは指摘しましたが、そのことを日本で保守主義者と自己規定する人たちはもう一度真剣に考えてみる必要があります。複数の真理に耐えうることができなくなっているというのは、日本の右翼思想、保守思想の伝統が危機に瀕していることの証左と私は認識しています。
山崎そうです。私もそう思います。保守思想が、硬直したイデオロギーに堕してしまっているんですよ。こうでなければならない、かくあらねばならい、と硬直した理論や思想に成り下がっている。私は文芸批評家として小林秀雄を読み込んできたつもりですが、近代保守思想の元祖とも言うべき小林秀雄にはランボー論やドストエフスキー論、マルクス論、あるいはモオツァルト論、本居宣長論というような、各論はありますが、イデオロギー的総論はありません。小林思想ここにあり、というような体系的な理論書はありません。小林秀雄はマルクス主義という当時の流行思想との理論的対決を経て、マルクス主義を論破することで近代批評というものを確立した人ですが、マルクス主義に対抗できるような理論体系を、つまりイデオロギーを構築したわけではありません。これは、小林が思想家として劣っていたということではありません。保守思想とは、元々そういうものでしよう。それを、江藤淳は、保守とは感性であると言っていましたね。理論や思想を共有することは容易ですが、感性を共有することは容易ではない。
佐藤それは、私の言葉で言えば否定神学の方法ということですね。「神とは~である」と肯定文を用いるのではなく、「~ではない」と否定文を重ねていく方法です。肯定文があって初めて否定文があるのですから、否定神学的方法論は既に出された個別の事象に対して批判し、否定していくものです。小林秀雄については残念ながら私はきちんと読んでいないので、疎いのですが、バークにも同じことが言えます。バークの主著は『フランス革命の省察』ですが、これは表題の冒頭部分で、その後に「その事件(フランス革命)に関するロンドンのある諸団体に与える影響について。パリの紳士に送ろうと意図した手紙において」と続きます。この後段が大切なのです。要するに、「フランスでとんでもないことが起こったが、これが我がイギリスに波及しないためにはどうすればよいか」という論文なのです。やはり、個別の事象に対して「否」を突きつけるという形で保守思想は表現されるのです。