月刊日本佐藤優×山崎行太郎 憂うべき保守思想の劣化!

▼バックナンバー 一覧 2009 年 6 月 12 日 山崎 行太郎

保守言論人は「畏れ」を知れ

 
山崎畏怖という感覚の欠如ですね。不思議なことに左翼側の柄谷行人のような人は、『畏怖する人間』という著書もあるぐらいですから、夏目漱石や小林秀雄、マルクスを論じながら、その人知を超えたものへの「畏怖」という感覚や、「心理を超えたものの影」をさかんに主張しているわけです。柄谷行人は、人間の意識や知性には限界があり、確かに人間には見えないものや考えられないものがあるが、それを皮膚感覚を通して見つめようとしたのが夏目漱石や小林秀雄やマルクスだったと主張するわけですが、逆に最近の日本の保守思想には、天皇とか尊皇、皇統というような言葉が頻繁に使われている割には、そういう超越的なものへの畏怖感覚が存在しないですね。むしろ、天皇や皇統という言葉が忘れられ、誰もが口にしない時にこそ、実は日本人の心の中心に天皇や超越的なものへの畏怖感覚があるのかもしれません。三島由紀夫は、保守派からは天皇主義者のように見なされているわけですが、厳密に言うと三島由紀夫という人は無神論者であり、天皇というものはない、ないからこそ天皇という絶対的な価値に対する憧れと必要性が発生するわけです。それこそが本当の尊皇精神でしょう。皮肉なことですが、たとえば左翼の論客・柄谷行人の方が、最近の保守論客達よりも実は尊皇精神があるのではないか、と思います。

佐藤私もそう思います。私は別の仕事で柄谷行人さんと対談を重ねていますが、彼の思想に超越的概念が存在していることを感じます。ただ、我々のように「天皇」や「高天原」といった神話の言葉を用いずに、「アソシエーション」「世界共和国」といった左翼的概念を駆使して超越的なものを表現しているようです。

山崎ところが肝心の右派の方はその畏怖の心、超越的なものへの意識を失って、そこに形だけの天皇主義が残っている状態です。天皇や皇統という言葉を用いずに、どうやって超越性を回復するか、それが右派のみならず、思想全般にとって大切なことです。そして、日本の思想がそもそも持っている、そして夏目漱石や小林秀雄を経て柄谷行人にまで受け継がれている超越的なるものへの感覚、それは日本独特の思想的ラディカリズムの結果として生まれてくるものだと思います。思考の過激さと言えばよいでしょうか。

佐藤思考の過激さと実践の過激さは違いますからね。むしろ、あまり考えないほうが過激な行動をとれるものです。山崎さんの話を聞いていて思うのは、日本にはそういう過激さがあるから、キリスト教が必要なかったのではないか、ということです。

山崎思考の過激さは、無神論に向かったり、無政府主義に向かったりすることもあるわけですが、私は、原理論的にはキリスト教も仏教も本質的なところでは無神論なんだと思います。無神論というとドストエフスキーを思い出すわけですが、日本ではドストエフスキーという作家は今でも大きな影響力を持つ作家で、あの難解な大長編の多くが頻繁に読まれている背景には、ドストエフスキー的思考の過激さが、日本人的な思考の過激さと何処かで合致するところがあるからではないでしょうか。私は、今、ドストエフスキーの「悪霊」論を書いているところですが、「沖縄集団自決裁判」とも無縁な話ではないですね。たとえば、「神が存在しなければすべてが許される」「偉大なる目的のためには殺人も許されるのか」という問題ですね。曽野綾子の『ある神話の背景』によると、渡嘉敷島では自国民である沖縄住民の虐殺が平然と行われるわけですが、曽野綾子は、それを当然のこととして擁護しています。逆説的な意味でなかなか面白い本です。

佐藤ドストエフスキーも唯物論者であり、革命家ですね。『カラマーゾフの兄弟』で言えば、私の理解では、あそこに出てくる登場人物は、ゾシマ長老もアリョーシャも含めて、唯物論者で無神論者です。しいて言えば、あの好色で俗物のきわみである父親フョードル・カラマーゾフこそが一番信心深いとも言えます。

山崎佐藤さんは、ロシアが専門ですから当然でしょうが、マルクスだけではなくドストエフスキーもよく読んでするようですね。いずれ詳しく伺いたいものですが……。ドストエフスキーは、皇帝殺しを画策する革命家の一味としてぺトラシェフスキー事件で逮捕され、シベリア流刑の後、表面的には保守主義的なキリスト教徒に転向して、革命批判的な反革命小説を書くわけですが、本質は革命家で無神論のままですね。「悪霊」にしろ「カラマーゾフの兄弟」にしろ、登場人物はほぼ無神論者ですね。しかしその無神論のドストエフスキーにこそ神が見えている。神が見えてしまった人には、もはや神は必要ない、神が見えない人こそが切実に神を希求するということですね。つまり無神論者の前にこそ神は現れる。同様の構造が、日本の保守思想にもあると思うのです。小林秀雄や江藤淳に先ほど触れて、彼らには「理論」も「思想」もないと言いましたが、しかし、理論も思想もないからこそ、そこに理論や思想の本質が見えてくる。何か「気分」や「感覚」や「伝統」としか呼べないようなものが存在することはわかる、わかるけれども、それを言葉で表現しようとすると消えてしまう。そこに人知を超えたものへの畏怖感覚というものが生まれてくるわけですね。作家が文体にこだわる、というのもその畏怖感覚と無縁ではありません。

佐藤わかります。それが本来の保守思想の原点だと思います。伝統というような、言葉で明示できないものをめぐって、ああでもない、こうでもない、と否定神学的に否定辞を重ねていく。だけれども結局、到達することはないから、保守思想は無限に思考を重ねていくことになるわけです。そうすると、現在の保守思想の問題点は明らかで、本来停止してはいけないはずなのに、思考が停止してしまっているのです。今の保守論壇での言説は、最初に結論を設定して、そこに至るためにどのような論理を構築すればよいか、という発想になってしまっています。まさに左翼的構築主義、設計主義です。プロットをかっちり固めて、そのためにどのような資料を集めてくるか、というような発想では駄目なんです。そうではなく、「おふでさき」のように、神懸り的に言説を立てられる人間が保守の側からこれからどれくらい出てくるか。

山崎「おふでさき」とか「神懸りの言説」とか、なかなか面白い比喩ですね。三島由紀夫は、「反革命宣言」で、「『よりよき未来社会』を暗示するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがえのない現在をして、すべて革命への過程に化せしめるからである。」と書いていますが、目的や結論を優先する思考は保守思想ではありません。目的や結論はどうでもいいから、その思考の過程にどれだけ真摯に取り組むか、というところに保守思想の真髄はある。そこに「作品」は生まれてくるわけで、言い換えればそこからしか作品と呼べるようなものは生まれてこないだろうと思います。小林秀雄は、芸術家は最初に「虚無」を所有する必要があると言っていますが、虚無を所有するとは、佐藤さんの言われるような、一種の神懸りになるということです。理論的な思考を突き詰めた先にある神懸りの言説、超越的なものを見据えた思考の過激さに満ちた神懸りの言説、そういうものがどれほど出てくるか。神懸りというのは突飛でもおかしなことでもありません。科学の世界でも、数学だろうが物理だろうが、発想、アイデア、発見というものは、みな神懸り的に何処からか突然に降りてきて、理屈はあとからつけるわけでしょう。

佐藤沖縄というのも神懸りの土地ですから、神懸りの人々を相手にするには我々も神懸りにならなければ駄目です。大事なのは、本土の保守派も一枚岩ではなく、山崎さんのような見方も存在すること、これが本来の右翼の考え方であることを、沖縄に伝えていくことが重要です。これが内地と沖縄の双方の血が入っている私の責務と考えています。それによって、沖縄における内地の右翼、保守派に対する忌避反応も大きく変わってくると思います。

(文責・「月刊日本」編集部)  

※「月刊日本」2008年3月号より転載

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