月刊日本佐藤優×山崎行太郎 憂うべき保守思想の劣化!
沖縄の人々は我が同胞である
――沖縄戦において、各自の立ち位置によって見えてくる真理が異なる、その複数の真理に耐えなければならないと佐藤さんは指摘されますが、それでは、どのような視座によって「耐える」ことができるのでしょうか。沖縄という具体的な問題に対して、「寛容と多元性の原理」という言葉では抽象的に過ぎるのではないでしょうか。
佐藤寛容や多元性は抽象的概念ではありません。具体的表象をもとにした議論に必ずなります。各人に見える事実をつなぎ合わせれば、タペストリーのように、入り乱れた紋様ができあがり、それがその人にとっての真実になります。だから事実が同じでも複数の真実が生じるのです。いずれにせよ根元にある事実は揺るぎません。それは、沖縄で、日本のために戦い、死んでいった人々がいるという事実です。我々はこの事実、そしてこの事実に対する畏敬と感謝の念から出発すべきです。沖縄の人々が日本を守るために死んでいったことを原点に置けば、我々が沖縄問題に対してとるべきスタンスは、「命を賭けて日本のために殉じてくれた人々の想いをきちんと受けとめなければ、日本が沖縄を排除するような、あるいは沖縄が日本から離反するようなことをさせてはいけない」というものになるはずです。少なくとも私はそう考えます。
沖縄で教科書検定問題に対する抗議集会に際して11万5千人が集まったの、いや、当局調べだと4万人だとか、航空写真で見ると1万数千人に過ぎないという論争がありますが、こうした数字という理性的要素を絶対視する左翼的思考に右翼が陥ってしまっている。ここに欠落しているのが、「沖縄の人々は我々の同胞である」という意識です。相手が中国や韓国であれば、それは外交的議題であり、相手の主張に誇張があれば、それを徹底的に衝いていくということになります。しかし、我が同胞である沖縄県民に対して中国や韓国に対するのと同じ態度で接してはいけません。もっと言えば、沖縄で11万5千という神話が成立してしまった背景に目を向けるべきです。
本来、沖縄にはあまり「沖縄」としてのアイデンティティーは希薄です。久米島であり、座間味島であり、渡嘉敷島といった、島ごとのアイデンティティーは濃厚ですが、沖縄という行政単位に対する帰属意識は希薄なのです。ところが、大江裁判、教科書問題という、本土(内地)から中国や韓国に対するような視座で批判されるようになった結果、「沖縄」という意識が醸成されつつあり、これは、放っておけば、沖縄独立論につながります。私はソ連崩壊の過程でどのようにバルト三国が独立したかを見てきましたが、同じことが沖縄でも起きる可能性があると思っています。その土地のエリート五十人ぐらいが独立を本気で考えれば、独立に振れてしまうのです。知事が総理になりたいと思い、渉外部長が外務大臣になりたいと思い、県会議長が国会議長になりたいと思い、県会議員が国会議員になりたいと本気で思うようになると、案外独立は早く実現します。
外務省というところで行政官をしていた悪い癖で、損得を勘定してしまうのですが、沖縄が独立した場合、尖閣諸島のガス田とEEZ(排他的漁業圏)の漁業権による収入で、クウェートのような国家として、沖縄は独立可能でしょう。そして、そこにほぼ確実に中国が介入してきます。こうした実務的なことも踏まえて、今の一部保守論壇の沖縄に対する態度というのは危険だと思うのです。
――沖縄の独立がありうる、ということですか。
佐藤そうです。沖縄で気をつけなければいけないのは、あそこには、本土と異なり、易姓革命思想があるということです。もっと平たく言えば、長いものには巻かれろ、という感覚があります。沖縄は歴史的にも、中国の冊封体制と日本の幕藩体制との間で揺れ動いてきました。琉球王国は、幕藩体制のなかでの「異国」だったのです。このため、沖縄の歴史書である『中山世譜』は漢文体、『中山世鑑』はかなを交えた読み下し文で書かれています。このことからもわかるように、歴史も中国と日本の間でふたまたをかけています。日本と一緒にいる方が得だから日本に所属しているけれども、今回のような教科書問題などを契機に、日本と一緒にいてもろくなことはないんじゃないか、天命が変わりつつあるんじゃないだろうか、という流れが起きてもおかしくありません。これをなんとしても食い止めなくてはならない。
大田実海軍中将が玉砕にあたって東京に送った電文は「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜ることを」と結ばれていますが、大田中将が心配していたのは、まさに今のような状況なのではないか。これは情緒的なものというよりも、ものすごく計算されたもので、沖縄を日本につなぎとめておくためには特別の配慮が必要なんだ、ということだと私は解釈しています。
山崎私は、昭和22年の鹿児島生まれですが、小さい頃から、日本の一番南は鹿児島だとずっと思っていました。沖縄というのは異国という意識でした。それが高校生ぐらいのときに、突然、沖縄が日本に帰ってくることになったわけです。そしてたとえば、高校野球の九州大会に沖縄のチームが参加するというようなことになったわけですが、それを見てなんか不思議な違和感がありましたね。だから正直に言うと、私は、まだ心のどこかに沖縄は異国だという意識が残っていますね。おそらく多くの日本人の潜在意識にそれは残っているのではないでしょうか。その異国意識が、過剰な沖縄賛美論や沖縄ブームに、つまりサイードの言うオリエンタリズム、ないしはエキゾチシズムにつながることもあるし、ある場合には、逆に曽野綾子や保守論壇の面々が無意識のうちに捕らわれているような、沖縄蔑視論や沖縄差別論として噴出することもある。佐藤さんは、今回の「沖縄集団自決裁判」騒動の言説に、沖縄を、中国や韓国・朝鮮を見る時と同じような異民族への差別的な視線がある、これは国家分裂を誘発する危険があると警告していますが、まったくその通りだと思います。沖縄賛美論と沖縄蔑視論の根は同じだと私は思います。これは言い換えると、沖縄を日本という国家に統合しておくためには、日本人にとって沖縄とは何か、という特別な思想的な基盤が必要ということですね。沖縄戦や沖縄集団自決の現実を、他人事としてではなく、やはり自分達の問題として、思想的にも考えることが必要です。沖縄問題はゼニカネの問題だと、渡部昇一等のように矮小化する人がいますが、それは自分達がそういうゼニカネのレベルの人間でしかないということでしょう。