月刊日本佐藤優×山崎行太郎 憂うべき保守思想の劣化!

▼バックナンバー 一覧 2009 年 6 月 12 日 山崎 行太郎

なぜ保守論壇は知的に劣化したのか

 
――保守論壇の知的退嬰は山崎さんが先ほど指摘されました。どうしてこのような状態になってしまったのでしょうか。

山崎保守思想は、何らかの強力なテーゼに対して「否」を突きつける、否定神学的方法論であると佐藤さんが指摘しましたね。これは逆に言えば、好敵手としての強力なテーゼに対するアンチ・テーゼとしてしか保守思想は存立しえないという宿命を背負っているということです。保守思想は個別の事象について言及する必要に駆られて、やむなく言葉を探りながら紡いでいくものです。従って保守思想は、敵が見えなくなると、しばしば自分達の思想こそホンモノだという自己欺瞞に陥り、いつのまにか油断しているうちに、通俗的な流行思想に後退・堕落するという危険性を常に内包しているということです。その結果、常に安易なニセの敵を作り、その敵に向かって批判や罵倒を繰り返すということになる。ニセの敵と戦う思想はそれ自体ニセモノでしかありえない。最近の保守論壇の言説を見ていると、ほぼそういうニセモノの保守思想ばかりという感じですね。やはり、ソ連の崩壊、マルクス主義の凋落が大きいでしょうね。マルクス主義という好敵手を失ったために、保守も右翼も切磋琢磨を怠って、通俗的な、誰にでもわかる保守理論という安直なイデオロギーに堕落してしまった。それ故に、保守思想が、誰でも二、三日、勉強すればすぐ分かるし、模倣することも出来るような安直な理論になってしまった。たとえば、アメリカや日本に蔓延している新自由主義の弱点もそこにあります。ハイエクやフリードマン、ルーカス等を源流とする反ケインズ主義的な新自由主義も、ナチズムやファシズム、あるいは共産主義という「敵」がいたからこそ歴史的な存在意義があったわけで、それ自体としての新自由主義にはそれほどの思想的な意味も力もないはずです。言い換えれば、マルクス主義との理論的対決を常に強いられていた時代の保守論客と違って、今の保守論客達には、新自由主義を批判する能力も感性もないということです。
 私は、今、論壇に跋扈している保守論客に「作品」と呼べるものがないことを心配しています。たとえば、作品とは、左翼・右翼を超えて誰もが認めざるを得ないような作品で、小林秀雄には『モオツアルト』や『本居宣長』が、三島由紀夫には『金閣寺』や『仮面の告白』が、福田恒存には『シェイクスピア全集』の翻訳が、江藤淳には『夏目漱石論』がある。田中美知太郎には『プラトン全集』が……。彼等の政治的発言は別として、それらの作品の価値は、どんな左翼でも認めざるをえないでしょう。彼等が、そういう作品を背景に政治的、思想的発言をしていたからこそ、少数派ながらも保守思想はしぶとく生き延びてきたわけです。今の保守論客には政治的な発言はあるが、左翼陣営を納得させるような作品はないですね。作品がないから付和雷同し、徒党を組み、裁判闘争を仕掛け、結果的に左翼化せざるをえないのでしょう。今、真摯に言葉に対峙し、作品を創造しようとしている保守論客がどれだけいるのか。その意味で、私は敵陣営ながらも大江健三郎の表現における真摯さを評価しているのです。小林秀雄も三島由紀夫も江藤淳も、文学者としての大江健三郎の才能と作品を評価し、尊重するだけの度量は持っていました。左右を超えて、いいものはいいわけで、ダメなものはダメなわけです。曽野綾子に象徴される最近の保守論客たちの大江健三郎批判には、そういう思想的な度量と文学的才能への畏怖というものが欠如しています。

佐藤私は文学的感性は乏しいのですが、大江さんが使った「巨塊」というのは、造語ではないですか?

山崎そうですね、完全な造語ですね。パソコンで「きょかい」と入力しても普通は変換されません。こういう場面で、私は大江健三郎という一人の文学者に、右翼とか左翼という立場を超えて圧倒されるのです。日本語の表現の中には巨大な悪を示すのに、「悪の権化」「鬼畜の所業」など、様々な語彙がありますが、そうした手垢のついた言葉では、沖縄で起こった事象を的確に表現できない、新しい事象を表すには新しい言葉が必要だ、というわけで、大江氏は、「罪体」という推理小説の用語にヒントを得て「罪の巨塊」という言葉を作り出したようです。新しい言葉を造語することによって、文芸批評の専門用語を使えば、一種の「異化作用」をもたらしているわけです。異化作用とは、ちょっと見慣れない言葉を使うことによって、読者に立ち止まらせ、考え込ませる技法です。裁判を傍聴した秦郁彦などは、ノーベル賞作家だかなんだか知らないが、大江健三郎が「何かわのわからんこと」を言っていたと罵倒していましたが、秦郁彦等の言語感覚の劣化というか文学的感性の欠如というか、要するに保守思想の堕落を象徴する発言ですね。大江健三郎のノーベル賞受賞を一番早く予言したのは三島由紀夫ですよ。三島由紀夫が生きていたら大江健三郎を裁判に引き摺り出すことには、それは右翼保守派の恥だと言って徹底的に反対したでしょうね。曽野さんも大江健三郎の技巧的な文体を、田舎者の文体と批判しているらしいですが、まったくわかっていませんね。曽野綾子は、文芸批評的に言えば、悪しき意味での文体感覚の欠如した「美文の人」と言うべきで、当然ですが、曽野綾子には「作品」と呼べるような代表作がありません。

佐藤大江氏が沖縄戦の資料を読み込み、追体験した結果、「罪の巨塊」という言葉が生まれたわけですね。この追体験する力というのは大事です。山崎さんの論文でもう一つ大事なのは、山崎さんご自身の父上が南大東島に出征し、命からがら生還したという事実を立ち位置に、この沖縄戦を追体験しているということです。繰り返しますが、立ち位置が変われば見える真理も変わってくる。その複数の真実に耐える力が必要です。ところが、そういう力が日本の右翼、保守陣営において弱ってきている。
 保守思想は個別の事象について言及する必要に駆られて、やむなく言葉を探りながら紡いでいくものだ、という指摘がありましたが、特に日本の保守思想はマルクス主義との戦いだったともいってよい。ところがそのマルクス主義が無効になって空白が生じた。そこに滑り込んできたのが新自由主義です。新自由主義は邪魔なものは排除するというだけの、無思想の思想です。今では霞ヶ関の官僚までもが休み時間、下手すると就業時間中に携帯で株の取引をしている。こういう本質的な馬鹿者が何を言うかというと、「実際に株式市場に触れてみないと経済についての皮膚感覚がわからない」というのですが、国家官僚に必要とされる経済知識は、投機行為に関する知識ではありません。金儲けの能力と行政官僚に求められる能力は根本的に異なるのです。こうした官僚の質の劣化について、私は最近、根元のところで尊皇精神というものが崩れているのではないかと考えています。もっと簡単に言うとお天道様に顔向けして、恥ずかしいという感覚が薄れていることですね。

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