読み物スクープした記者が明かす 恐怖の「胆管がん多発事件」はなぜ起こったか

▼バックナンバー 一覧 2012 年 12 月 6 日 立岩 陽一郎

■血の涙を流して

 ところが数日後、藤井一郎の別の遺族から私に「話したいことがあります」という電話が入った。さっそく会ってみると、その遺族はこう語り始めた。
「一郎は本当にひどい死に方をしました。生きたい一心だったと思います。泣きながら死んでいきました。最後は、血の涙も流して……」
「血の涙?」
 何のことかわからず、私は問い返した。
「一郎の手術は成功したのですが、すぐに再発したんです。再発率は7割と言われたので、覚悟はしていたんですが、もう最後は病院側もお手上げ状態。それでお医者さんが言ったのが、『一郎君、もう為す術はないから、胆汁を飲んだらどうですか? それでどうなるとは言えないけれども、何もやらないよりはいいかもしれない』と。
 一郎は胆管を切っていたので、胆汁を外に出すための管を付け、それが体の外に出ていました。お医者さんは本当に心配して言ってくれたと思うんですけど、胆汁って、ものすごく生臭くて、飲めるような代物じゃないんです」
 藤井一郎は、しかしそれを飲み続けたという。生きたい一心だった。当然だろう。まだ36歳だったのだ。だが、やがて力尽きる。
「一郎の苦しみがひどくなったとき、『コーヒー牛乳が飲みたい』と言い出したので、看護師さんに『大丈夫ですか』と尋ねると、『飲めないと思いますけど、好きにさせてあげましょう』と言ってくれました。それで、コーヒー牛乳を買ってきて、一口飲ませたんですけど、駄目でした。すべて吐き出してしまって、やっぱり飲めなかったんです。その翌日、一郎は息を引き取りました」
 そして、血の涙が流れる。
「会社の洗浄剤が原因かもしれないというあなたの話を聞いて、あの光景を思い出しました。心臓が止まったその直後、一郎の目から赤い血が流れ出したんです。一気にね。
もう怖くて、悲しさを通り越して、私も、一緒にいた私の子供も腰が抜けました。あんな恐ろしい死に方をするのは、化学物質が原因となったとしか思えません」
 そう話す遺族の目には、涙があふれていた。

■凄い剣幕で怒り出した社長

 北九州市の産業医科大学。6号館にある研究室で、熊谷はある数字を導き出していた。
 600倍――。
 SANYO-CYPの男性従業員が胆管がんで死亡する率が、平均的な日本人男性が胆管がんで死亡する率の600倍に達するというのだ。疫学調査として導き出した数字である。
 これは後日、さらに制度の高いデータで改めて算出した結果、2900倍にまで跳ね上がった。この会社で行われている何らかの作業が原因なのは明白だった。その事実を、熊谷の地道な調査が証明したのだ。
 会社はこの異変に気づいていなかったのか。
 当初、私たちの取材申し込みに対して、会社は「弁護士を通してほしい」と返してきた。そこで弁護士に連絡を取ったが、内容ある回答は得られなかった。
 この弁護士は最初、片岡らが調査への協力を求めた際、「弁護士法違反の疑いがある」という趣旨の内容証明を送ってきている。取材活動である私たちの申し入れに対しては、そうした対応はなかったが、実上の取材拒否を続けていた。
「真摯に事実関係の調査を行っている」
 弁護士が出した会社のコメントである。後はどのような質問を送っても、これ以上の回答が得られることはなかった。そうなれば、さらに元従業員らへの取材を広げていくしかなかった。
 こうした中で出会ったのが大成幸司である。大成は、会社が現在の本社屋を建てた1991年よりも前に入社しており、99年に健康に不安を感じて辞めるまで、問題の校正印刷に携わっていた。
 当時の洗浄剤の使い方や職場の状況などについて、大成は当時の記憶をたどりながら語ってくれた。職場では、従業員の大半がうすうす「洗浄剤が問題だ」と感じながら、なかなか言い出せなかったという。
「会社では『夕会』というのがありました。朝のシフトと夜のシフトが交代するときに行うミーティングです。その夕会の場で、劇症肝炎で長期入院した先輩が『社長、この洗浄剤、おかしいんと違いますか?』と質問したんです。
 すると社長は、『何言うてんねん、証拠もないのにそんなこと言うな!』と凄い剣幕で怒った。夕会の後で、その先輩は別室に連れていかれて、社長に罵声を浴びせられていました。みんなそれを聞いているから、もう何も言えなくなったんです」
 この話は、他の複数の元従業員からも聞いた。大成の記憶では、このやり取りは97年のことだったという。
 この前年、つまり96年には、すでに1人が胆管がんを発症している。翌98年にも、胆管がんで従業員が死亡している。会社は「気づかなかった」としているが、気づくチャンスはあったのではないか。そう思えてならない。

■会社は本当に気づいていなかったのか

 会社は、少なくとも2004年から05年にかけての時期は、「職場に問題があり、その原因は洗浄剤にある」と認識していた節がある。
 前述の藤井一郎の遺族は、怒りを込めてこう語っている。
「一郎が胆管がんで入院した後、会社の総務部長から何度も、『容態を教えてくれ』と言ってきました。一郎が嫌がっていたので、あまり連絡しないでいたら、総務部長は自分で病院に来るようになってしまった。そこで、病院に頼んで一郎を面会謝絶にしてもらいました。
後になって、その時期に、一郎以外にも胆管がんで入院していた従業員や元従業員がいたことを知りました。会社は知っていたはずです。絶対に許せない」
 本田は、この時期から会社の中で、さまざまな“対策”が取られたことを覚えている。
「ある日、会社の幹部が活性炭を持ってきて、印刷機の下に置いたんです。それで、確かに刺激臭は減ったんです。だから、ちょっと安心した記憶があります」
 もちろん、活性炭で改善できる範囲は限られている。常識的に考えれば、がんの発症を抑えられるわけでもない。しかし本田は、「会社が何とかしようとしていると感じて、妙に安心しました」と振り返る。
 会社はまた、活性炭を置いた同じ時期に、洗浄剤の使い方に規則を設けている。
 それまで洗浄剤は、一斗缶で購入したものを、ペットボトルのような容器に入れ替えて使っていた。その容器は印刷機の下に、蓋もせずに置かれていた。その容器に蓋をすることが規則になったのである。また、洗浄剤が染み込んだ使用済みのウエス(汚れの拭き取りなどに使う布きれ)を捨てるバケツにも、蓋をすることになった。
 つまり、会社はこの時点で、洗浄剤が従業員の健康を蝕んでいることに、うすうす気づいていたと思われる。しかし、洗浄剤そのものを変更する手立ては講じなかった。会社の説明によると、彼らはこの洗浄剤を06年まで使い続けたという。

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