月刊日本佐藤優×山崎行太郎 憂うべき保守思想の劣化!

▼バックナンバー 一覧 2009 年 6 月 12 日 山崎 行太郎

「佐藤優×山崎行太郎 憂うべき保守思想の劣化! ~沖縄問題の思想的本質は何か」
 

曽野綾子の誤記・誤読問題に目を向けよ

 
――『月刊日本』二月号に掲載された山崎行太郎氏の論文「保守論壇の「沖縄集団自決裁判」騒動に異議あり!!!」は各方面に大反響を呼びました。佐藤優氏は「沖縄問題は日本の右派が国家の統一ということを第一に考えることができるかどうかの試金石だ」と指摘していらっしゃいますが、今日はお二人に大江裁判、沖縄問題、そして日本の右派のあり方について語っていただきたいと思います。

佐藤まず、月刊日本という、率直に言って、世間では相当コワモテと思われている右翼の理論誌に大江健三郎擁護の論文が掲載されるということ、これが大事なのです。日本国家を愛する右翼としての立ち位置から重要と思う原稿は、多少、誤解される危険性があっても載せる。原典にあたって綿密なテキストクリティークを行った山崎さんの分析を読者に伝える必要があると判断した本誌の勇気と洞察力に敬意を表します。

山崎まったく同感です。最近、硬直し劣化している保守論壇に颯爽とデビューして大きな風穴を開け、論壇の台風の目になっているのが佐藤優さんなわけですが、私の論も、ささやかながら、そういう保守論壇に風穴を開けるような視点から読まれるとありがたいです。ところで、今日は、保守派論客の中で唯一、哲学や思想に関心の深い佐藤さんと、「沖縄集団自決裁判」などをめぐって対談が出来るということで、楽しみにしています。佐藤さんは『私のマルクス』という衝撃的な本を刊行されたばかりですが、柄谷行人や広松渉への関心や、マルクスやドストエフスキーへの関心、あるいは沖縄との個人的な関係など、普通の保守派論客ではとても考えられないような思想傾向の持ち主で、僭越ながら私ともいろいろ共通な部分もあり、面白い話が出来るのではないでしようか。ここで、「沖縄集団自決裁判」問題に入る前に、もう一度繰り返しておきますが、私は自分ではずっと保守派のつもりですし、世代的には左翼全盛の全共闘世代なんですが、当時から私は皮肉交じりに「保守反動派」を自称してきました。それは一貫しているつもりです。確かに大江健三郎の文学には高校時代に決定的な影響を受けましたし、私の文学的、思想的な原点、ないしは出発点に「大江文学」があります。しかし大江文学に惹かれはするものの、彼の政治的立場にはまったく反対で賛同できません。にもかかわらず、今回、「沖縄集団自決裁判」をめぐって、あえて大江健三郎擁護の論文を載せたのは、曽野綾子に象徴されるように、保守側の言説や論理が、いわば子供染みたルール違反を犯しているし、しかもそれを支援している最近の保守派や保守論壇の論理がズサンで思想的レベルが低すぎると思ったからです。

佐藤曽野綾子さんの誤読・誤記の問題ですね。曽野さんが『ある神話の背景』(『「集団自決」の真実』に改題、ワック)の中で大江健三郎の『沖縄ノート』に触れた箇所で、大江氏が「罪の巨塊」と書いたのを「罪の巨魁」と誤読、誤記してしまった、という指摘を山崎さんは実証的にされましたね。

山崎そうです。厳密に言うと、曽野綾子さんは、内容的には明らかに最初から「罪の巨魁」と誤読していましたが、一応、当初は漢字だけは「罪の巨塊」と大江健三郎の言葉を正確に引用表記していました。ところが版を重ねるに従って誤字・誤読の「罪の巨魁」説が定着し、つい最近まで雑誌や新聞に堂々とその誤字と誤読が放置されていました。そこからこの問題を調べているうちに、保守論壇がずいぶんとおかしなことになっている、と気づいたのです。まず、曽野綾子が誤読したものがそのまま保守論壇内で拡大再生産されている。渡部昇一や秦郁彦、担当弁護士など、沖縄集団自決裁判に関して発言している方々は、曽野さんの誤字・誤読をそのまま受け売りしてしまっています。ここから、渡部氏や秦氏をはじめ、保守論壇の大多数が、大江健三郎の『沖縄ノート』という原典をきちんと読まずに、大江健三郎を批判し罵倒しているということがわかりました。

佐藤左右を問わず、批判というのは重要です。しかし、そこには最低限、守られなくてはならないルールがある。ある本の内容について批判するのであれば、その本をきちんと読んでこい、ということですね。実は、開かれたテキスト批評という意味では、誤読に基づいた批評だってあっていいのです。読者には誤読する権利があります。しかし、その場合でも、これは誤読に基づいた上での解釈だということを認めてからでなければなりません。

山崎ところが、裁判で大江氏にこの誤読問題を指摘されても、保守派の面々は「卑怯」「言い逃れ」「論点のすり替え」と、正面から理論的に反論できず、情緒的な罵倒を繰り返しているだけです。私は自分の影響力などないに等しいと自覚しておりますが、それでもこの『月刊日本』で指摘し続けてきたためか、最近は、雑誌などでの表記が、コソコソと秘密裏に、「巨魁」から「巨塊」に訂正されつつあります。 発売中の曽野綾子の『集団自決の真実』には今でも「巨塊」とか「巨魁」という誤字が使われていますが、その後、本が回収されたのかどうかわかりませんが、その表記はまだ訂正されていないはずです。いずれにせよ、恥ずかしいというか、潔よくない態度です。

佐藤まさに大江裁判というものがシンボルをめぐる闘争になっているからです。まず、大江健三郎・岩波書店を叩くか、擁護するかという立場があって、その立ち位置からテキストを、意識的、あるいは無意識のうちに解釈しています。山崎さんが『月刊日本』1月号で指摘されたように、「大江健三郎を法廷の被告席に引き摺り出しただけでも大成功」といった類の政治的意図が過剰です。私は、日本の右翼・保守派がこのような発想になってしまっていることに危険を感じています。そもそも、裁判などという制度は、人間は理性を用いて唯一の真理を突き詰めることができると考える、理性偏重の左翼的発想そのものなのです。それに対して、右翼というのは人間の理性・知性などタカが知れている、それよりも歴史と伝統、寛容と多元性を重んじるという立場です。ところがその右翼陣営が左翼の戦法で法廷闘争などやっている。右翼に左翼の論理が滑り込んできてしまった。

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