責任の詩学意思と情動としての世界
本稿は、頚草書房編集部・徳田慎一郎君の委嘱で準備され、魚住昭・責任編集のウエブマガジン「魚の目」に連載ののち、頚草書房から刊行される予定で書き進められる。
越境と交響―――はじめに
かつて法律家の濱田純一から、興味深い話を聞かせてもらった。 彼は言う。
「法律に論理なんてありませんよ。とくに法廷には論理も学術も一切ない。あるのは裁判官の心証をどうやって取ってゆくか、それだけですね」
元来は憲法を専攻し、情報法のエキスパートとして知られる濱田は、当時東京大学教授として私の上司のような立場にあった。大学学部では物理を学び、法学のバックグラウンドは全くなかった私には、非常に明快な濱田の断言に、軽い衝撃を覚えた。
濱田は大まかに、こんな内容のことを、大学に着任したてで30代前半の助教授だった私に教えてくれた。
「大体、法律なんてものは、国会で次から次に決められるので、論理的な体系性なんて何もありはしない。日本の官僚が書いて、日本の政治家の多数決で決めるんだから、そりゃわかるでしょう。そうやってズラズラ並んでいる法律の条文の中で、自分にとって有利な文言を選んでストーリーを作るわけだけれど、判決を決めるのは裁判官の心証で、論理なんか一切関係ない。法律は学問なんかじゃない。そう割り切ったほうが判りやすいですよ。」