責任の詩学意思と情動としての世界
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大学教師をするようになってからの私が、一貫して取り組んできたことは、「中沢問題」のような表層的な対立の間隙、ギャップに入って見えなくなってしまう、重要な実質をクリアに抉り出し、学術の卓上で取り扱うためのフレームワークと、具体的な実践の提示にほかならない。私の仕事の殆どは、いわゆる文系と理系の間を往復して進められるが、双方が用いるロジックやスキームには、明確な区切りが存在する。
あえて端的に言うなら、問題は先に述べた「一意性の論理」と「多義性の論理」とを、どのように整合して取り扱ってゆくか、に帰着する。
ユークリッドの「幾何学原論」以来、少数の公理系だけに基づきながら、論理的に展開してゆく「演繹科学」の伝統が、イスラーム~西欧近代に続いている。
文科系の学生・院生に、ロジカルなトレーニングを薦めるときには必ず、ユークリッド原論、スピノザの「エチカ」とヴィトゲンシュタインの「論理的哲学的論考」を、日本語でいいからパラパラと読んでみて、どう思ったか、気づいたことをレポートしてごらん、ということにしている。「現代思想」の好きな人がフッサールやデリダを読みたい、というときにも、やはり同様の読書案内をしてシンプルなラインから追ってみたら、と勧める。
逆のケースもある。ジョイスやドゥルーズ=ガタリみたいなものが好きな人には、聖書を読んだことがあるか?と尋ねることにしている。周知のとおり、聖書のテクストにはすべて番号が振られている。
その一言一句をしらみつぶしに当たる「聖書学」的な手法は、実はテクスト分析から「大学受験勉強」まで、かなり広範な応用範囲がある。線の細いモデル的思考で自家中毒になっているような人には、こうした、最初から論理的整合性などとれる訳のない系への取り扱いを考えたほうがいい。というのも「この世界」そのものが、まさに論理で割り切れるようなモノとは似ても似つかない代物だからである。
最初に挙げた法律の言葉が、矛盾に満ちていなければならないのは、清濁混交する世俗の事件を扱うために、法というものが持っていなければならない、最低条件として「論理的に破綻していること=矛盾を内包していること」が必要だからだ。
では、そこで私たちが状況を判断し、適否を決定するためには、どうすればよいか。互いに矛盾し、あるいは論理的に対立する二者の勝敗を決めるのは、自然科学であれば「実験事実」以外には存在しない。いくら精緻な数学モデルでも、現実の物質挙動を記述しなければ、それは物理のモデルとしては限界を指摘されてしまう。
では人文・社会科学において、適否の意思決定はどのように考えればよいのか?
ここで私は、ヒト脳内での意思決定に際して「情動」が演じる、決定的な役割を強調しなければならない。