責任の詩学意思と情動としての世界
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民事であれ刑事であれ、現在の日本の裁判では、法廷の場で同じ事件を扱って、甲側と乙側、利害が対立する両者が、ともに「法律」という同じ体系を背景として、それに則った形で、互いの主張を戦わせることになっている。この単純な一事からだけでも、法律という体系には もしAという主張があれば、non Aという主張も正当化しうる部分が、必ず含まれていることが原理的に保証されることが明らかだろう。
そうでなければ、遵法的な手続きを踏みながら、利害が対立する双方が、法廷の場で争うことは出来ないからだ。こう考えるなら、法律体系の持つ「非一意性」こそは、実は法廷という場を構成する上で、もっとも重要な基本条件になっていることが、自明のものとして明らかになってくる。
だがこのように考えない者も少なくない。かつて物理学を学んだ私は、法律体系のように「解が一意に定まらない」言語体系を「不備なもの」不完全な自然言語による論争で、白黒の決着がつきようのない「偽問題」ill-posed problem だと思っていた。このような印象を持っていた背景には、物理や数学の観点から前期ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインやクルト・ゲーデルなどの数理~哲学論考を眺めていたことがある。
ヴィトゲンシュタイン前期の集大成といわれる「論理的・哲学的論考」は、その末尾「6 語りえないものの前では、沈黙しなくてはならない」の一句が良く知られている。いわゆる彼の「言語ゲーム論」を「転用」して、多くの筆者がさまざまな論考を編んできた。
あるいはゲーデルの良く知られた「完全性定理」「不完全性定理」なども、数学基礎論としての明確な意義を超えて哲学、人文社会科学などに、さまざまな「影響」を及ぼしたとされる。端的にいって、そうした「影響」を受けたとされる中に、見るべき価値あるものは殆どない。ゲーデルの仕事は、それを元に数理科学を展開できるが、ゲーデルをめぐるエッセーの大半は展開の可能性がないからだ。実際にゲーデルの定理が主に役に立ったのは、第二次世界大戦後、電子計算機が開発されて、「プログラミング言語」という人工的な論理言語の開発、応用によって、さまざまな技術開発が可能になる過程においてだった。