責任の詩学意思と情動としての世界

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 16 日 伊東 乾

 今日広く用いられるノイマン式計算機とは、端的にいって「膨大な数のスイッチの集合体」に他ならない。オン、オフの「2値論理」だけで論理命題を構成し、正確に演算してこれを解く。意味にブレがあってはならない。

 マシンは言葉の「多義性」を理解しない。もしひとつの単語や命令が、二つ以上の意味に解釈されるなら、コンピュータは目的とされる動作を完遂できず、誤動作を起こしてとまってしまうかもしれない。こうしたものはコンピュータ・プログラミング上の「害虫bug」として、駆除される必要があった。

 一意に意味が定まり、それによって正確に演算が可能になり、結果として得られる解に再現性があるもの。それだけが「科学的」に価値があるもの、とされ、それ以外の学術はほとんどすべて「意味のないもの」さらには「文化的暇つぶし」「小説の類」と軽視される。

 こんな理解が、実は21世紀の先進国、例えば日本の大学理工系の教授職大半の、本音になっているように、私には思われる。 これはあくまで私が学生として見てきた理学系・物理学専攻から、大学教員として垣間見た工学系全般のファッションに過ぎないのかもしれない。実際、文学部や教育学部などには、まったく異なる観点を持つ大学人もたくさんいるのは認識している。

 ただ、上記のような偏執狂的「一意性マニア」は、ハイ・テクノロジーや企業の経済力を背景として、羽振りが良いのが、やや曲者なのだ。プログラミング言語のように、意味が一意に定まる「論理」や、それに基づく「学術」は「役に立ち」そして「金を産む」。

 これに対して、古代インド哲学やギリシャ・ラテン古典詩、平安期の王朝文学の和歌に現れる「掛詞」の研究、などは、自然言語の意味が一意に定まらず、複数の意味が交錯する「多義性」にこそ、その豊かさの根を持っている。

 私がこうした対立をもっとも端的に感じたのは、大学2年のときに東京大学教養学部で発生した「中沢新一事件」のときだった。

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