責任の詩学意思と情動としての世界

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 16 日 伊東 乾

 反撃の急先鋒を切ったのは、フランス文学の蓮実重彦助教授だった。私は映画ゼミで山中貞雄やオーソン・ウェルズの鮮やかな分析を見せてもらい、また来日したイタリアの作曲家ルイジ・ノーノーに手紙を書いて、東大で特別講演をしてもらったとき、受け入れ教官となってもらったこともあった。蓮実さんが理系の教官たちをなで斬りにしたらしいことも、風のうわさで聞いた。

 当時、東大の学園祭「五月祭」の常任委員をしていた私は、蓮実さんと西部さんの対談を企画・実行した。タイトルは蓮実さんの著書「映画はいかにして死ぬか」をもじって、やや扇情的に「大学はいかにして死ぬか」としてみた。マスコミの問い合わせがものすごく、当日はテレビ局もやってきたが、元締めをしていた学生の私は、微妙な齟齬の感覚をぬぐうことが出来なかった・・・論点が微妙にずれているのだ。

 15年ほどあとに、養老孟司さんが「バカの壁」と呼んだような、どうにもかみ合わない議論のカベと、人事をめぐる微妙なマイクロポリティクスとが入り組んで、なんとも「本質的でない印象」ばかりを持った。というのも当時私は、中沢反対派の最右翼のような「理学部物理学科」学生として、「中沢擁護派」というより中沢人事の核心部の人たちに、公私を越えて可愛がってもらっていたからだ。これは何なのだろう、という割り切れない思いが長く残った。

 この後、中沢新一はオウム真理教を擁護するマスコミ活動をいくつか展開する。4年ほどして、当時、物理学科でもっとも親しかった友人、豊田亨が失踪する。1年半ほどして、彼がオウムに出家したことを知ったとき、私は物理の大学院博士課程に籍は置きながら、すでに音楽の仕事で物理は完全にお留守になっていたころだった。

 中沢事件から7年後の1995年の春、地下鉄サリン事件がおき、その実行犯として豊田亨君の身柄が押さえられた。 あれこれこまごまとした作曲の仕事と副指揮者業とで疲弊していた私は、労作性のめまいを病んで立てなくなってしまい、変に時間が出来てしまった。ジッとしていても仕方がない。私はこのころたった7年で助教授から教養学部長まで立場が変わっていた蓮実重彦の「表象文化論教室」の博士課程に新たに籍をおくことにした。

「伝説の蓮実ゼミ」の最後から二番目の発表で、思い切って映画作家ジャン・リュク・ゴダールを正面から取り上げてみた。ゴダールのソニマージュSonimage = son音 + imageイメージ をデジタル編集というテクノロジーを前提に、作り手の観点から徹底して分解して、返す刃で記号論の映画評論家ミシェル・シオンの不徹底な仕事をナマスに切り刻んで批判してみたりした。

 こんな具合で、都内オーケストラの音楽教室仕事やテレビ「新・題名のない音楽会」の監督業などで食いつなぎながら3年間で博士論文を書き上げたが、その過程で蓮実さんは東大総長に就任していた。

 博士論文を書き上げた直後、すでに十分嫌気がさしていたテレビ業界をめでたくリストラしてもらって、私は慶応義塾大学に兼任講師として呼んでもらった。4ヶ月ほどして蓮実総長による東大改革の目玉のひとつとして、当時声高にさけばれていた「IT革命」に呼応する「情報部署」を「文理融合・さらにアートも含む形で」立ち上げるというストーリーが作られ、翌年から東大に籍を置くことになった。任官してすぐわかったことは、こうした「文理融合」などが、役所から新たな予算を獲得するための「お経」「祝詞」の類で、学術の「越境」「融合」を、病のように本当に腹の底に抱えて、長年辛吟してきたような大学人は、非常に少数だという現実だった。

 この間、豊田亨被告は一審で死刑判決を受け、中沢新一は微妙に音沙汰がなく、中沢事件のころに超新星爆発を観測した小柴教授がノーベル物理学賞を受賞したりした。

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