責任の詩学意思と情動としての世界
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法廷で争われる言葉は、いかに「理屈」として精巧にくみ上げられていても、それが論拠としている大本の前提、いわば「公理」を、相手が認めてくれなければ、一切の説得力を持つことはない。前提となる原理が相手の心に響かなければ、話は全く通じない。その意味で、最初に濱田が言った「法律は学問などではなく、法廷にあるのは裁判官の心証をどうやって取るか、だけだ」という言葉は、アクティヴィストの発言として、極めて妥当だということが出来るだろう。相手の心に、前提とする事実を響かせることを、あえて此処では「交響」と呼んでおこう。「交響曲」という言葉はSymphonyへの訳語として定着しているが、ここで求められるのは共感Sympathy が響き交うことであるからだ。
逆に、その「公理」さえ認めさせてしまうなら、どんな無茶な内容でも、そのあとの理屈=演繹は、自動的に進んでしまう。
「こいつは悪い奴だ」「この人は無実だ」といった判断、意思決定は、ヒト脳内で情動の座とされる古い部位、大脳辺縁系が、主として司っている。
この書物で私は「情動は悟性に先立って意思を決定し、行動を惹起する」という、20世紀末年までに脳認知科学で広く確認されるようになった「実験事実」を、既存の人文・社会科学の論理系に、新たな公理として付加、連立して、そこから得られるさまざまなトピックを展開してみようと思う。
頚草書房の編集者、徳田慎一郎君からは「人文・社会科学全体を活性化するような、大学3-4年から大学院程度のゼミで使える書物を」との事だったが、そのような用に供するものを私が書けるかどうかは定かでない。ただ、すでにある論理系に、新たな公理が加わることで、システム全体が変わるという事実は、一音楽家に過ぎない私の能力とは無関係な事柄だ。
それがとりわけ、まっとうな論理展開を果敢に試み、何かと権威主義と腐敗に流れやすい学術分野で、閉鎖的な日本を飛び出し、越境して自由に活躍される、些細なヒントにでもなれるなら、筆者として存外の喜びである。
2009年2月2日 5年目の母の命日に