誰が日本国家を支配するか ──石川知裕代議士とマックス・ウェーバー『職業としての政治』を読む。 第2回
【佐藤優】
では、実際に読んでいきましょう。
*読者の方は、『職業としての政治』マックス・ウェーバー/脇圭平 訳/岩波文庫を手元に置いていただき、指定頁に目を通したうえで、佐藤優さんの講義を読み進めてください。(編集部)
『職業としての政治』
7頁/諸君の希望で〜8頁2行目/さっそく本題にはいろう。
【佐藤優】
まず、この講演がどこで行われたかということなんです。この講演は本屋さんで行われています。実はヨーロッパにおいて、毒にドイツ語の文化圏において本屋さんというのは特別な意味を持ちます。西ドイツの時代ですね、いまもそうですが、ドイツ連邦共和国は特殊な規則を持っています。出自がドイツ人であることが証明されれば、誰であってもドイツ連邦共和国のパスポートを渡す。ですから東ドイツの人たちが西ドイツにはいると、その途端に西ドイツのパスポートを発行してもらうことができたんですね。そしてベルリンの壁が崩壊した時には、その前にハンガリー経由で大量の東ドイツ人の流出があったんです。そうやってどんどんどんどん、西ドイツにドイツ人を持ってこようとした。
これが一つの流れなんですが、もうひとつ、別のドイツ人問題というのを当時、ドイツは抱えていました。それはボルガドイツ人をはじめとする旧ソ連領の問題です。帝政ロシアの時代、ロシア人貴族はサンクトペテルブルクやモスクワに住んでいて、ロシア語をしゃべれないんですね。フランス語でふだん話をしている。イギリスやフランスにしょっちゅう遊びに行って、生活をしているんですね。大不在地主なんです。では農場の面倒は誰がみるのか。ロシア人に任せると、金をくすねたりするし、マネージメントをきちんとしない。それに農民をいじめすぎるから反乱が起きたりする。そこで適宜締めて、緩めてということがうまいということで、ドイツ人を雇ったんです。
そのドイツ人たちは16世紀の終わり以降、たくさんロシアにはいってくるんです。どうしてか。宗教的な理由があるんです。ドイツで宗教改革があってカトリックとプロテスタントに分かれたということは、結構有名ですね。そのあと、プロテスタントの側で、宗教改革急進派というグループが出てくるんです。再洗礼派であるとか、メノナイト、こういう人たちなんですよ。汝殺すことなかれというイエス様の山上の垂訓を守らなければならないから、国家の徴兵には参加しません。軍事行為にはいっさい従事しません。こう言い張るグループがいたんです。
こいつらは絶対に許すことができないということで、プロテスタントの主流派の連中は、鳥籠にこの人たちを入れて、食べものを与えないで、木からぶら下げていたんですね。ちょうどカラスがつつけるくらいの隙間が空いた、人間ひとりやっと入ることができるくらいの籠です。すると鳥につつかれて閉じ込められた人は死んでしまうんですけど、このような見せしめにもかかわらず、宗教改革急進派の人たちは信仰を捨てないんです。
そこに目をつけたのがロシアでした。兵役にとらないから、農民をマネジメントするためロシアに来てください。そして16世紀から17世紀にかけてロシアのボルガ川沿岸にドイツ人が移住していったんですね。ところが第2次世界大戦が始まる前に、現在のボルゴグラード、当時のスターリングラード付近に住んでいたドイツ人を、ドイツ軍がその近辺まで来た場合は、血が騒いでナチスと一緒になるのではないかとスターリンは恐れました。それでドイツ人を強制追放するんです。カザフスタンやウズベキスタンの砂漠に。
ちなみに日本ではほとんど知られていないんですが、その時期にもうひとつ、極東から強制追放された民族がいるんですね。朝鮮人です。ハバロフスクの南からウラジオストックにかけてはたくさんの朝鮮人が住んでいたんですが、スターリンは朝鮮人が日本のスパイになるかもしれないという疑惑をかけました。そしてカザフスタンやウズベキスタンに大量の朝鮮人を追放したわけです。
さて、このドイツ人たちは16世紀、17世紀を中心に移住したドイツ人なんです。現在のドイツ人と違うドイツ語をしゃべるんです。そのドイツ人たちのために、ドイツ語の新聞で「ノイエス・レーベン(Neues Leben)」という新聞がソ連時代に出ているんです。タブロイド判8ページの新聞なんですが、7面と8面がなんかへんなドイツ語なんです。オランダ語に近いようなドイツ語なんです。これはドイツが統一される前の低地ドイツ語なんです。こういう通じないドイツ語をいまだにしゃべっているドイツ人たち、この人は生活様式も現在はほとんどロシア人に近くなっているんですね。
この人たちがドイツに帰ってくることになったら、パスポートを与えなければならない。ところがドイツの中で大変な問題を引き起こしてしまう。全く生活習慣も違うし、宗教的な伝統も違う。だからこのドイツ人たちに極力帰らないでくれという取引をソ連政府とウラで、当時の西ドイツ政府はやっていたんです。ですから大量のお金をカザフ周辺にいれて、ドイツの文化センターをつくって、現地で合弁企業をつくって、ドイツ人が極力、旧ソ連の版図の中で生活ができるように、こんなことをやっていたんです。
さて、少し横にいってしまいましたが、こういうバラバラなドイツ人がわれわれはドイツ人なんだという意識をもつようになるには、18世紀の終わりから19世紀の頭にかけてなんですが、ここで本がとても大きな役割を果たしたんです。ルターがドイツ語に聖書を翻訳して、翻訳してから初めて、それにあわせて、その文字に書かれたドイツ語に合わせて話すようになったんです。あちこちで読書会をする。それを通じてドイツ人だという意識ができる。
いま、活字離れ、日本の場合もそうなんです。日本の標準語というのが東京の山の手の方言をベースに作られたといわれていますが、それは神話です。本当は別でまずは書き言葉ができているんです。それにあわせてみんな話すようになって、日本人だという意識ができてくるわけです。
言語と民族意識は非常に関係しているわけです。