誰が日本国家を支配するか ──石川知裕代議士とマックス・ウェーバー『職業としての政治』を読む。 第2回

▼バックナンバー 一覧 2010 年 5 月 26 日 佐藤 優

日本でウェーバーの影響が大きいのは、ドイツのインフレのおかげ?

 
 話をウェーバーの当時のドイツに戻しますと、社会主義の影響が非常に強くなって、インテリたちがマルクス主義に強く関心を持っている時に、どうもそれは違うんだと考える学生たちが勉強会をするんですね。そのときにウェーバーさん来てくださいといわれて、この講演をしたんですね。
 
 いまでいうと、ちょうど、この学生たちの考え方は民主党の感覚に近いと思います。マルクス・レーニン主義ではないんだけれども、新自由主義的な形で格差が拡大している、こういうのはおかしいんじゃないかと。そして伝統にもそこそこ関心を持つんだけれども、知的な世界にも関心がある。
 
 これが新カント派と結びつきます。新カント派の人たちはどういう考え方をするのかというと、科学にはふた通りある。ひとつは自然科学。物理や化学は実験ができる。従ってそこで法則をみつけていく。法則定立的な科学であると考えるんです。それに対して政治学であるとか歴史学であるとか法学は実験ができない。仮に実験ができても社会実験は繰り返しができない。だから頭の中でモデルを作って頭の中で考えてみる。思考実験をする。思考実験しかできないところにおいては個性を記述していくという形で科学を表すんだと新カント派は考えました。
 
 ちょうど、ドイツが大変なインフレでしたからね、第1次世界大戦直後で。今のお金でいうと、日本から1万円くらい持っていけば50万、60万の価値があるんです。当時日本人は国費留学では1カ月、今の日本円の感覚だったら200万円くらい遣いましたからね。すると1カ月に数千万円くらいの書籍代を持っていたわけです。だから帰国の時に、荷物用に船室を借りて本を運んでくるということをみんなやってたわけで。当時留学していた連中はみんなドイツに留学して、インフレを利用して最大限の本を買って、ただみたいな値段で家庭教師をつけたんです。そのとき主流だった発想が新カント派ですから、日本のアカデミズムは帝大を中心に新カント派の考え方がものすごく強くなったのです。
 
『職業としての政治』
8頁3行目/政治(ポリティーク)とは何か〜8頁9行目/これだけを考えることにする。
 
【佐藤優】
 では政治という言葉がどこから出てきているのかということをちょっと整理します。実は政治という概念がどこから来ているかというと、ギリシャなんです。ギリシャ以外に政治という考え方はありませんでした。政治をポリスといいます。これは政治と訳しても国家と訳してもどっちでもいいです。
 
 政治と対立する概念があるんですね。それをギリシャ語ではオイコスといいます。オイキクメニエ、エコノミー、経済なんていうのはオイコスからきているんです。本来は家という意味です。さて古代ギリシャのポリスにおいて政治に従事する人はどういう人なのか。古代ギリシャには奴隷と市民がいるわけですね。市民の中には貴族と平民がいるわけです。貴族と平民がポリスで政治に従事する人たちです。女性は市民になれません。ポリスにおいて適用されるゲームのルールがあるんですね。それは何かというと、ギリシャ語で言う、ノモスなんです。カール・シュミットの『大地のノモス』という本がありますが、ノモスというのは通常、法と訳されています。ですから法というのが社会全体の中のごく一部しか覆っていないものだというのがギリシャ人の了解なんです。
 
 それに対して、オイコスにおいてのゲームのルールは、法じゃないんです。ビアというのが基幹原理になるんです。ビアとは暴力です。要するに、奴隷は所有物だから、言うことを聞かなければ、鞭打っても殺しても構わない。あともうひとつ、女性は言うことを聞かなければ、殴ってもいいわけです。それは家庭のなかにおいて適用されるゲームのルールが暴力なんです。この構造があるからドメスティックバイオレンスが出てくるというところにおいても、その根っこにおいて、ヨーロッパの連中に女性を殴ってもいいんだということが刷り込みがなされているからです。フェミニストによる知の男権性、暴力性批判は正しいのです。
 
 この基本形式のところから、政治というものが生まれてきているということなんです。このポリスのノモスの中にも最終的には強制権力という形で暴力が入ってくるんですね。マックス・ウェーバーという人は、先ほど言いましたようにトレルチを通じて神学的知識をもっていたんです。私は基礎教育がプロテスタント神学です。基礎教育で神学をやるとギリシャ語を学びます。そのギリシャ語を学ぶ中で政治の概念とはどういう事なのか、経済の概念とはどういうことなのかを叩き込まれるわけなんです。このあたりが日本の政治学や法学であまり学ぶ機会がないところです。ヨーロッパで政治学や法学を専攻する人は、基礎で必ず哲学を学びます。それは、哲学においてこういう概念を押さえることが重要だからなんですね。ですから、民法と刑法が分かれるというのも、オイコスとポリスという二項対立の図式があるからなんです。ただし、これはあっちの論理なんです。われわれ日本人にはよくわからないんです。それはどうしてかというと、皮膚感覚としてこういう規範原理が混沌としているところに日本文化の特徴があるわけですから。
 
『職業としての政治』
8頁10行目/それでは、社会学的に〜10頁1行目/現代に特有な現象である。
 
【佐藤優】
 ですからこれは、良いとか悪いということではなく、国家は暴力を独占するものであって、それが一定の領域を支配するということ。これが現代の流行になっているということ。主要なゲームのルールになっている。あるいは主要な宗教になっていると言ってもいい。
 
 さて、ここで質問が出てきます。この観点から見ると日本は完全な国家でしょうか。
 
 答えは完全な国家ではありません。どうしてかというと、北方四島、竹島これは領域として我々の理解では日本領です。ところが日本の国家の実効支配がこれらの地域には及んでいません。あそこにおいては日本政府は暴力を行使することができないわけです。その意味において、日本は完全な国家ではないのです。ですから北方領土問題や竹島問題に、なぜ、政治エリートや官僚たちがあまり深く考えなくても固執しているのかというのは、これは国家の本能がそれを呼び起こしているからです。
 
 逆にロシアにしても韓国にしても(ロシアの北方四島への拘りは韓国の竹島への拘りに比べると相当低いです)国家は一定の領域を支配しなければいけないんだという近代の神話を基本にしています。ここのところをきちんと理解して、神話だから意味がないというのではなく、神話であるから、逆に、論理によって証明できない問題であるから、領土問題は難しいのです。
 
 あともうひとつ。トロツキーです。トロツキーは世界革命を提唱したのですが、世界革命の考え方をよく押さえておく必要があります。マルクス・レーニン主義は基本的には階級闘争至上史観です。「万国のプロレタリアート団結せよ」ですから、プロレタリアートには祖国がない国境がないわけですね。となると、ロシア革命というのはロシア一国にとどまったら革命はできないわけです。全世界に革命が成功して初めて、マルクス主義的な革命が成り立つ。じゃあ、ソ連という国は早すぎた革命だからつぶれる運命にあるのか。レーニンもトロツキーもそうは言いたくなかったんですね。
 
 ソ連というのは消極的な国家なんです。国家の本質は暴力なのですが、最終的にはマルクス主義者は国家をなくす、その意味ではアナーキストと一緒なんです。将来における国家の廃止についてレーニンもマルクスも、そしてスターリンも強調して言っています。ところが今、周辺の国家に囲まれている。だからわれわれのところだけ、国家がないような領域を作ったら、周辺の国家によって食われてしまう。だから、国家をなくすための国家だという論理をレーニン、トロツキー、そしてスターリンは立てるんです。他も国家に対して対抗するための暴力だから、そこにすんでいる住民には向けられない。国民には暴力を行使しない。対外的には暴力を行使する特殊な国家だと。国内的にも資本家の手先とか、外国の手先には暴力が適用される。これがプロレタリアート独裁の本質だと言うんですね。
 
 そんな理論は古い、今や意味がないというかもしれませんが、甦っているんです。再び。どこで甦っているかというと、アルカイダであります。アルカイダはアフガニスタンにタリバン政権を作りましたね。いま、モスクワで地下鉄のテロ事件がたいへんな話題になっています。これはひと言でいうと何かというと、北コーカサス地域にタリバン政権と同じようなロシアの実効支配が及ばないようなイスラーム国家を作ろうとする動きなのです。
 
 イスラーム原理主義者の論理に従いますと、アッラーの神はひとつですから、それに対応して、この地上においても単一の帝国が存在すればいいことになります。これをカリフ帝国と言います。カリフ帝国はたったひとりの独裁者カリフ(皇帝)によって支配されるべきと考えます。ところが今周辺に、アメリカであるとか日本であるとか、ドイツであるとか、いろんなイスラームではない国がある。その国家から防衛するために、過渡的にイスラーム国家という形をとらなければならないという考え方です。そうしますと国内のイスラーム同胞に対しては暴力を行使しない。しかしこのイスラームの国家を破壊する、世界イスラーム帝国をつくろうとする動きに反対する連中は徹底的に叩きつぶす。こういうドクトリンなんですね。一国社会主義的な発想が一国イスラーム主義になっています。
 
 トロツキーとレーニンとスターリンが考えていたことの差はちょっとした程度の差にしか過ぎません。内紛でそれが大きく見えるだけです。
 
 もうひとつ、このトロツキーの流れで重視しないといけないのは、アメリカのネオコン勢力なんです。アメリカのネオコン勢力の人たちというのはニューヨーク市立大学出身の人が多いです。ニューヨーク市立大学はサークルボックス別に第一ボックス、第二ボックス、こういう名まえになっているわけです。そこの第二ボックスの人たちというのが、将来ネオコンになるんです。第一ボックスはスターリン主義者です。第二ボックスはトロツキストです。アービング・クリストルとかダニエル・ベルであるとか、ラムズフェルドさんなんかのネオコンの流れを汲む人たちの源流はこのトロツキストサークルです。そしてこの人たちは世界革命を行おうとしたのを、世界共産主義革命から世界民主主義革命に展開したわけですね。力によって世界を民主主義化していくという考え方で、その方式はトロツキズムと一緒です。ですから、ネオコンの人たちの強さというのは、国家権力を中心に暴力があるんだということを正面から据えてたことなんですよ。
 
 この観点からすると、国家権力の本質が暴力であることが、石川知裕さん、皮膚感覚でだいぶわかるようになってきましたね(笑)。実は小沢一郎さんという人はそのへんのことがよくわかっているのだと思います。国家に関するリアリズムについてあえて言いますが、スターリンと小沢さんとは相通じるものがあるんですね。党の作り方の方式、レーニン、スターリンと小沢さんには相通じるものがある。ここのところは良い悪いということではなくて、組織論の観点から、暴力を持っている国家をどう制御していくか。暴力を制御することは暴力によってしかできない。政党の中で合法的な暴力をどのようにして持って、官僚たちが無意識に自然に行使している暴力に対抗していくのかという、力によって力をどう対抗させていくのかという、この論理がよくわかっている人が小沢さんなのです。

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