読み物黄金の国の少年たち

▼バックナンバー 一覧 2010 年 12 月 15 日 大瀬 二郎

貪欲な国王

 コンゴ北東部に位置するイトゥーリ州は、1998年から2003年にかけて、隣国のウガンダとルワンダに占拠され、その間に両国は膨大な貴金属の鉱山を管理していた。平和条約が結ばれた後にコンゴからの撤退を強いられるが、貴重な収入源を手放したくない両国はコンゴ人の武装グループを巧みにコントロールして鉱山地帯を影響下に置き続けた。ウガンダはレンドウ族の武装グループ「国民主義・統合主義戦線=FNI」、ルワンダはヘマ族の武装グループ「コンゴ愛国同盟=UPC」を作り上げる。1999年以降、両者の縄張り争いによってイトゥーリ州だけでもおよそ5万人の民間人が命を落としていた。訪問した当時、モンゴワル村はFNIのコントロール下にあった。
 
 15世紀にポルトガル人がこの地に到来して以降、ありとあらゆる天然・地下資源はコンゴの人々にとって「災いの根源」となった。1885年、ヨーロッパ諸国間でのアフリカのばら売りを事実上の目的として開かれたベルリン会議でレオポルド2世はコンゴを私有地として獲得することに成功する。皮肉にも「コンゴ自由国」と名づけたが、貪欲なるベルギー国王はゴムや象牙の採集のために現地人を奴隷同様に扱った。ノルマを達成できなければ、レオポルド2世の私兵が手を切り落とすなど残忍で苛烈な搾取政策を実施する。レオポルド2世統治下の30年間、コンゴの人口は虐待によって半減したと推測されている。当時先進国でのゴムタイヤの開発に伴い、天然ゴムの需要が急増し、レオポルド2世は巨額の富を得ることとなった。このレオポルド2世の悪政は現地で布教していた宣教師などから批判されていたが、自らコンゴに一歩も足を踏み入れることがなかった王は『コンゴ自由国』は人道的活動のために設けられたのだと言い張り続ける。
 
 しかし1900年以降、イギリス人ジャーナリストのエドモンド・モレル、アメリ カ人作家のマーク・トウェィンや、自らのコンゴでの体験を元にして書かれた傑 作『闇の奥』の著者ジョセフ・コンラッドによる批判が引き金となり、コンゴ自由国の実態が世界に暴露され国際的な批判を受け始める。そして1908年、最終的にレオポルド2世はしぶしぶコンゴを手放すことを強いられ、ベルギー議会管轄下の植民地となる。  レオポルド王からベルギー政府に管轄権が移ったコンゴでは植民地化がさらに進む。キンシャサを筆頭に各都市の大通りには、欧風の家屋、ホテル、カフェ、博物館、キリスト教の大聖堂などが次々に建設され、荒涼とした貿易拠点地区は、どんどんヨーロッパ化していく。1950年代には1万7000人のベルギー人が移住した。その間、コンゴの天然・地下資源の採取によって膨大な利益を得たベルギーは、1830年にオランダから独立した歴史の浅い小国であるにもかかわらず、ヨーロッパでの影響力を増し、その富を豪華絢爛な美術館や官庁のビルなどの建設に費やした。1960年の独立後にはモブツ大統領による独裁政権、その後の混沌としたほぼ無政府状態の期間を経て今日に至るまで金、ダイヤモンドとコバルトなどが、コンゴにおける紛争の「火薬庫」となっていた。広島に落とされた原子爆弾リトル・ボーイに使われたウラニウムはコンゴ原産のものだった。
 

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