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●島が「発展」の中で失ったもの
八丈島で生まれ育った長田が島の発展の歴史を振り返ると、子供のころ島は、今よりももっと自然が豊かだった。海に潜ればすぐにとこぶしが取れたが、歳を重ねるにつれ海藻がなくなり、とこぶしが徐々に姿を消した。
八丈島の公害問題の走りは、高度成長期に起きた大型タンカーによる廃油の海洋投棄だった。海岸に多くの廃油が漂着し、漁業・観光・住民の生活に大きな影響を及ぼした。一九七一年には廃油監視員制度を設け、坂下、坂上で、監視員を各二名、配置した。ことの本質は、廃車の事例と何も変わらない。税金で処理を賄っていたのだ。
長田は、子どもの頃の記憶に残る、とこぶしがたくさんいる豊かな海を取り戻すため、高校を卒業するとすぐに、東海大学の海洋学部水産学科に入った。大学ではあわびの増養殖を学んだ。卒業後は、北海道の増毛町のあわびセンターで働いた。アワビの増養殖に関しては、かなりの知識を持った。その部署を任されていたが、長男だったため、三三歳の時に実家の家業を継ぐために北海道から八丈島に戻った。
それは、一九九五年のことである。マイクロソフト社が、ウィンドウズ95日本版のOSをぶら下げてやってきた年だ。そのときに長田は八丈島に帰郷した。長田は、インターネットによるクサヤのネット販売をはじめた。八丈島だけでなく、日本のクサヤのインターネット販売の先駆者である。インターネットが世界の情報や産業に革命をもたらしたが、人間の、ひたすら生産し、消費し、廃棄するというその本質は全く変わっていない。
一九五五年から一九七三年までの日本の高度経済成長期と呼ばれた時代には、そして日本人が海外旅行に比較的容易に行けるようになる一九七〇年代後半までは、新婚旅行で八丈島に本土からたくさんの観光客が訪れた。「東洋のハワイ」などと騒がれ、観光客を招き入れるため、空港の整備、島の港の整備、ホテルの建設、町立病院の建設、道路の拡張工事、火力発電所の建設、それに、ゴミ焼却場の建設が行われた。それらを人々は「発展」と信じて疑わなかった。戦後、本土と離れた離島には今よりもモノがなく、モノを無駄にしなかった。本土からの観光客は、高度経済成長の副産物である大量のゴミを生みだし始めた。
高度成長期以前には、島にはゴミを処分する施設など存在していなかった。もっとも古い記録としては、一九六七年に八丈島にじんあい焼却場ができ、一九七五年にはバッチ燃焼ゴミ焼却場が完成したとある。戦後、島にはどんどんモノがあふれ、「発展」していった。産業が発達する中で、ゴミの処分場が必要になり、先に述べた中之郷ゴミ埋め立て処分場も一九七三年に作られた。
八丈島の自然の恵みであるきれいな「水」は、昨日今日の自然の営みで生みだされるものではない。他方、日々の人間の活動によって生み出される「ゴミ」は、経済活動に伴い、どんどん増える。最終処分場がないと、島じゅうゴミだらけになってしまう。ゴミを焼却処分する現代人の営みがある限り、処分場の不要を訴えることはできない。そこで起きていることは、産業の発展と浪費によって地球の淡水資源が枯渇に向かっていることとも無縁ではない。「水」と「ゴミ」という、この対称的なモノを八丈島というミクロな共同体の視点でみると、今後、世界中どこでも起きうるグローバルな問題につながる。
人がたくさん住む場所には最終処分場はできない。人気の少ない自然豊かな環境の場所に処分場が作られる。ある日、自分の生活用の水源のそばに、ゴミの最終処分場が出来る可能性は誰にも否定できない。そして日本中の安心安全と謳われる処分場でも汚水漏れの例が後を絶たない。人目につかず、現状が分からないようにふたをしたまま、それらの事業は進んでゆく。焼却灰の処分を認める限り、日本中の処理施設は後へ引き返せない。安全な「水」の確保と「ゴミ」の処分問題――私にとっては、ゴミ問題に揺れる八丈島の歴史を縦軸に、お上主導の公共事業の在り方、人間の所業を見つめる取材だった。