読み物サブサハラの春はまだ

▼バックナンバー 一覧 2012 年 2 月 15 日 大瀬 二郎

歴史に残る日

投票日の朝、キンシャサは薄い霧に覆われ少し肌寒かった。空が白んできたころ、投票所の外には、すでに長い列が出来ている。厳粛な表情で行列をつくる人々は、オレンジ色の登録カードを固く握りしめ、門が開くのをじっと待っている。停電中だったが、ランプの明かりの下で選挙役員が最終準備を行なっていた。

当日はコンゴ政府軍、そして大統領護衛兵、副大統領の私兵の全てがバラックで待機するという合意がなされ、白塗りの国連PKO装甲車が、空色のヘルメットをかぶった兵士を乗せ、物々しい音を立ててパトロールをしている。国連としては、意地でもこの選挙を無事に終わらせるといった感じだった。近年、人口が1000万人近くに膨れ上がったキンシャサで投票所を確保することは困難だった。とにかく屋根さえあればいいと、様々な建物に独立選挙委員会のオレンジ色のサインが貼り付けられ、投票所に変身した。

前回の選挙は1960年。投票の列に並ぶほとんどの人達にとって、これが初めての選挙だった。投票者のほとんどが戸惑い、プライバシーを守るために設置された仕切りの入った投票ブースを使わず、選挙役員に助けられながら、候補者の顔写真の横にチェックを入れる人が多かった。新聞見開きサイズの投票用紙で投票箱はすぐ一杯になり、入りきらなかった用紙は、箱の横に山積みになっている。もちろん日本や欧米では選挙法違反になるだろうが、コンゴで選挙が行なわれただけでも奇跡のようなもの、仕方がないといった雰囲気だ。この日キンシャサに漂っていた凶兆は、時間が経つにつれて薄れていく。普段は列などを作らず騒々しいキンシャサの人達が、根気よく自分の番を待っている様子を見ていると、何か胸に込み上げてくるものがあった。心配されていた武力衝突も最小限に収まり、コンゴ全国に設けられた、およそ5万の投票所は、日暮れとともに門を閉じ、懐中電灯と灯油ランプの下で開票が始まった。「最悪のシナリオ」を懸念していた人々は皆、ほっと胸を撫で下ろしたことだろう。翌日入っていた、フランスの日刊紙ル・モンドの仕事の依頼がキャンセルになる。選挙がスムーズに行なわれ、新聞が「期待」していたごたごたが起こらなかったからだ。仕事を失ったものの、その夜は柄にもなく口笛でも吹きたくなるような気分だった。

投票後の数日間、人々は選挙結果を息を呑むようにして待つ。数々の国から送られた選挙監視団体によると(日本も数人派遣)、投票は全国で予想外にスムーズに行なわれ、投票率は80%に達した。選挙の最終結果は投票日の3週間後に発表される予定だったが、独立選挙委員会は一週間後に途中結果を公表し始める。予想通り、カビラが東部、ベンバが西部を制している模様だが、勝利者を公表するには、まだ早すぎるとの報告。この間、コンゴ南部の国境にアンゴラ政府軍が張り付くように待機していた。表向きの理由はコンゴが混乱状態に陥った際に自分たちの国境を守るためだと説明したが、ベンバが率いる反乱軍との紛争が始まった場合、カビラを援助するための動きであるのは周知の事実だ。

投票日から3週間後、大統領選の結果がついに発表される。カビラ44%、ベンバ20%、そしてベテラン政治家ギゼンガが13%。過半数を獲得できなかったカビラとベンバによる決選投票が、10月末に行なわれることとなる。カビラが圧勝できなかったために、キンシャサでは大規模な暴動は起こらないだろうと予想されていたが、結果が発表された日の午後、カビラとベンバ両派の衝突が始まる。各国の外交官があわててベンバの私邸に足を運び、休戦の交渉をしている最中に、カビラの大統領護衛軍が砲撃を開始。外交官達は地下の防空壕に缶詰になり、数時間後に国連平和維持軍によって救出されることとなる。戦闘開始後の3日目、両サイドが休戦に合意し、キンシャサの中心部から兵士が撤退を開始する。暫定政府は23人が死亡、43人が怪我を負ったと発表したが、実際の死傷者の数はそれをもっと上回っただろう。停戦後のキンシャサには緊迫感が満ち、破裂寸前の風船のようだった。

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