読み物サブサハラの春はまだ
改革の波
ガボンやコンゴなどのアフリカの国々は、エジプトやチュニジアでの騒乱・改革の要素となったものを共有している。長期独裁の下、アフリカ各国の若者達はエジプトとの若者と同じ挫折感、未来への失望や落胆を抱えている。だがなぜ同じスケールのデモ・反乱が今まで起こっていないのだろうか?
チュニジアやエジプトで勃発した非暴力デモは国際メディアによってリアルタイムで中継・報道され世界を感嘆させた。カイロからの映像は特にテレビメディア向きで、中近東の一大事件として24時間絶え間なく報道された(もちろんチュニジアもエジプトもアフリカ大陸にあり、アフリカ連合のメンバーだ)。特にアラブ系衛星ニューステレビ局のアルジャジーラはチュニジアやエジプトの騒乱・革命の成功に大いに貢献したと言われている。
タハリール広場でのデモが生中継で世界各国に報道されている最中、ガボン各地でも小規模なデモが勃発し、改革の波はガボンの白い砂浜にも寄せた。だが警察や軍隊はデモを暴力的に鎮圧、民営テレビ局は閉鎖され、数人の反政府の政治家が逮捕される。だがこのデモのニュースは世界の人々の耳には届かなかった。「サブ・サハラ・アフリカ」という表現がある。サハラ砂漠南部のアフリカを指す言葉だ。アラブ人が人口の多くを占める北アフリカとは異なり、黒人が主な人口を占めるため、「ブラック・アフリカ」とも称される。報道されることが希なサブ・サハラ・アフリカでは、ガボン以外の数国でも(アンゴラ、カメルーン、ジンバブエ、ウガンダ、スーダン)デモなどが起きていたが、国際メディアはそれをほぼ無視した。このメディアの無関心さが、サブサハラ・アフリカへ押しよせてきた改革の波が勢いを失った原因の一つとも言われている。
ガボンは人口わずか150万人ほどの小国だが、言語や文化の異なる40以上の民族によって構成されている。植民地時代に、宗教、言語、文化が多様で複雑な民族構成を無視した国境がひかれ、その結果、サブサハラ・アフリカの国々の情勢は民族・部族間で分裂している。クーデターや不正な選挙で実権を握った権威主義者達は、民族・部族を対立させ、国を分割することによって、国家を統治してきた。対比して、エジプト、チュニジアなどはほぼ単一の人種、言語、宗教の社会構成を持ち、国民が団結しやすい要素があったことが革命が成功した理由の一つとして挙げられている。
失業率が高く、経済活動が低迷したエジプトやチュニジアでは、強権的な政府に対する不満の蓄積した若者が革命の中核となった。北アフリカの若者達は、フェースブックなどのソーシャルメディアを駆使して連絡を取り合い、デモのプランを練った。しかし、サブサハラ・アフリカの人々は、北アフリカの諸国の人々より格段に貧しく、大多数の人々が、生き残るため、食にありつくために毎日奮闘している。それ故に、デモを起こす余裕がない。しかも過度の貧困のために、サブサハラ・アフリカの国々のネットの浸透率は低く(ガボンでは6・4%。ちなみに、エジプトのネットの浸透率は21・2%、チュニジアは34%)、デモのコーディネートに不可欠となった、ネットへのアクセスがサブサハラ・アフリカの人たちには極端に限られている。
ではエジプト・チュニジアで起きたような革命は、サブサハラ・アフリカでは不可能なのだろうか?
エジプトやチュニジアで、権威主義者・政府を覆したのは、ニュー・メディアによって新たなパワーを得た国民一人一人の行動だった。人権尊重と民主主義を唱える一方で、かつては冷戦戦略、今日はテロ対策という理論で強権的な政府や権力者を支持し続けてきた欧米や旧ソ連圏の諸国によるものではなかった。今後もアフリカの数々の国で選挙が行われるが、数国を除いて、サブサハラ・アフリカでは不正な選挙による独裁の継続と軍の指導者によるクーデターが、これからも繰り返されるだろう。この悪循環を破壊することができる唯一の勢力は、ピープルパワーによる改革、反乱かもしれない。
昨年末、私が暮らしているエチオピアの反政府グループからメールがしばしば届いた。エジプトで起こった改革を触媒にして、我らも立ち上がるべきだという内容のものだ。このグループは国外に逃亡・追放された人たちで創設されたものがほとんどで、アメリカや欧米がベースのグループのホームページはエチオピア政府によってブロックされているため(エチオピア政府に批判的なメディアのHPもそうだ)、ジャーナリストなどには電子メールでニューズレターなどが送られてくる。
エチオピアは事実上一党制下にある。エチオピアの政党連合であるエチオピア人民革命民主戦線は、1989年に反政府勢力として結成され1991年に社会主義軍事政権を打倒し、今日まで20年間政権を握ってきた。国際社会、特に欧米のプレッシャーにより、2005年と2010年に選挙が行われたが、双方とも、与党が政府の資材を利用し、脅迫を用いたりした不正の疑いが高く、国際標準に達しないものだと、国際選挙監視団体から批判されている(2005年の選挙ではデモの鎮圧により193人が死亡、昨年の選挙では国会の546議席で野党は1議席だけ獲得したという結果)。チュニジアで「ジャスミン革命」が開花している最中、エチオピア政府は米や砂糖などの必需食品の価格に臨時の上限を定め、ジャーナリスト・活動家を監禁するなど、デモを防止の先制対策をとる(エチオピアは世界で最多のジャーナリストが監禁されている国だと非政府組織の「国境なき記者団」が発表している)。
2012年2月末、アフリカ連合の総会がアジスアベバで開かれ、数多くの大統領が中国によって寄付されたまっさらの議事堂に集まった。その中には「アラブの春」で激変したエジプトやリビヤから送られた外務大臣も(総理大臣や大統領はまだ選ばれていないので。チュニジアからは国会によって選出された大統領が参加)。中国の大学の建築学部間で行われたコンテストの勝利者のデザインに基づいた、スペースシップのような建物の総額は家具をふくめて総額2億ドル。中国のアフリカの地下資源への関心はアジスアベバで最も高いビルを見上げれば、はっきりと把握することができる。西欧からの統治改善の促進などの条件付きの援助とは異なり、資源を送れば発展に欠かせないインフラの建設を行うという、中国による援助は完全にビジネスのみ。「アフリカと中国との関係はWin-Winだ」とエチオピアの総理大臣マラス・ザナウィは議事堂の除幕式で宣言する。
「Development before Democracy(民主化の前に開発を)」というスローガンを最近よく聞くようになった。権力を手放すことを拒むアフリカのリーダー達が率いる多くの政府は中国スタイルの援助・貿易によって豊かになりインフラは増設される。中国同様に地下資源を確保することが第一の目的である先進国が西欧スタイルの民主化のモデルを押しつけることに矛盾があることには同意できるのだが、果たして幾世代後に本当の民主化がサブサハラで実現されるのかと、中国人民政治協商会議主席の賈慶林の延々と続く演説に拍手を送る各国の元首達の写真を撮りながら考えた。
*このレポートは、『われらのインター』に掲載した原稿に、最新情勢を加筆したものです。