読み物砂漠に広がる白い町
三、波乱に満ちた歴史
今回の干ばつを飢饉に追い込んだ原因の一つはソマリアの混沌とした状勢だった。波乱に満ちたソマリアの歴史の中で、ソマリア人同士の争いだけではなく、隣国や、アメリカ・旧ソ連を筆頭とした先進国、そしてアル・カーイダなどによる介入があり、そのひとつひとつが現在の災厄を招く要因だった。
ソマリアの人々の文化、言語、そして宗教は共通したものだが、ソマリア社会は長老によって率いられる数々の氏族によって分割支配され、歴史上、各氏族を束ねる政治的に統一された社会は今まで確立されていなかった。
7世紀から10世紀にかけて、北はアラビア半島を見渡すアデン湾、南はインド洋に接するソマリアの海岸線に、アラブそしてペルシア人が貿易ポストを設立し、内陸は放牧民族によって占拠されていた。「アフリカの角」でのイスラム教の歴史は古い。西暦610年前後に開祖ムハンマドが布教を始めたイスラム教はメッカで迫害をうけたため、信者達は各地に逃亡・移住した。その中の一つが今日のソマリア北部にある、アデン湾に面する港町のゼイラ。16世紀にはトルコのオスマン帝国が北海岸を統治し、アフリカ東海岸のインド洋上にあるザンジバル諸島のスルタン(君主)が南海岸を統治していた。19世紀以降ソマリアは、インドやアジアに航行するヨーロッパ諸国の食物、燃料の供給地として、フランスは現ジブチに、イタリアは現エリトリアに、そしてイギリスはソマリア北部の海岸に植民地を設立した。
19世紀末から20世紀始めにかけて行われた、「アフリカ分割」と呼ばれる、ヨーロッパ7カ国によるアフリカの支配権の争奪の結果、ソマリアは北部がイギリス、南部がイタリアによって植民地化されることになる。モガディシュを首都としたイタリア領となった南ソマリアでは、多くのイタリア人が移住し、柑橘類やバナナのプランテーションが運営されていた。その後、ムッソリーニのファシスト政権によって率いられたイタリアは、「アフリカ分割」によって植民地化されなかったエチオピア帝国に目を向ける。1936年、イタリア軍は飛行機と毒ガスを使ってエチオピア、そしてイギリス保護領のソマリア北部を占領し、エチオピアの首都アジス・アベバを拠点する、エリトリア、エチオピア、そしてソマリアを含んだ「イタリア領東アフリカ」を設立。だが第二次世界大戦の最中の1941年、エチオピアやアフリカ数か国の兵を混じえた、イギリス軍率いる連合軍が、イタリア軍をエチオピアと北ソマリアから撤退させることに成功し、フランス領のジブチを除いたソマリア全土をコントロールすることになった。
第二次世界大戦終結後、ビッグ・フォーと呼ばれていたイギリス、フランス、アメリカ、そしてソ連によるソマリア統治の交渉が始まり、1949年、北部はイギリスの保護領、南部はイタリアを施政権者とする国連の信託統治国になることが決まり、ソマリアが再度南北に分割されることになる。19世紀末からエチオピア帝国が占領していたソマリア南西部のオガデン地方は、エリトリアと共にエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝に引き渡されることになった。
1960年6月、北ソマリアと南ソマリアが数日違いで独立し、さらにその数日後、両国独立以前に合意されていた南北統合が実施され、ソマリア共和国が生まれ、歴史上初めての統一が実現した。総理大臣と各大臣が首都モガディシュで開かれた議会で選ばれ、議席は氏族間で分割された。この国連を通じ、西欧諸国が押しつけた中央集権をフレームワークとした建国は、歴代存在してきた、地方分権化されたソマリア社会の実情を反映したものではなかった。