読み物砂漠に広がる白い町
四、冷戦・東西対立の影
冷戦の最中、アフリカ各地同様、ソ連と欧米間の対立がソマリアでも繰り広げられる。1963年、ソマリ族が主に居住するエチオピアのオガデン地方で、分離・独立を求めて反乱が勃発する。これが引き金となり、反乱軍を支持するソマリアとエチオピアの間で戦争が勃発。アメリカが率いる西欧諸国はエチオピアを、ソ連はソマリアを支持した。この戦争で敗北を喫したソマリア新政府は、氏族関係を色濃く反映した人事登用や汚職が後を絶たず、その後、強権的な傾向を見せ始め、国民の間に政権への不満が広がり始めていった。
1969年、ソマリアの第二代大統領アブディラシッド・アリー・シュルマルケ大統領がボデーガードによって暗殺された。数日後、ソマリア陸軍のシアド・バーレ少佐がクーデターを決行、憲法を停止し自らが大統領に就任して実権を握ることとなる。クーデター直後、マルクス主義をベースにした軍事国家の設立を宣言し、「ソマリア民主共和国」と改名。建国当初、シアド・バーレ大統領は、前政権によるソマリア社会の敗退・混乱を招くことになった、氏族・縁故主義やそれに伴った汚職の撲滅を訴え、主要産業の国有化、男女平等、中央集権化を推し進め、アラブ連合にも加盟し、改革者として国民の支持を得た。しかし、氏族社会や伝統を無視し急進的で大胆な政策は最終的に挫折し、前政権同様、ソマリア社会に混乱を招く結果となる。改革の終焉を目前に、疑心暗鬼のシアド・バーレは、自ら、そして身内が属する氏族のメンバーに政府・経済・軍事重要なポストを与え始め、根絶を誓ったはずの氏族・縁故主義を復帰させるなど、自らの権力を維持するために一党独裁体制に転換することになった。
1974年、エチオピアのオガデン地域で分離・独立の反乱が再開、反乱軍を支援したソマリア軍は、1977年、オガデンに侵攻。その数年前にクーデターによって帝政を覆し共産主義を宣言していたエチオピアのメンギスツ・ハイレ・マリアム大統領は、1978年2月、ソマリアとの間で「オガデン戦争」を開始した。
開戦後、ソ連は社会主義両国間の仲介を試みるが、最終的にソマリアへの援助を停止し、以前は帝政期にアメリカに支援されていたエチオピアと友好条約を締結。ソ連が率いるキューバ、南イエメン、北朝鮮や東ドイツなど、共産主義陣営による武装支援がエチオピアに開始された。これに対し、アメリカ、中華人民共和国(当時ソ連と対立していた)、チャウシェスクによって独自路線をとっていたルーマニアがソマリアを支援。冷戦における代理戦争となった「オガデン戦争」は「アフリカの角戦争」と呼ばれる。エチオピア軍がオガデン地域を越えてソマリア領内深くに侵攻し、エチオピアに在住していた多数のソマリ族民がソマリアに流入し、ソマリア国内に大混乱を引き起こした。開戦から十年後に敗北を喫すると、すでに衰退していたシアド・バーレの権威はさらに失墜し、ソ連にも完全に見放されることとなった。それでもシアド・バーレは権力の座にすがりつくため、アメリカの軍事・経済援助と引き替えに、ソマリア北部に位置するベルベラの港と空軍基地の使用許可を与えるなど、手段を選ばなくなっていった。
シアド・バーレ政権打倒の機運が国内で高まった「オガデン戦争」の敗北の前後に、冷遇されてきた氏族を中心に反政府組織が次々と結成され、その対立が激化し、ソマリアは内戦に陥る。権威が失墜していたシアド・バーレは、ついにアメリカにも見放され、その後モガディシュに追い込まれ、「モガディシュ市長」と称される地方勢力の首領の一人となった。1990年の12月、シアド・バーレは、「オガデン戦争」で軍を率いたモハメッド・アイディード将軍と、ソマリア連合議会(USC :United Somali Congress)の指揮者アリ・マハジ・ムハマドが率いる武装勢力によって打倒され、翌年国外へ逃亡。数年後ナイジェリアで心臓発作によって死亡した。アリ・マハジ・モハメッドは自らを暫定大統領として一方的に宣言することによって、元盟友のモハメッド・アイディードと対立し、激しい戦闘がモガディシュで繰り返され、アイディード派とモハメッド派の対立は今日まで続いている。1991年5月、旧イギリス領北部が分離・独立を宣言し、ソマリランド共和国が発足する。