読み物砂漠に広がる白い町
八、死の海を隔てて
MSFの栄養失調安定化センターでカロリーナ・ナンクラレス医師にばったり出会う。彼女に前回会ったのは3年前、イエメンの南部のアデン湾に面する小さい漁村だった。
スエズ海峡につながるアデン湾では国際経済に影響を及ぼしているソマリアの海賊が注目を浴び、日本も自衛隊を派遣した。その同じ海を、ソマリアの困窮から逃れるため、多くのソマリア人が命がけで渡っていた。
UNHCRによると、私がイエメン南部を訪れた2008年、1年間で5万人以上の難民がソマリアから密航船でアデン湾を渡り、イエメンにたどり着いていた。難民は毎年増加し、前年の2倍となるこの数字は、暫定政府軍と反政府武装勢力の戦闘が続くソマリアの情勢悪化を物語っていた。難民の一人が言う。「だれもが自分が一番パワフルだと言い張って争い合っている。ソマリアには将来はない」。年間400人の遺体がイエメンの浜に埋葬され、400人が行方不明。そのほとんどがますます悪化する情勢を逃れて来たソマリア人。そこには政治、経済的に圧迫されているエチオピア人も混ざっている。
ソマリアからの「脱出」は過酷を極める。難民は密航船にすし詰めにされ、未知の航海へ出発する。乗船中は水も食料も与えられず、身動きすれば密航業者に棒や銃で殴られる。イエメン沖に到着後、飢餓状態にある人々は、真夜中、岸から数百メートル離れた海に飛び込むよう強制される。密航業者が沿岸警備隊の取り締まりを恐れているためだ。下船を拒めばナイフで刺され、海に蹴落とされる。
「私と娘が船から放り出された後、娘が泳ごうとしているのが見えました。しかし娘は大きな波にのまれ、私は彼女の姿を見失いました」、2008年の11月、モガディシュ出身のハリマさんは、涙を浮かべてこう語った。祖国を「脱出」してから8日後の2008年の11月15日、ハリマさんは、娘のファタさんの遺体がイエメンの浜辺に打ち上げられているのを見つけた。
午前4時、携帯電話の音で目を覚ました。「ソマリアからのボートが数時間前に到着したとの連絡があった」と、MSFのアンドレアスさんから連絡。アデン湾に面する漁村のアフアーで、難民を乗せたボートの到来をじっと待っていた。慌てて蚊帳から這い出してズボンをはき、同行していた通訳とイエメン政府からの付き添いを起こした。雇っていた運転手にすぐ来るように電話した。
我々を乗せたピックアップトラックは暗闇につつまれた道を西に向けて走る。アンドレアスさんから聞いていた場所で舗装道路を離れ、砂丘を海に向けて走り出して数分後、タイヤが砂にのめり込み進めなくなった。4輪駆動に切り替えれば大丈夫だろうと運転手に言うと、実は4x4機能は故障中とのこと。じたばたしえいるうちにガス欠になってしまう。
ボートが到来した場所が遠すぎたり(イエメンの海岸線は2000キロ近い)、コンタクトとの連絡ミスのために、数日間で終える予定だった取材が一週間に延長され、持ち合わせていたお金が底を突きはじめる。そのため地方首都のアデンで雇った運転手と整備の行き届いたトヨタのランドクルーザーを手放すことになり、地元のおんぼろ車を雇うことになったのだ。あきれて物も言えず、暗闇の中を懐中電灯をてらしながら歩き始める。5キロほどの道のりだが、足が砂にめり込みなかなか速く進めない。するとしばらくして現地NGOのトラックとすれ違い、幸運にも乗せてもらうことができた。
砂浜に到着後、太陽が水辺線からゆっくり昇り始め、深夜にくり広げられた悲劇が次第に姿を現してきた。
10メートルほど先に、誰かが横たわっている姿が、日の出に照らされシルエットになって見える。近づいてみると若い女性だということがわかる。ハンドバッグをぎゅっと握りしめ、着ていたドレスもさほど乱れていない。彼女は休憩しているだけで、そのうち起き上がり自分と話をし出すような錯覚を覚えた。だがぱっちり開き、空を見つめていた灰色の瞳から生気は消え失せていた。
しばらくして正気を取り戻し、前方に広がる海岸線を見渡すと、美しい浜辺に一人、また一人と遺体が打ち上げられている。波打ち際にぷかぷか浮かんでいる遺体もある。取材のために遺体を見たことは数回ある。でもそのほとんどは残酷に殺されて血まみれで腐敗し始め鼻をつくものだった。だが、海に洗われ、朝日が暖かく照らす遺体の横たわる浜辺の風景が現実のものだとは信じ難かった。
その海岸を、幼児をおんぶし浜辺を行き来する少女に出会う。ファドゥアちゃんは、昨夜ボートから蹴落とされた後に離ればなれ離れになったお姉さんを見つけようと、浜に横たわる遺体を一人ずつチェックしていた(探しているのは背負っている甥のモハメッド君の母親)。1歳5ヶ月の幼児と共に命がけの旅を決行するところまで追い込まれた事実に驚嘆し、それと同時に、最悪のシナリオ(モハメッド君の母・ファドゥアちゃんの姉が溺死したこと)が思い浮かんでしまった。
運良く?浜辺にたどり着いた人たちは、低体温症のために寒風に吹きつけられた枯れ葉のように震え、身を寄せ合っている。MSFのスタッフによって配給されたペットボトルの水を飲み干し、ビスケットを食べ終えた後、一人、また一人と立ち上がり、海とは反対方向に歩き出してゆく。飢えて脱水状態の人たちに、いったいどこに歩き続けるエネルギーが残っているのだろう? 命がけでたどり着いた砂浜は、道路から遠く、彼らを難民センターに運ぶバスは来ることができないので、道路まで歩くようにと指示されたからだ。交通手段を失った自分も難民の後に付いて歩き始める。懸命に難民のペースに遅れないように歩いて30分後に道路にたどり着き、難民の人たちは待っていたバスに乗り込み出発を待つ。一直線に伸びる道路を、朝乗せてくれた現地NGOの白いピックアップトラックが通り過ぎる。お礼のために手を振って見送ったピックアップのトラックの後ろには、今朝命を失った人々の遺体が、白いビニールシートに包まれ乗せてあるのが見えた。
難民が体力を回復するためのセンターでグッド・ニュースを聞いた。甥をおんぶして浜辺を行き来していたファドゥアちゃんの、行方不明のお姉さんが漁師によって救出され、MSFのクリニックで治療を受けているとのこと。心臓をドキドキさせながら足を向けた。点滴を受け横になっている母親の顔をモハメッド君はベッドのそばでじっと見つめていた。自分は看護師と顔を合わせ、お互いにっこりと笑顔を交わした。
MSFによると、この日上陸を試みた195人のうち28人が落命、2人が行方不明となった。昨年7月、UNHCRは飢饉のためにイエメンに漂着するソマリア難民は急増し、8月だけでも3700人の難民が到来したと発表する。